第5話 契約

「彼女もイシュハ語話者ですよ。喧嘩を売っているのはまあ、間違いありませんがね。私は常にあなたに喧嘩を売っているつもりですから。クソったれのガキがいつまでも甘ったれてるなよ。王位をなんだと思ってやがる。……それよりお知り合いでしたか?」

「……さてね。女の顔はすぐに忘れる」

「では、この娘の顔は覚えてください。あなたの王笏になる娘だ。グリエルモから梟を託された娘です。ほんの一時、彼に師事していたに過ぎない殿下にも、その意味は理解してもらえるはずですね?」


 グリエルモの名に、イニーツィオの肩がぴくりと震えた。


(グリエルモ様に、師事していた?)

 アルは驚いてイニーツィオを見つめた。


「ほんの一年足らずのことで、次期王の師匠面されちゃたまらないね。そういえばあの死にぞこない、ようやくくたばったんだって?」


 ひどく耳障りな嗤い声とともに、イニーツィオが恋人らしき青年に寄りかかって葡萄を摘まむ。


(今、この人、なんて言った?)


 アルはふるふると肩を震わせてイニーツィオを睨みつけた。彼はアルの視線に気づいて、小馬鹿にするように指についた葡萄の汁を舐めとった。


「あいにく、くたばっちゃいない。あのジイさんの生命力はクマムシ並みだ。まだまだ背後霊のごとく付きまとわれるから覚悟しておけ」

 もはや体裁すら取り繕わず、クラヴィスが応える。


「クラヴィス公。あの、話がいまいち見えないんですけど、どういうことですか? イシュハ語話者って……」

「ああこのクソったれ王子――ああ悪い、またつい本音が。あー王太子殿下が、俺が幽閉されて初めて訪ねてきたかと思えば、イシュハ語話者を貸せとご所望になったものだからな。なにに使うつもりなんだか知らんが」

「――イシュハ」


 ジュストやグリエルモを失脚に追いやったのも、イシュハが絡んでいる。アルが言梯師選前に王都に出た日、旧市街で見かけたイシュハ人らしき少女はおそらく、ヴァスコ・ランベルティと寝たという娘だ。それから、アルがジュストから託された書物も、イシュハ絡み。


(なんでこの王子様が、イシュハ語話者なんか探しているの。まさかこの人が――)


 そこまで思ったところで頭を振る。

 もしイニーツィオがランベルティ家やグリエルモを気に食わなかったとしても、誰か権力を与えたい相手がいるのならばただ、自分の言梯師に指名すればいいだけだ。そしてなにか理由をつけて、ランベルティやグリエルモを遠ざければいい。黒幕は、それができない人物であるはずだ。

 それに事を起こす前にイシュハ語話者を求めるなら理解できるが、もうすでに事は起こってしまっている。それともさらに何かを引き起こすために、イシュハ語話者を求めているのか。

 ともあれ。


(事件のこと、なにか知っている可能性はある)


 正直まるで気は進まないが、なにがなんでも彼についていくしかなくなった。


「……わたしをお使いください。経験は浅いですが、おそらく金剛宮のなかだけだったら、グリエルモ様に次いでわたしがイシュハ語に長けています。わたしがダメなら、クラヴィス公をお連れになるしかありません」


 その言葉に、イニーツィオに先んじてクラヴィスが不平の声を上げた。


「死んでもイヤだね。このクソったれ洟垂れ坊主に膝をつくくらいなら、馬糞にでも額づいた方がまだマシだ」

「……俺だってイヤだけど、怪物公、膝つけないでしょ」

「うっさいわ! 物の譬えだ、このうつけ王子が! 頭の足りんバカと話しているとこっちまで脳味噌が煮えて語彙を喪失せざるを得んわ」


 それはちょっと、イニーツィオに口の悪さを責任転嫁しすぎではないかとアルは思ったが、口には出さなかった。


「ともかくガキども、憶えておけよ。俺が跪くのはただ一人だ。昔も今も、そしてこの先もな」


(……バルトロ・アダマス国王陛下)


 アルは殆ど、ヴァスコ・ランベルティを王笏に迎えてからのバルトロしか知らない。

 近頃は病ですっかり痩せ衰えてしまったというが、それまでは酒池肉林に耽ってでっぷりと肥え太り、玉座から立ち上がるのも困難なほどの有様だったという。

 政務もヴァスコや評議会任せで、かつてシリウス王の再来とまで言わしめた覇王の面影はもはやどこにもない。


(でも、この人にとっての王はバルトロ国王陛下、ただ一人なのね)


 アルは、とてもではないがクラヴィスがバルトロを思うようにはイニーツィオを思えそうにない。

 でも。


(あのとき出逢ったイオのことは、嫌いじゃなかった。むしろ……)


 あのときの彼がすべて偽りだとは思えない。そもそも彼は自分のことを嘘つきだと自称していた。

 彼はなにかを隠している。


 ――目に見えるものだけが真実ではないことをあなたに知ってほしかった。

 グリエルモの言葉が蘇る。

 アルは目を瞑って、はいと喉の奥で呟いた。


(はい、グリエルモ様)

 晴れやかに応え、アルは一歩前へと進み出た。


「殿下。どうかわたしを使ってはいただけませんか?」


 柘榴石の眸とかち合う。

 艶を帯びた、扇情的な眼差しだった。まるでそんな目で見れば、アルが尻尾を巻いて逃げ出すのを知っているとでもいうかのように。

 だがその眼差しに、ルーナ=プレナの墓前でも見た、孤独と渇きを垣間見た気がして踏みとどまる。


「そこまで言うなら、俺の言うことはなんでも聞いてくれるってことだよね?」

「いいえ」

 アルの即答に、イニーツィオは鼻白んだ。


「主君の言うことが聞けない言梯師なんて、存在価値があると思ってる?」

「あなたの価値はさておき、わたしは他の誰かを傷つけるような命令は聞けません。主君と言梯師の契約は、主君に一方的な権限があるのではないことをお忘れなきよう。つまり、わたしを使いこなせるか否かは殿下次第ということです」


 クラヴィスがピュウと口笛を吹いた。

 いくら書の城の住人でグリエルモに師事していたとはいえ、アルに言梯師としての経験はない。大きく出た自覚はあったが、はったりを利かせでもしなければ、この魚を釣り上げることはできやしない。


 一瞬の間があった。

 躊躇うように、赫の眼差しが泳ぐ。


「……いいよ、おいで。名前は?」

「アル・スブ=ロサ」

「――この期に及んで、まだ隠し事?」


 その言葉に耳を疑ってクラヴィスを見やれば、彼は心外だと言いたげな顔で首を左右に振った。

 アルは観念して、深く息を吐き出す。


「真名は、アルティマ・カントゥス。ですが、それはもう棄てた名前です」

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