第4話 光芒、凍てて

 アルはつんのめりそうになりながら、イニーツィオの後に続いた。

 聴こえるのは、下草を踏みしめる音と、梢がさやさやと揺れる音、梟の鳴き声、そして互いの息遣いだけ。それに、樹上で瞬く宝石箱をひっくり返したみたいな星々たち。それだけが、世界の全てだった。


「ちょっとイオ、危ないですってば」

「大丈夫。狼とか熊が出てきてもどうにかするし。まあ正直、熊は勘弁願いたいけど」


 そういう問題ではない。

 というか、アルが非力なせいもあるが、王太子が前衛を張らなければならないというのはやはり非常にまずいと思う。

 返す返すも誰か一人くらい、クラヴィスに騎士をつけてもらうべきだった。いや、元々はそのはずだったのだが、イニーツィオが嫌だと駄々をこねたのだ。

 とはいえ、イニーツィオの剣術の腕はクラヴィスも認めるところだったらしく、『まあどうせこのアンポンタンは、殺しても死なないだろうしな』とかなんとか散々嫌味を言われたあげく、二人きりで送りだされた。

 クラヴィスの言うとおり、一昨日、別の街で賊に襲われたときには、イニーツィオは一人で三人を伸していた。アルに戦いのことはよくわからないが、おそらく腕に覚えがあるのは間違いないのだろう。

 それはさておき。


(前々から思っていたけど、なんかこの王子様、やたらと距離感が近くない??)


 今もなんだか手をつないじゃっているし。さっきもやたらと触られたし。

 でも意外なほど、それは不快ではなかった。

 手汗がひどくないかな――なんてことを気にするような立場ではないことは重々分かっていたが、そんなことまで考えてしまう。


 しばらく暗闇のなかを進むと目も慣れてきて、やがて深い木立を抜けて、小高い丘に出た。


「わあ……」


 夕刻まで降っていた雪に洗いきよめられたような、青々とさえた夜空だった。そこに、光る銀のつぶが所狭しとちりばめられている。


「カリタじゃ、こんなの見たことなかったでしょ」


 イニーツィオはそう言いながら外套を広げて、一本だけ大きな広葉樹が生えている根元の乾いた地面に座った。


「ほら君も。いつまで突っ立ってるの?」

 手を引かれて、軽く尻もちをつく。


「イオの服が汚れちゃいます」

「いーから。座って」


 おそるおそる、イニーツィオから一人分距離を開けて腰を下ろす。


「あ、流れ星」

「え、どこですか!?」

「もうどっか行っちゃった。見てれば、またそのうち落ちてくるよ」


 そういうものなのか。

 アルは必死に夜空に目を凝らした。

 流れ星に願いごとをすれば叶うなんて子供だましを心の底から信じているわけではなかったが、生まれてこの方まともに流れ星を見たことはなかった。アルは書物の知識の蓄えは人よりはあるけれど、実際になにかを見聞きしたその経験はきっと、イニーツィオには叶いやしないだろう。

 イニーツィオをばかだ阿呆王子だと思っていたことが途端に恥ずかしくなった。

 彼は剣の腕も立つし、乗馬や狩猟の腕は達人級だし、料理も上手だし、自然の楽しみ方も知っている。それはどれもアルが知るよしもないことだった。


 不意に肩に重みを感じてそちらを見やり、アルは飛び上がりそうになる。

 イニーツィオの頭が右の肩に乗っかっていた。


「で、ででででででで殿下!」

「……イオって呼ぶって言った」

「それは悪うございました! そうじゃなくて! 意味が分かりません! なんで乗っかってるんですかっ」

「意味なんてないもん」

「もん、じゃない!」


 アルはイニーツィオに乗っかられているのとは反対の方向に身体を倒してみたりするが、全然効き目がない。どころか、一人だけ過酷な山道でも踏破してきたかのように、ゼエハア言っている。


「どうしても厭ならやめるけど」


 その言い方は狡い。

 立場的にも身分的にも厭だなんて絶対言えるはずないし、そもそも不可思議なことに、アルの本心からの気持ちとしても全然厭などではなかった。

 アルはつとめてイニーツィオの方を見ないようにして、巨樹を背に俯いた。これでは星空観察どころではない。


「……君とはじめて出逢ったとき、なんでこんな子に会っちゃったかなって思った」


 ぽつりとこぼれ落ちたイニーツィオの言葉に目を瞠る。

 この星月夜に融けて消えてしまいそうな、湿った声。


「逢いたかったけど、逢いたくなかった。手放しがたくなるから。やっとのことで別れたのに君は――のこのこクラヴィスのとこまでやってきちゃって」


 イニーツィオの顔は、アルの肩口に埋められていて見えない。

 アルからなにか返答を引き出したいというよりは、独白にも似た言葉の連なりだった。

 だからアルはきっとなにも答えずともよかったのだろう。なのに、自然と彼の癖毛にそろりと手が伸び、言葉が口を衝いて出た。


「イオがわたしになにを見いだしてくれたのか知りませんけど、わたしを手放す必要はありませんよ。あなたがいい人であろうとするのを諦めないかぎり、わたしはあなたのそばにいます」


