第2話 駆け引き
「ねえ、なんでそんなに拗ねてんの?」
「拗ねてません! 刃物使っているときは手元をしっかり見る!」
「ハーイ、お母さん。それか小姑さん? あ、でも一番近いのは撒いてきた側近の――」
「お母さんでも小姑でもあなたに置いていかれたかわいそうな某側近の方でもないですから! わたしは子どもの面倒を見にきたんじゃなくて王太子殿下の! 次期国王陛下の! お世話をさせてもらいにきたんです。シャキッとしてください。シャキッと!」
隣で野兎の皮を剥ぎながらイニーツィオが覗き込んでくるのを、シッシッと手で追い払い、やけっぱちになってアルが叫ぶ。
この世にも奇妙な王太子殿下はというと、アルが緋衣草の前でちんたらしている間に片手間で野兎を仕留め、さらには食べられる山菜をいくつか摘んでいたのだった。
アルはというと、火熾しの準備をしているところだった。
浅く掘った地面を石で囲んだ火床に、乾いた樅の葉と小枝を敷き詰める。そこに焚きつけとして採ってきた白樺樹皮を数枚押し込み、
地面に四肢をつけて、控えめに吐きだした息で空気を送り込む。火が一段と大きくなったところで、拾ってきた乾いた樫の木の枝を投入した。しばらくすると、ぱちぱちと薪が燃える耳に心地よい音が聞こえてくる。
「意外と慣れてるね」
「わたしのはただの頭でっかちです。実践ははじめてですし」
「じゃ、筋がいい」
「そ……それはありがとうございます」
蚊の鳴くような声で言って、アルはイニーツィオを見やる。
アルのことを貶すんだか褒めるんだか態度をはっきりしてほしい。今のイニーツィオ相手だと、アルは仕えるべき主にやたらと突っかかっている不敬極まりない臣下みたいだ。
(……客観的に見れば、実際にそうなんだけど)
どうしても、グリエルモのことを死にぞこないと吐き捨てたことが赦せなくて、つんけんしてしまう。
とはいえ、こんな奇怪な相手にいつまでも頑なな態度を取っていても仕方がないし、永遠に彼の本心が分からないままだ。そもそも彼が自ら申し出たとはいえ、王子に獲物を裁かせているのも本来であれば相当まずい。
「あの、イオはお休みください。わたし、これでも庶民歴は長いので、調理ならできますから」
「俺も放浪歴長いし、二人しかいないんだから二人で仲良くやろーよ。その方が早いでしょ。礼儀とか身分にうるさいおじさんたちはいないんだしさ。さっきも似たようなこと言ったじゃん」
――主たるイニーツィオが求めていない。
(そうかもしれないけど、気安すぎじゃないこの人?)
言われるがままに、アルは手に茸と小刀を握らされる。
イニーツィオは兎を捌き終えて、以前立ち寄った町で購った人参と玉葱の皮を剥き始めていた。自由すぎる。
(も、知らないわ)
手際よく茸を一口程度の大きさに切りながら、アルは思い切って疑念をぶつけてみることにした。
「あの、イオにはいっぱい聞きたいことがあるって言いましたよね」
本当だったらこんなふうに並んでご飯を作るなどという、和やかほっこり夜空の下でお料理教室みたいな空気の中でおっぱじめたくなどなかったが、イニーツィオがその気なら仕方がない。
夕食を食べ終えたら、また欠伸でもかまされて夢の世界に旅立たれてしまうことが目に見えている。
「うん?」
「ひとつでいいです。ひとつだけ質問に答えてください。嘘はなし」
「それ、俺になにか利益ある?」
小憎らしい口ばかりよく回る。
アルは小さく息を吐いて、小刀を置いてからイニーツィオの目をじっと覗き込んだ。
「わかりました。わたしもひとつだけ、あなたの言うことを聞きます。ただし、」
「他の誰かを傷つけるような命令は聞けません、でしょ。……俺も条件がある。なにを聞いても誰にも告げ口しないって、約束してくれる?」
アルは目線を彷徨わせた。やはり一筋縄ではいかない。もしアルの疑っていることが真実であるならば、それを公表するだけでも金剛宮は大騒ぎになる可能性があったのに。
とはいえ、贅沢は言っていられない。
「お約束します。わたしの秘密にかけて」
「……いいよ。ひとつだけ本当のことを喋ってあげる」
アルはパッと顔を輝かせたが、すぐに思い直した。相手は自称・嘘つき大王だ。
「あ、疑ってる? じゃあ、これにかけて誓うよ」
言って、イニーツィオは髪を掻き上げた。
形の良い耳に、小ぶりの耳環が嵌まっている。ちらちらと揺れる炎を照り返して七色の輝きを纏っているそれは、アダマス王家の象徴たる、金剛石だ。
「……イオは、王家のことを大切に思っているんですね。それはちょっと、意外、かも……」
これだけ好き放題して父たるバルトロ国王にも異母兄たるナザリオにも大迷惑を被らせているのだ。王家なんて糞くらえ、くらいに思っているのかと思っていた。
