第4話 決壊

 ルスキニアはその日のうちに、凄まじい速さで『廃滅の国イシュハにおける黒字病の伝染に関する董伯暦三十六年の記録』を読破し、夜はぐっすりと休んで、翌朝アルと意見を交わして治療の準備を整えた。

 このお医者様、めちゃくちゃ仕事ができるし自己管理が徹底している。

 アルは不器用でやたらと夜更かしして翌朝使い物にならなくなったりする手合いだ。ルスキニアを心の底から尊敬する。


「黒字病、でたらめにイシュハ文字が並んでいるわけじゃないってことですね。その人間の生まれてから死ぬまでの《詩篇》が身体中に刻まれている――だけど、身体に最初に刻まれた《詩篇》を切除すれば、病が根絶できる」

「おそらくはね。この記録を残したローデンシア人はイシュハ語には詳しくなかったようで、患者の身体を切りまくって死なせたりしているけど、こちらには君がいる。それにサダクビア嬢が最初に浮かんだ文字を覚えてくれていたのに助けられた。右胸の銀貨大の文字、これを切除すれば、勝ちだ」


 そう言いながら、ルスキニアは貴重な不銹ふしゅう鋼の刃を酒で消毒しながら、傲然とした笑みを浮かべた。自信に満ち溢れた顔つきがこの上なく似合う女性だ。


「ただ問題は、文字が身体のどのくらい深くまで刻み込まれてしまっているか。文字が深くまで埋没していれば臓器を傷つけてしまうか、出血多量で患者の身体が持たない。……ってイオ、あなたなにニヤニヤしているんですか。不謹慎ですね」

 アルが声を尖らせれば、イニーツィオはへにゃりと笑み崩れた。


「俺の言梯師さんは頼もしいなあって」

「お、お褒めいただき光栄ですが、なに一人でサボってるんですか」

「アルが冷たいよー。俺ちゃんとご飯つくったのに。褒めてくれてもいいのに。ねー、サダクビア」


 全然言葉が通じていないのに、物怖じせずに、イニーツィオはサダクビアに話しかけている。この王子様の精神は鋼並みだ。

 イニーツィオはサダクビアと一緒に朝食を作ってくれていた。自ら挙手してきたので、アルももうなにも言わずに彼のするがままに任せた。

 ルスキニアの話を聞くに、黒字病は空気感染の線はないようだ。なので病室から一室隔てただけではあるが、飲食は問題ない。

 サダクビアはぴくりと震えるだけでなにも言わない。イニーツィオのハラ語が分からないのもあったし、再三にわたりイニーツィオに色仕掛けを断られたからか、彼とどう接するべきか迷っているような節もあった。


「本当だ、いい匂いがするね。ありがとう、サダクビア。それから王子様。さっそく腹ごしらえをして、それから施術を行うとしようか」


 ルスキニアがぱたんと書物を閉じ、一同は食卓を囲む。外からは朝の燦々とした光が射し込み、和やかな空気がその場を漂っていた。




 恋茄子アルラウネを煎じた麻酔薬をリゲルに飲ませると、ルスキニアは病巣の除去手術を開始した。

 サダクビアはリゲルから少し離れた場所で、アルが聞いたことのないイシュハ語の文句を唱えている。エジカに向けたものではなかったが、おそらく祈りの言葉だろう。アルにはにわかに信じられないが、もしかすると国が滅んだイシュハでは、もはやエジカは奉じられていないのかもしれない。

 イニーツィオは酒を注いだ容器を持って、ルスキニアの助手を務めている。

 アルは綿紗と軟膏を抱えて、サダクビアの隣で固唾を呑んでその光景を見守っていた。


「そう深くないな」


 ルスキニアが固い声で、しかしどこか安堵したように呟く。

 彼女は迷いのない手つきで、不銹鋼の刃を自在に動かしていく。医学大学にも外科医学校にも通っていないらしいが、誰よりも優しい床屋外科医に師事したのだとだけ教えてくれた。


「これで病巣は全部だ」


 言って、ルスキニアはイニーツィオの抱えている容器に皮膚片を突っ込んだ。

 イニーツィオがアルの抱えていた綿紗を受けとって圧迫止血を行う。さほど出血も酷くない。この分なら、容態が悪化する可能性は低そうだ。

 しばらく止血してから、ルスキニアは傷口に丁寧に軟膏を塗っていく。

 アルは傷口を焼いて止血する焼灼しょうしゃく止血しか知らなかったが、彼女はどうやらとても先進的な医師に師事していたらしい。


「もう大丈夫だ。あとは経過を見よう」


 さすがに少しくたびれた様子で、しかし口元にほのかに笑みを浮かべてルスキニアが宣言をする。

 サダクビアはリゲルの額にはりついていた髪をそっと掻き上げると、ルスキニアを仰向いた。


「……ありがとう」


 それはぎこちなかったが、紛れもないハラ語だった。アルが何日か前に伝えた挨拶を覚えていたらしい。

 ルスキニアもまた、アルに聞いたイシュハ語で「〈どういたしまして〉」と頷いてみせる。

 その様子に、アルは無性に泣き出したいような心地になったが、ぐっと表情筋に力を込めて耐えた。


 差し迫った危機は去ったが、肝心なことはまだなにひとつ分かっていない。

 なぜイニーツィオは彼女らを匿ったのか。ジュストに書物を盗ませたのは、イシュハ人の検問を敷いたのは、サダクビアとリゲルに酷い仕打ちをしたのは、グリエルモとランベルティ家を嵌めたのは一体誰か。

