第五章 凍星の在処
第1話 疑惑
肩に触れた泡雪が、柔らかく鞣された毛皮の上に舞い降り、融けて消える。ここ南部は冬でも温暖な気候で、雪などめったに降らない。それがまだ冬も深まらない
だというのに、氷を透かしたような淡い青の空から、まるで冬の到来を印象づけるかのように白雪がしんしんと降り出していた。
いよいよ果玄の月まで半月を切った。王の崩御まで残された日数はあとどれくらいだろう。
アルはクラヴィスから贈られた毛皮の合わせをきゅっと掴むと、暖を求めて跨った尾花栗毛の馬の背を撫でた。
この馬の名は、オロというらしい。クラヴィスが、実はグリエルモの愛馬だということを教えてくれた。
肩で切り揃えられた髪は今や蜂蜜色に染まり、外套の下には上等な仕立ての
今のところは、手配書とアルを見比べて眉を顰めるような人物はひとりも現れていない。
そろりと前方に目を向ければ、イニーツィオの姿が見えた。慣れた様子で、青毛の馬を駆っている。
ここ数日行動を共にしてきたが、まともに会話をできたためしはなく、ただ南部のキァーヴェ村に向かうという情報しか渡されていない。旅の行程をこなしている間はめったに口を利かないし、宿泊のために街に寄ったところでアルは放置されて、彼は部屋に夜ごと違う男を招いている。
「イオ」
呼びかければ、柘榴石の眸が振り向いた。
要らぬ騒動を避けるため、王太子殿下ではなくイオと呼ぶことだけは赦されている。
「なに?」
「なに、じゃありませんよ。そろそろあなたの目的を教えてほしいってわたし、毎日……いえ毎刻かも……とにかく何度も言ってますよね」
眉を吊り上げていささか強い口調で言えば、イニーツィオは速度を
(え、ど、どうしたの急に?)
今までどれだけ呼びかけても、適当な言い逃れをされてきたのだ。思わぬ変化に喜びよりも困惑が先走る。
「君、本当にしつこいよね」
その淡い笑みは、ドクトゥス城砦で見た人を小馬鹿にしたような類のものよりも、糸杉の森で見せた柔らかな微笑に近かった。
思えば、クラヴィスの元を離れてからと言うものの、その言動もやたらと人を逆撫でするような類のものではなくなってきている気がする。
アルも、答えをはぐらかされてこそいるが、一度も無視だけはされていない。
とはいえ、一昨日の彼の所業には頭痛を覚えた。彼は、東部と南部の境にある都市で葡萄酒を浴びるように飲んで男たちを侍らせたかと思えば、なにを思ったのか突然男娼たちに自らの真名を明かしたのだ。
イニーツィオは王太子づきの側近から常に逃げ回っていて、隠れているときはこちらも舌を巻くほどの徹底した偽装をしている。そのくせ、時折わざわざ愚にもつかない突飛な行動に出ていた。
「それだけがわたしの取り柄ですからね。話してくれる気になりました?」
「ううん」
「……なら、期待させないでくださいよ。まったくもう」
アルはぶつくさ文句を垂れながら馬を進める。
ふと視線を感じてイニーツィオを見やれば、なぜか顔を覗き込まれていた。
先日うっかり見てしまった上裸姿が瞼裏に浮かんで、頬に朱が走る。
「な、ななななんですか。っていうか、危ないですってば。ちゃんと前見てください、前! もうっ、王太子の自覚あるんですか? 次期国王がうっかり転落死とかしちゃったらシャレになりませんからね!」
「……それはないよ。エジカの《
そう言われてしまえばたしかにそうなのだが、だからといって危ない真似をするのはやめてほしい。
それにしても、雲を掴むように得体の知れない男だ。この間、「女ってなに?」などとアルに喧嘩を売ったのと同じ人物とは思えない。
(考えてみれば、殿下の発言は矛盾だらけなのよね)
今まで言梯師を任じることを頑なに避けてきたかと思えば、イシュハ語話者を求めてみたり、ルーナ=プレナに敬意を表してみたかと思えば、アルを女だからと軽んじてみたり。
なにより。
――俺は、君みたいな人に、次の王の王笏になってほしいな。
初めて会ったときの別れ際の彼の言葉が、喉に刺さった小骨のように引っかかっている。
