第4話 王太子イニーツィオ
イニーツィオ・アダマス王太子殿下、十八歳。かつて王国中を戦場へと変えた王位継承を巡る内乱――アダマスの惑乱のさなかに生まれる。
正妃の子ナザリオの異母弟――つまり庶子で、歳は十個違い。母親は彼を生んで間もなく他界しているらしいが、バルトロが戦時中に連れていた娼婦の子だとも、軍を率いた女騎士の子だとも囁かれ、本当のところは杳として知れない。
政務に真面目に取り組んだためしはなく、女に興味はなし。趣味は男漁り。好みの男を探し求めて年柄年中王土を旅して回っている。一説には、「ハラ語が一番簡単なのに、ローデンシア語とか覚える意味なくない?」だのなんだの抜かして、母語であるローデンシア語すら喋ることができない始末。
以上がアルの知るイニーツィオの情報だ。
(わたしの知るかぎり、ほんとどうしようもない次期国王陛下ね……)
アルはげっそりとした顔つきで、控えめな溜め息を吐く。
アルとクラヴィスは執務室を後にし、王太子が逗留しているという客室に向かっていた。先ほどアルを案内してくれた騎士が、今はクラヴィスの車椅子を押している。
アダマス王朝が始まるより昔、東方の護りの拠点として築かれたドクトゥス砦は今や、そこかしこに緩い勾配が整備され、先進的な城砦となっていた。
(……“廃墟の城”って聞いていたのに、実際に見てみないと分からないものね)
ドクトゥス砦は、シリウス王の御代の大粛清で攻城戦を仕掛けられ、廃城となった過去がある。それから時代を経て、修復家たちの手で少しずつ修繕されてきたらしいが、今なお“廃墟の城”の汚名は払拭できずにいるともっぱらの噂だった。だからクラヴィスの幽閉先としても選ばれたのだと聞いていたのだが。
「あの……このお城、その、とても立派ですね」
思わず探りを入れてみると、騎士の顔がぱっと輝いた。
「そうでしょうそうでしょう! なにしろ、僕も修復に携わったんです! 見てください、この石の輝きっ!! 石の選定と買いつけは僕が行ったんですよ。いやあ、はじめドクトゥス砦に
なるほど。城砦を修復しここまで改良したのはやはり、クラヴィスらしい。それだけでなく、配下に学問を修めさせているとは。
(な、なんかめちゃくちゃ懐かれてない?)
宰相時代は金剛宮に敵しかいなかったと揶揄されるほどの鼻つまみ者だったと言われるクラヴィスだが、どうもこの城砦では状況がちがうらしい。
「べらべらべらべらよく回る口だな。知らん奴に簡単に情報を渡すな、馬鹿者」
「知らん奴ってそんな他人行儀な。お嬢さんがいらっしゃるまで、『まだ来ない』『まだ来ない』とかお城のなかぐるぐる回って、わざわざ斥候放って様子を見に行かせてたじゃないですか。なのにお連れしようとすると、『初っ端から甘やかしまくるな。君はあれか? その辺に落ちてる汚い犬猫を所かまわず拾ってくる手合いか?』とかなんとか言っちゃって。まったく、本当に天邪鬼なんだぶぇッ」
騎士が額を押さえて蹲る。見れば、胡桃が殻ごと石床に転がっていた。どうやら、クラヴィスが騎士の眉間目掛けて胡桃を飛ばしたらしい。危なすぎる。
「黙れ、小童。おい捨て猫小娘、そんな期待に満ち満ちた目で俺を見るな。餌はやらんぞ」
苦々しげにクラヴィスが吐き捨てる。
単純に善良な男というわけではないのだろう。そもそも完璧に善良な人間がこの世に存在するのかは別として。
でも、この男はグリエルモの言ったとおり、弱き者を捨て置けない。それが分かっただけでも、背中を預けられる相手だと思えた。
やがて、騎士の足が止まる。
アルの心臓がどくん、と大きく鳴った。
もしかしたら、生涯を掛けて仕えることになるかもしれない人物との対面だ。緊張しないはずもない。
クラヴィスが車椅子から身体を傾けて無理に扉を叩こうとするのを制して、アルは扉を二度叩いた。
「……どーぞー」
なんとも気の抜ける、ハラ語のくぐもった返事が返ってくる。
アルはクラヴィスの耳元に顔を寄せてひそひそと囁いた。
「あ、あれが?」
「神出鬼没の噂のアホだ。あとは自分で確かめろ」
「ていうか、今の声、なんか聞き覚えがあるような……?」