 アルの視線を受け止めて、イニーツィオは秘めやかに微笑う。彼はすでに、その答えのすべてを知っている気がした。



 * * *



 リゲルはその後熱こそ出したものの、一日後には容態も安定し、意識を取り戻した。第一声は、「ねーちゃんどこ? 腹減った」だった。

 リゲルの身体に刻まれたイシュハ文字は、いまだ消えていない。それが徐々に薄くなっていくのか、それとも一生このままなのかは分からない。文献には記録が残っていなかった。

 しかしルスキニアの見立てでは、おそらくもう触れても感染はしないはずだとのことだった。ただまだ断定はできないので、文字の浮いた部分には厚く包帯が巻かれている。

 アルはサダクビアと連れ立って、ルスキニアの診察を受けるリゲルの元を訪れていた。


「うん。傷の回復も順調。あと二日も安静にしていたら、外を出歩ける。もう家のなかなら歩いていいよ」

 ルスキニアの言葉を伝えれば、リゲルの顔がぱっと輝いた。


「〈先生、ありがとう。おれ、もう死ぬんだと覚悟決めちゃってたんだぜ。よかったー、死ななくて。親切な人もいるもんだな。な、姉ちゃん〉」


 リゲルはサダクビアとは正反対の、人懐っこい真夏の太陽みたいな笑顔を見せる。年は十一になるとサダクビアが言っていた。


「……〈そうね〉」

 ほぼ無表情でサダクビアが応える。


「〈つーか、姉ちゃんなんか大きい街に連れて行かれたけど、大丈夫だったの? いつの間にか一緒にいるけど〉」


 きょとんとした顔で、リゲルが尋ねる。

 アルはサダクビアを思わず振り向いた。リゲルは事情をなにも知らないらしい。

 サダクビアは唇にわずかに笑みを乗せて、リゲルの頬を撫でる。


「〈なんともなかったわ。あんたは難しいことなんてどうせ考えられないんだから、早く寝なさい〉」


 一瞬、リゲルの眉間に皺が寄って、唇が噛みしめられる。その表情を見て、アルは考えを改めた。

 サダクビアはそれに気づかなかった振りをして、踵を返した。アルもその後を追う。

 サダクビアはつかつかと踵を鳴らして、――なにを思ったか長椅子にだらりと身体を預けて鷲便を読んでいるイニーツィオの胸倉を掴んだ。


「わお、熱烈なご挨拶だね、サダクビア」


 イニーツィオは胸倉を掴まれた情けない態勢のまま、おどけてみせる。王太子の名が聞いて泣く返しだ。威厳がないにも程がある。


「〈な、ななななななにしてんの、サダクビア〉」


 アルのどもりまくった声にも、サダクビアはきっと眦を決して「〈訳して〉」と居丈高に命じた。


「〈お礼がしたいの。なんでもしてあげる〉」


 サダクビアの言葉に、アルはぎょっと息を呑んだ。この期に及んでまだそんなことを言っているのか、この分からず屋の娘は。

 どれだけ脳内が常春なのだ。実はイニーツィオに懸想しているのだろうか。

 いや、たぶんそれはない。ときどきイニーツィオのことを、胡桃をどこに埋めたか忘れて彷徨うかわいそうな頭の足りない栗鼠でも眺めるような顔つきで見ていることがある。

 おそらく絶対にそれはない。


「〈必要ない。ですよね、イオ〉。じゃなかった! イオ、サダクビアがお礼をしたいとかまだ抜かしてますけど、そんなもんいりませんよね!?」

「あ、うん。そうだね。ていうか、アル、顔が怖い」


 少々びくびくしながら、イニーツィオが応える。


「〈なんの見返りもなく誰かが助けてくれるなんて、あたしは信じてないの。リゲルの病気が治りつつあるのは、珍しいんでしょう? あの子を使って、あんたたちがなにかしない保証は?〉」


 殺気だった目に睨めすえられ、アルは息を呑んだ。

 サダクビアと少し打ち解けたとアルは思っていた。だけどそれは全然ちがった。彼女は、人の善意というものをまるで信じていない。


「〈この国に来て、まず最初にあたしは金貨二枚で女衒に買われた。女衒を無理やり口説き落として、あの子も下働きとして一緒に連れて行ってもらったわ。だからあの子と離ればなれにはならずに済んだ。だけど、娼館の仕事は女衒に最初に聞いていた話と全然違った。どれほど客を取っても、自由の身にはなれなかったわ。イシュハ語をちょっと喋れる女衒が言っていたことじゃなくて、この国の言葉で書かれた契約書の内容が正しいんだって、娼館の主人は笑ってた。そのうち、“カリタ”から使いの者がやってきて、あたしの姿を一目見て、大金を積んで連れて行きたがったわ。でも、リゲルのことは連れていけないっていうから、あたしの命を盾にしてやったらさすがに怖気づいて、すごすご帰って行ったの。でもその頃、リゲルがあの病気に罹った〉」