口から出まかせの嘘か、気分で口にした意味のない発言だったのかもしれない。
だが、なんだかあのときの彼が言っていた“次の王”とは、彼自身を指している言葉には聞こえなかった。
まるで、彼ではない誰かが王になるのだとでも言うかのような。
(そんなわけ、ないのに……)
俯いて、狐の毛皮に冷たくなった鼻先を埋める。くしゅん、とくしゃみが出て、アルは行儀が悪いとは思いつつも洟を啜った。
ふと真横を見やれば、イニーツィオは馬から下りていた。
「この調子じゃ、日暮れ前に次の町まで辿りつけない。ここらで野営するから、ついてきて」
アルは地図に目を落として、渋面をつくる。アルはこの三年ほどは庶民として暮らしてきたものの、実は生まれてこの方王都カリタを出たことがなかった。
思った以上に旅慣れているイニーツィオ相手に意見するのは、なかなか勇気が要ったが、護衛もいないのに次期国王をその辺の茂みで寝かせるなんて考えられない。
意を決して、アルはイニーツィオを呼び止めた。
「もう少し行けば、デズィーオです。平坦な道ですし、急げば日暮れ前には着けると思います」
「デズィーオには行かない。今あそこ、厳戒体制で検問を敷いているから」
「検問? ま、まさか、わたしを探して……?」
「ちがうよ、君じゃない」
「……なんの検問ですか?」
「アダマスの惑乱の残党が南部に潜伏しているっていう情報が入ったらしいよ」
「……アダマスの惑乱って十八年前の……」
バルトロ国王が兄弟を皆殺しにして王位を得た、王国中を巻き込んだ内乱だ。
バルトロ国王は敵対した諸侯のすべてを殺し尽くしたわけではないので、残党がいるのは頷ける。だが、いまいち釈然としない。
そもそもあの内乱がなぜ起きたかといえば、先王が崩御しても次の王を定める《詩篇》が詠まれなかったからだ。
「今さら、残党が台頭してくるとは思えません。バルトロ国王陛下即位の《
「そ。だから、それは表向きの理由ってやつ」
言って、イニーツィオはオロの鼻面をなぞると、その歩みを止めさせた。
手を差し伸べられてアルは目を見開く。
「君、乗馬そんなに慣れてないでしょ。降りるとき、結構な確率で転げ落ちてるし。君の方こそ、いつか馬に蹴られて死ぬんじゃない?」
アルは頬を赤らめた。
「箱入りお嬢様の次は庶民暮らしじゃ、無理もないけど。いーよ、抱きとめてあげるから。おいで」
「ば、馬鹿にしないでください」
「馬鹿になんてしてないけど」
おそらくイニーツィオは言葉通り、親切心でアルを助けようとしてくれているのだろう。
だったら余計に、その手は取れない。アルはもう、沢山の従者に仕えてもらっているカントゥス家令嬢などではないのだ。誰かに額づかれて、お嬢様と呼ばわれる生はもう棄てた。
今のアルは王太子の臣だ。
「あなたみたいな奔放な主を持つ言梯師が馬にも満足に乗れないようじゃ、すぐに置いていかれてしまいそうですから」
むきになって言えば、どこか愉しげにイニーツィオは「そうだね」と嘯く。
(こんなことなら、乗馬の本をもっとまじめに読んでおくんだったわ)
もっとも、こういう技術や経験を伴うものは、書物を読んだところで一朝一夕にできるようになるかというと別物なのだろうが。
それからイニーツィオは手を広げるのをやめて、おもむろに口を開いた。
「最初に左足を鐙から外して」
「――え?」
「いいから、ほら」
有無を言わせぬ言葉に、言われた通りに左の足の先を鐙から抜く。
「それからお腹を馬の背に預ける。右足を上に上げて、馬を蹴り飛ばさないようにして、左足に揃える。そう。あとは少し反動をつけて馬から離れたところに飛べばいい」
両足で泥濘んだ地面の泥を跳ね上げながら、着地する。息を吐くと、アルは目を輝かせた。
こんなに上手く降りることができたのは、はじめてかもしれない。
「ありがとうございます! 殿下」
「殿下じゃないでしょ」
「あ、ご、ごめんなさいイオ」
「べつに、俺は敬語もなくて構わないんだけどね。ほら、俺って人望ないみたいだし」
そういう問題ではないし、そんな恐れ多いこと、もう二度とできるはずがない。