思い出せそうで思い出せないむずがゆさに眉根を寄せていると、騎士によって扉が開けられてしまう。
アルはおそるおそる客室に足を踏み入れた。
質実剛健質素倹約を地で行くクラヴィスの城砦と言えど、客室は素朴ながらも趣味のいい調度品が納まりよくしつらえられていた。しかし、肝心の王太子の姿がない。
「あー……多分、寝室だな」
クラヴィスが辟易とした調子で告げる。
「え……で、出直します?」
「奴は日がな一日寝室に入り浸っているからな。毎度出直したいならそうしろ」
(そ、そんなこと言われても……)
うっかり扉を開けたら、真っ最中だったりしたらどうしたらいいのか。
アルは思春期を性別を偽って生活していたので、そういった類のことにあまり耐性がないのだ。
そもそも、女の格好で来てしまったがよかったのだろうか。いくら相手がやる気という言葉ととんと縁のない放蕩生活に身を任せる王子様でも、女の臣下とかナメてんのかとか言われたら、凹む――なんてことはなく、うっかりブチ切れてしまいそうだ。せめて男の格好でちょっと懐柔してから、実は女でした、とネタ晴らしした方がまだマシな気がする。
「おい、開けるぞ」
アルがぐるぐる思考の大洪水を起こしている間に、クラヴィスがそんな一言とともにあっさり扉を開けてしまう。
アルはギャア、と叫びそうになるのを寸でのところでこらえて、クラヴィスの後ろからそっと中を覗き見た。
うららかな午後の陽射しの射し込む室内に、天蓋つきの優美な寝台が横たわっている。
そこに、恥じらうように掛布を鼻先まで上げている亜麻色の髪の美青年と、欠伸をしながら伸びをしている青年がいた。しかも多分全裸だ。下半身は絹織物に隠れていたが、とても直視できたものではない。
「ギャアッ! やっぱお邪魔だったじゃないですかっ。で、出直しましょう!」
アルはクラヴィスの片方しかない腕を引っ掴んでぶんぶん振った。
「奴が寝台で励んでないときを探す方が難しいぞ。最中じゃないだけマシだっただろうが」
(そ、そんな……)
アルは衝撃を受けた。
もはや異文化交流と言っても過言ではない。王太子と会話するためには毎回こんな心臓に悪い状況をくぐり抜けなければならないのかと思うと、天を仰いでぶっ倒れたくなる心地だ。
「王太子殿下。お探しの者を連れてきましたよ」
クラヴィスが形ばかりは敬語を整えて言った。
「お、お探しの者?」
アルは訳も分からず意を決してもう一度寝台の方を見やり、そこに色気ダダ漏れで腰掛けている人物を認めて目を疑った。
「…………イオ?」
クラヴィスが驚いた様子でアルを見上げ、それから黒髪に柘榴石の眸の青年が弾かれたようにこちらを見た。
「え? ちょっと待って。どういうこと? クラヴィス公……王太子殿下って、ど、どっち?」
「小娘。《
呆れ顔で問われ、アルの心臓がどくん、と歪な音を立てた。
「“金剛暦元年 新王戴冠す
声が震えた。
浅い呼吸を繰り返し、アルは今度こそイオの――王太子の眸を見つめる。
「あなた、王太子殿下だったのね。いえ、だったんですね」
イオは――イニーツィオは、ふいと視線を逸らした。
「怪物公。俺はイシュハ語話者を、と頼んだつもりだよ。それが女ってなに? 俺が真昼間からヤることしか能のない王太子だからって喧嘩を売ってる?」
その言葉に、アルは言葉を失った。
ルーナ=プレナの墓碑の前で出逢い、うっかり夢を打ち明けてしまったとき、彼はアルが女であることを見抜きながら、女のくせにとは一言も言わなかった。
――青い
そんなことを言われたのは初めてだったから、一言一句違わず覚えている。
アルの想いに寄り添って、同じ花を墓前に手向けて。アルの望みを祝福するような言葉さえ、口にしたのに。
それに、クラヴィスのことも、怪物公と呼んだ。彼が巷でそう呼ばれていることは知っている。だが、彼がこの城でどのように振る舞っているかを見れば、とてもではないけれどそんなふうに呼ぶことはできない。
顔に火傷の痕があろうが、四肢が右腕一本しかなかろうが、彼はアルなどよりも余程強靭に大地を無い脚で踏みしめて立っているのに。
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