 そして、リゲルの命を助けることを条件に、サダクビアは王都への道行きに頷いたのだろう。

 こんなアルとそう年も変わらない姉弟の命も心も平然と弄ぶような輩が同じ国にいることを、信じたくはなかった。

 だが、サダクビアの眸を一目見れば、それが真実なのだと否が応でも分かってしまう。


「……〈サダクビア。リゲルくんを助けたのは、なにか魂胆があるとかじゃない。人はたしかに見返りを求めてしまうこともあるけれど、でも……わたしは、助けたいと思ったから、助けたの。あなたの力になりたいと思ったから〉」


 サダクビアは、喉を鳴らして失笑した。


「〈あんたは……そうかもね。あんたによく似た馬鹿な女を知っている。でも。あんたのご主人様は? あんたのそのお綺麗な台詞しか吐きだせないおつむと同じこと考えてるって?〉」


 咄嗟に、アルはイニーツィオの顔を見れなかった。


「〈あんたたちの様子を見ていたけど、正直不気味だわ。あんたのご主人様は得体が知れない。なにを考えているのか、さっぱり分からない。そんな人を信用できる?〉」


 サダクビアの言葉は、まるでアルを鏡写しにしたかのようだった。その疑いはすべて、アルが抱いていたものと同じだ。

 アルには、イニーツィオが分からない。


「〈それにこの男が女を抱けないって言ってるの、真っ赤な嘘だわ〉」


 イニーツィオの鎖骨から鳩尾、臍をゆっくりと指で辿って、サダクビアが嫣然と微笑む。

 イニーツィオは、サダクビアの言葉は当然分からない様子だったが、なにかを察したのかこくりと喉頸を震わせた。


 アルも観念して、イニーツィオを見据える。血の赫をした、寂しい渇いた眸。


「……イオ、教えてください。あなたがリゲルを助けた理由は?」

「人が人を助けるのに、理由は必要?」


 その答えが返ってくるのを期待していた。願って、祈ってすらいたかもしれない。

 でも今のアルには、その言葉が信じられない。

 闇が口を開いたように笑う、その表情が恐ろしかった。


「本当の理由を教えてください。わたしに嘘を吐き続けるのなら、どうしてわたしを傍に置いたの」


 イニーツィオは短く息を吐き出した。

 こんなときにまで、アルになにかを乞うような、ねだるような目をする。まるで慈しむように、焼きつけるようにアルを見る。しかし、その目がふっと閉じた。


「……俺も関係者だから」

 凍てついた声で、そう告げる。


「君は他の誰かを傷つけるような命令は聞けないと言ったね。それが君が俺の言梯師になる条件。でも、その条件を最初から俺は履行できていなかったんだよ。だから――じゃあね、言梯師さん。君と過ごすのは、案外楽しかったよ」


 イニーツィオはひらりと手を振って、家を出て行こうとする。

 アルは唇を噛み――それから問答無用でイニーツィオの腕を掴んで引き戻した。

 イニーツィオがぐえ、と蛙の潰れたような声を上げて脊髄反射で振り返る。


「ちょ――今、どう考えてもちょっと切ない永遠の別れの場面でしょ!? 今引き戻すとか全然空気読んでないから。なんなの君!?」

「そんなこたあ知りませんよ! イオの意味不明な論理に付き合うのはもう飽き飽きですっ。わたしの話はまだ全っ然終わってないんですよ! いつもいつも勝手に話を打ち切って! こっちは堪忍袋の緒が切れました!」


 アルは凄まじい勢いでイニーツィオを怒鳴りつけると、その手を握った。

 少し冷えた、でも確かな温度を感じる固く大きな掌。


「わたしの昔話を聞いてくれますか。それでももう、どうしようもなかったら、あなたの言うとおりお別れします」


 イニーツィオは少し逡巡したのち、「いいよ」と囁いた。


「これが最後だから、君の我が儘に付き合ってあげる」


 イニーツィオは、アルの手を握り返さなかった。

 いつもいつもべたべた触ってくるくせに、そうしない。最後という言葉が、指の先から身体を凍らせていくような気さえする。

 アルは深く息を吐き出すと、サダクビアを振り返った。


「〈ごめん。ちょっとだけ時間をちょうだい。少し、この人と話をしてくる。もし不安ならこれを預けるから。わたしの命の次に大切なものよ〉」


 そう言って、グリエルモから託された梟の徽章を示せば、サダクビアは呆れたような顔をした。


「〈いいわよ。行ってくれば? あたしには全然価値を感じられないし。……いざとなったら、あんたの馬奪って逃げるからね〉」


 それをわざわざ口にするあたりは、まだ完全には信用は失っていないと感じられた。

 サダクビアに追い払われるように、アルとイニーツィオは民家から転がり出る。

 北方を見やれば、遠い山嶺が真白く冠雪していた。

 王の星が墜ちるまで、もう猶予は残されていなかった。

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