「……それが質問なら答えるけど」
「わ、今のナシ! 今のはなかったことでお願いしますっ」
慌てて言い募ったところで、下ごしらえが完了する。
イニーツィオは鍋のなかにまず兎肉を放り込んで、水袋から水を注いだ。なんでもまず灰汁を取らなければならないらしい。
「それで、君が本当に聞きたいのは?」
「これ、さっき草むらで見つけたんです」
「ああ……緋衣草。俺と君、よほどこの花と縁があるみたいだね」
イニーツィオの応えにアルはぐっと拳を握り、不敵に笑った。
「な、なに?」
「このお花の名前、ご存知でしたね」
「それがどうし――」
イニーツィオはそれきり言葉を失う。
やはり、思ったとおりだ。
イニーツィオがローデンシア語を喋れないというのは、真っ赤な嘘だ。
『緋衣草』はローデンシア名で、そもそもハラ語には訳されていない――つまり、ハラ語話者には存在しないも同然の花の名前だ。
ハラ語はまだ生まれて間もない言語であり、発展途上にある。
ローデンシアにしかない文化や、動植物の名称といった固有名詞までは、ハラ語はまだ網羅できていない。
ハラ語はいにしえの言葉がもたらす脅威を取り除きこそしたが、同時にローデンシアが千年以上の時をかけて育んできたものを置き去りにしてしまっていた。
アルは日常生活でローデンシア語もハラ語もごく当たり前のように使用しているから、気をつけていても時折両方の言語を混同させて喋ってしまうことがある。
だから初めてイニーツィオと話したときも、彼が緋衣草の名を口にしても全く違和感を抱けなかった。
だが、もしイニーツィオが本当にローデンシア語を毛ほどにも理解できないのなら、知るはずもない言葉だ。
考えてみれば、一般的な貴族であっても花の名前やその花言葉まで知っているのはなかなか珍しい。――よほどの教養を身につけていなければ。
「――たまたま、この花の名前だけ教えてもらったんだよ。自分ちに咲いている花の名前だし、気になって」
アルはぐっと押し黙った。隙のない答えだ。
その答えは半ば予想していた。そしてそれを持ち出されたら、アルには否定する手段はないことも。
だが、拳を握りしめたアルにイニーツィオはあっさりと手のひらを返してみせた。
「――って答えても良かったんだけど」
ハラ語ではなく、ローデンシア語だった。イニーツィオは、匙を持って呆けたように口を半開きにして固まっているアルの手からそれを奪って、灰汁を取り始める。
「誓うって言っちゃったからね。君の言うとおり、俺は本当はローデンシア語が喋れる。これで満足?」
イニーツィオはなんてことない調子で続けて、小首をかしげる。
彼はそのまま飲食用の匙を鍋に突っ込んで、掬い取った小さな兎肉に息を吹きかけて冷ましさえした。
「はい、味見。まだ味つけしてないけど、君、兎初めてでしょ」
次の瞬間にはもうハラ語でそう言って、匙をアルの口元に差し向ける。
アルはハッと鼻で笑った。
「その手には乗りませんよ! 話はまだ終わっていません。わたしが聞きたいのは、なんでそんな意味の分からないことをしてるのかってことです! 喋れる振りならさておき、喋れない振りするなんて、それこそあなたに利益はありません。どういうことか説明してください!」
「……それには答えられないなあ。だって君、質問はひとつだけって言ったもん」
今度こそアルは押し黙った。その通りだ。あわよくばと思ったがここまでらしい。
差し出されたまま行き場を失った兎肉入りの匙をイニーツィオの手ごと掴んで、彼の口元へと運ぶ。
「どうぞ、味見」
ヤケクソ気味ににっこりと微笑んで言えば、イニーツィオは垂れ気味の目をとろりと蕩かせて口を開けた。乾き気味だった唇を舌が這い、いとも簡単に肉が口内に吸い込まれる。
一応腐っても王族なだけあって、食べ方はとても上品だった。
「ごちそうさま」
咀嚼し終えると、耳元にそんな声まで落ちる。
囁きが触れたところから、熱病でも起こしたみたいに火照りが伝わっていく。
アルとたった二歳しか離れていないのに、この艶っぽさといったらどうだ。
しかも相手は、男にしか興味がないのに。
この感じは、前にも覚えがあった。初めて会ったときもアルは、彼に雛鳥に餌を与える親鳥よろしく
(こ、こういう返しをするのはもう二度とやめよう。どうせ勝てないんだから)
アルは固く心に誓って、むくれた顔で野菜類を鍋に加え、イニーツィオの手から奪った塩胡椒をぱらぱらと振りかけた。胡椒なんてタシュガルとの国交が途絶えた今希少品なのに、よくもまあ手に入れたものだと思う。
あとは野菜に火が通ったら出来上がりだ。
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