アルが言葉すら発せずに両手を上げて首を左右に振って断固拒否をすると、イニーツィオは小さく嘆息した。
それからおもむろに外套を脱ぐと、アルにそれを着せかける。冷え切った身体に、ぬくもりが残り香のように移って、じんわりと肌を温めていく。
「イオ!」
「後で返してくれれば大丈夫。俺はまだ寒くないし、君は旅も初めてみたいだし。君はなんでもかんでも男と同じか、それよりも上手くやらなきゃって思っているみたいだけど、それは今、主たる俺が求めていないわけ」
「でも……」
「体力差はどうしたってあるんだから、素直に受け取ってよ。はっきり言って、ここで君に倒れられる方がずっと迷惑」
歯に衣着せぬ物言いには反論の余地がなく、アルはぐっと押し黙る。屈強な男性の言梯師だったら、ここでイニーツィオにこんな気を遣わせることもなかったのかもしれない。いや、せめて女の身であっても身体を鍛えていたら。そう思うと、不甲斐なさで腹の底がじくじくした。
「ご――ありがとうございます」
一瞬謝りかけたところで、思い直してお礼を述べる。イニーツィオはわずかに口元を綻ばせると、自分の青毛の馬の手綱を引いて歩いていく。アルも慌ててそれに続いた。
――俺はイシュハ語話者を、と頼んだつもりだよ。それが女ってなに?
先ほどのイニーツィオは、クラヴィスにそう放言した人間と同一人物とは思えなかった。これがドクトゥス城砦で出逢ったイニーツィオだったなら、アルに外套なんか貸し与えずに、「それ見たことか、これだから女は」などと吐き捨てたはずである。
イニーツィオの言葉は分かりやすく優しいものではなかったが、アルを気遣っていた。女にそもそも期待していないがゆえかもしれないが、それとは少し違うような気がした。
(やっぱりこの人、矛盾がありすぎる)
今日こそ、なんとかして彼の化けの皮を剥がしてやろうと心に決めて、鬱蒼とした森に足を踏み入れる。
足元に目を落として、アルはあ、と声を上げる。
赤い
もう花期も終わりに差しかかっているのか、花びらも落ちかかり、翠玉色の葉も端から茶色く枯れ始めていた。
緋衣草はローデンシア南部の固有種だ。もっとも、最近ではその鮮やかな色彩と比較的に長い花期から、園芸用として国内の各地に出回っている。
(……ん? そういえば緋衣草って……)
そこまで思ったところで、アルは目を見開いた。ぞわ、と肌が粟立つ。それが寒さからきたものではないことは明らかだった。
(わたし、馬鹿だ。どうして気づかなかったの)
イニーツィオの言動は矛盾まみれに思えながらも、アルの主観の問題と言われてしまえばそれまでの、確証のないものだった。
だが彼の振る舞いのなかにひとつ、決定的な嘘偽りを見つけた。
アルは地面に落ちた乾いた赤い花弁を指でなぞり、一輪だけ地面から抜き取った。
(よくよく考えてみれば、さっきの検問の話も、核心に迫りそうなところでわたしが乗馬がヘタな話にすり替えてなかった?)
伝説の言梯師ルーナ=プレナに憧れるアルとしては、相手の話術で転がされて話を有耶無耶にされるというのはなかなか面白くないものだ。なんの疑いもなかった頃なら偶然だと思えただろうが、今は違う。
イニーツィオはおそらく明確な意志を持って、話を逸らした。アルを動揺させるような振る舞いも、話の内容も、計算づくで。
(ば、馬鹿にして。そりゃあ、わたしが未熟なのが悪いし、よくよく考えなくても殿下にしてやられちゃうわたしが全面的に悪いんですけど!)
アルはそろりと顔を上げる。百面相をしている間にイニーツィオとの距離は開いていた。
細く伸びた影が、藪の先で蠢いている。
愚かで、政務を果たさず、世継ぎをつくらねばならない立場にも関わらず男の尻ばかりを追いかけている、悪評に塗れた次期国王。
(……あの人、本当にみんなが言うようなアンポンタンのダメ王子なの?)
宵闇の迫りくる人里離れた森の中に、アルの問いに答えてくれるものはいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます