第5話 誰がための嘘(1)

 小高い丘の原野は、すっかり黄金色にかがやき、ところどころ立ち枯れた花の首が、今にもほとりと落ちそうな風情で佇んでいる。

 丘の上の藪を漕いで行った先に、廃殿はあった。いくつもの蔓に巻きつかれた方尖柱ほうせんちゅうに出迎えられて石造りの門を潜る。その先のうらぶれた小径を抜けると、巨大な列柱がお目見えした。どれも蔓や木の枝が絡みつき、中には崩れかけたものもある。

 アルは、その一角にある涼台にイニーツィオをいざなった。

 もう人の訪わないその神殿は、かつて国交が開かれていた頃にイシュハの民によって建てられた神殿だった。同じエジカを奉じながらも、海ひとつ隔てればこうも信仰の形態は異なる。

 来た道を振り返れば、崖っぷちにキァーヴェの村が見える。この辺りは百年も遡れば、イシュハ人も多く暮らしていた土地なのかもしれない。

 吹き抜けていった風に、イニーツィオの濡羽色の髪が揺れる。

 イニーツィオが腰掛けた正面にある柱のひとつに背を預けて、アルは口火を切った。


「わたしは、カントゥス家直系の、先代カントゥス家当主の娘として生まれました」


 イニーツィオは、驚く素振りも見せなかった。言梯師選を巡る陰謀が起こる前、糸杉の森で出逢ってすぐに、彼はアルの出自を調べたのだろう。アルが出奔した記録などカントゥス家にすら残っていないのに、よくも調べ上げたものだ。

 カントゥスの血族はその血潮にエジカの《詩篇》を宿している。それゆえにこのローデンシアで唯一エジカの《詩篇》を詠みとくことができる。アルもかつては「明日あなたは飼っている猫ちゃんの糞を踏んづけます。ちゃんと洗わないと周りの人から白い目で見られちゃうので注意してくださいね!」みたいなすごくどうでもいい《詩篇》は詠んできた。

 とはいえ、特に直系の娘はエジカの血が色濃いと言われ、暁天の城の最奥で大切に育てられる。

 アルは本来であれば深窓の姫君として、暁天の城の外の世界のことなど碌に知らずに育ったはずだった。


「……アルチーナ・カントゥス?」


 久方ぶりに聞く母の名に、アルは一瞬息を詰まらせた。

 吐く息が細く震える。

 イニーツィオの薄い唇が開いて閉じ、視線が力なく宙を彷徨った。


「はい。悪名高き、“白銀しろがね髑髏されこうべ”」


 アルチーナ・カントゥスは当代きっての歌姫だった。

 奔放で、寝台に招き入れた男は糠星を数えるがごとく。アルの養父を傍近くに置くまでは、イニーツィオの比ではなく放蕩の限りを尽くした、絢爛たる傾国の女。

 しかし彼女がなにより畏怖されたのは、その美貌のためではない。謳いあげた《詩篇》のためだった。

 他のカントゥスの女が一生のうちに詠む《大詩篇マグナ・クロニカ》の数など、せいぜいひとつやふたつ。だが彼女は五つもの重大な《大詩篇》を詠みあげた。十八年前のアダマスの惑乱終結に際し、バルトロ国王即位の《大詩篇》を詠んだのも、イニーツィオ即位の《大詩篇》を詠んだのもアルチーナだ。

 現代の歴史の標を示したのは、アルチーナその人といっても過言ではなく、“原初返り”などと囁かれていた時代もあったという。

 カントゥスのなかでも、特に微に入り細に穿った《詩篇》を詠むことのできる歌姫は始祖たるエジカに還ったほどだとして、“原初返り”などという大袈裟な言葉で尊ばれた。


「なら、父親は――」

「父親というか養父ですけど……《第六言語機関》の特使です。有名な話でしょう?」


 娼婦か歌姫か分からなかったような母も、養父と出逢った頃から少しずつ落ち着いてくる。

 母と養父ははじめ、反目する関係にあった。なぜなら、カントゥス家は《教会》によって奉じられており、《教会》は楽謡がくよう血統の権勢拡大を危惧する《第六言語機関》と対立していた。

 養父は《第六言語機関》の特使として派遣された、歌姫づきの従僕だった。それは別に特異なことではなく、歌姫なら誰しも、《第六言語機関》の監視下に置かれる。

 それが、イシュハが『エジカ・クロニカ』に叛逆し、年代記を書き換えようとして滅びを迎えてから、国を問わず楽謡血統に課された制約だった。


「でも養父ちちは、母に放ったらかしにされていたわたしの手を取って、沢山の本を与えてくれました。もちろんハラ語以外の書物を所有することは他でもない《第六言語機関》によって禁止されていましたから、こっそりと、ですけど」


 五国に属さないオムファロス孤島を本拠とする《第六言語機関》は、五国で最大の収蔵数を誇る図書館を有する。そこに所属していた養父は、アルの知らないことをなんでも知っていた。


「そうしてわたしと養父とうさまが仲良くなっていくうちに、母さまの私室に招かれる男の人は次第に減って、いなくなりました。母さまは、不器用ながらにわたしに構うようになり、その頃には、わたしは母さまのことを敬称である楽下がっかではなく、母さまと呼ばうようになっていました。それから、わたしは鳥籠の姫じゃなくなった。母さまと養父さまが、わたしを外に連れ出してくれたんです。それが、十年くらい前の話」


 バルトロ国王の治世に翳りが差すのは、ちょうどその頃だ。それからはまるで坂を転げ落ちるように、災禍続きの世になっていく。


「城下の人と沢山話をしました。他愛もない今晩の献立の話、いつも明るい商家の若者が劇団の女優に振られて、朝まで酒場で泣きはらした話。楽しい話もくだらない話もたくさんあったけれど、そのうち悲しい話ばかりを聞くようになりました。大水でその年の作物が駄目になり、街の皆に食べ物が行き渡らず、たったひとつの玉葱を巡って隣人同士が殺し合ったこと。クラヴィス公の専断に耐えかねた貴族が城下を軍馬で踏み荒らしたこと」


 街でそうした混乱が起きるたび、王宮の門は固く閉ざされた。

 クラヴィスは民草を救うための手立てを何十通りも考えて施策を打って行ったが、それらは焼け石に水だった。当時彼は二番手の権力をその掌中にしながらも、評議会の構成員はほとんどが彼の敵対者だった。

 怪物公。手足のない醜い怪物に、この国の未来など任せられようか。クラヴィスへのそうした罵りは、貴族だけではなく、庶民の間からも上がっていた。

 当時、アルと同じくイニーツィオもほんの子どもだったが、その頃の王都がどれほど酷い有様だったか、全く知らないわけではなかったのだろう。

 彼は目を逸らしたが、その指先が震えたのをアルは見逃さなかった。


 だからアルは、この人を見限れない。

 グリエルモやクラヴィスを踏みにじるような発言をしたくせに、当然のようにサダクビアやリゲルに手を差し伸べ、アルの心に寄り添おうとするような、こまやかな心をもつ人だから。


「わたしにできたのは、ただ聖歌を街のみんなの前で歌うことだけでした」


 それが飢えに喘ぐ民草の前ではなんの役にも立たなかったのは、他でもないアルが誰よりもよく分かっている。けれど、街の人々はアルに縋った。当時はどうしてか分からなかったが、今ならばアルを通して女神エジカを見ていたのだろうと分かる。


「君の母親は、当時しばしば金剛宮に直訴に来ていた」

「ええ。母はブチ切れると、祈っても歌っても腹は膨れないだなんてカントゥスにあるまじきことを言って、暴れ出すような性分だったので」


 アルチーナはかつて頽廃に耽っていたのが嘘のように、災害が相次ぎ困窮する民のために奔走した。その傍らには常に、父の姿があったとアルは記憶している。


「《教会》は彼女を閉じ込めたがっていた」

「それを聞くような母ではありませんでした」


 アルは苦笑する。あれほど《教会》の手に余ったカントゥス家当主は歴代を探してもなかなかいないだろう。


「始まりはどうあれ、わたしたち三人は家族になれたと思っていました。……それが幻想だったと気づいたのは、七年前」


 そこまで言って、口を噤む。

 続ける言葉はもう決めていたのに、声にならない。

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