 まるで大きな子どものような頭を撫でると、イニーツィオはむくりと顔を上げ、アルの顔をまじまじと見つめて深い溜め息を吐いた。


「はあああああああああ、もうやだ君」

「な、手放しがたいとか言ったかと思ったらやだってなんですか。人の顔見ておっきい溜め息吐いちゃって失礼ですねっ。情緒を安定させてください! わたしだってヤですよ、こんな情緒不安定な主!」


 アルが顔を真っ赤にして抗議の声を上げていると、夜昊を滑空する鼓翼の音が聞こえた。ハッとイニーツィオと顔を見合わせる。


「おいで、レラ」


 アルの声に、静かにその大鷲が舞い降りる。翼を広げればアルの身長などよりもずっと大きいその鷲は、クラヴィスの飼い鷲だった。アルとイオが旅立ってからは、クラヴィスとの間をつないでくれている貴重な情報源だ。

 レラの運んできた書簡の封蝋には、薔薇と糸繰草の紋章が刻印されている。アルとクラヴィスの間で取り決めた偽の紋章だった。

 イニーツィオとともに野営地に取って返し、封を切って松明に照らして書簡を読み進め、アルは口元を押さえた。


「……あのオジさん、なんて?」

「ランベルティ家の……奥方が晒し首になったって」


 イニーツィオはアルの手から書簡を取り去って目を走らせ、眉根を寄せた。


「なるほどね。見せしめに順番に処刑することにしたわけだ。まあでも、ジイさんも一枚噛んでるかな。少なくとも全員一度に処刑するよりは時間が稼げる。あそこの末子は、どうやら事情通のようだし」

「イオ、どうしてジュスト隊長のことまで……」

「金剛宮の動きには目を光らせてた。それよりいいの? こんな得体の知れない男にかまってて。君の大事なグリエルモ様も殺されちゃうかもしれないよ?」


 先ほどまでの気安さはどこへやら、イニーツィオの周りには薄い透明な膜でもできたかのようにアルを冷たく拒絶しているような気がした。

 アルは思い通りにならない自分の手を手で握りしめて、イニーツィオを真っ直ぐに見た。


「……そりゃ、この手が震えて止まらないくらいに怖いですけど、でも、グリエルモ様を信じます。ジュスト隊長も、悪運だけは強そうですから。グリエルモ様はわたしに、できることがあると仰いました。わたしにできるのは、あなたにお仕えすること。そしてイオ、あなたは一連の事件とイシュハの民について、なにかしらわたしの知らない情報を持っていますね? であれば、わたしの往く道はひとつです」


 イニーツィオはどこか苦々しげに嘆息した。


「まずはデズィーオの検問の理由。イオはなんだと睨んでいるんです?」

「それ、まだ覚えてたんだ?」

「わたしをしつこいって言ったのはイオですよ。もったいぶらないで。さあ!」


 アルの剣幕に、イニーツィオは若干たじろぎながらも、目を合わせてきた。

 長い指が伸びて、アルの頬に触れる。先刻まで寒空の下にいたせいか、その手は冷たくなっていた。


「……もう後戻りできなくなるけど、いーの?」


「今さらですよ。もうここまで付いてきちゃったんですから。他に誰がイオの面倒を見るって言うんです」

「それもそーだね」


 その苦笑が、哀しみを帯びているように見えたのは気のせいだろうか。

 イニーツィオは長い吐息を漏らすと、ぽつりぽつりと語り始めた。


「まず検問の本当の理由だけど、俺はイシュハ人の炙り出しだと睨んでいる」


 目を丸くしたアルに、イニーツィオはただし、と付け加えた。


「確証はない。あくまでもこれは俺の勘だからあてにしないで」

 ということは検問にイニーツィオはまず関与していないと見て間違いないだろう。


「それから君をキァーヴェ村に連れて行く理由だけど」


 アルはますます目を丸くした。

 こんなに情報の大盤振る舞いをしてくれるのは初めてだ。


「実はキァーヴェ村にイシュハ人を匿っている」

「それってバレたら……」

「一族郎党処刑ものだね。王族も処刑されるのかはさておき。まあだから、クラヴィスのところでも迂闊に喋れなかった。しかもそのイシュハ人はただのイシュハ人じゃなくて、黒字病こくしびょうに感染している」

「……黒字病」


 アルも話だけは耳に挟んだことがある。

 六十年前、南の大国イシュハの地で、狂女王の暴走によって振り撒かれた病――。


「あっ!? そういえばあの本って――」


 アルは懐から布で厳重にぐるぐる巻きにした書物を取りだした。クラヴィスから取りかえし、落ち着いたら読もうとしていた本。ジュストからの、預かり物。

 書物の表題は、『廃滅はいめつの国イシュハにおける黒字病の伝染に関する董伯暦三十六年の記録』。


「やっぱりその本、黒字病関連か」


 くつくつとイニーツィオが嗤う。今にも壊れてしまいそうな、ひどく危うい笑いだった。

 ひとつずつ重なっていく符号に、背中を妙な汗が伝う。


(もしかして、はじめから全部、つながってるの?)


「イオ……? ど、どうしたの?」


 アルの声にも、イニーツィオは耳を貸さない。

 暗がりに飲みこまれてしまいそうな笑い声だけが、闇に埋もれた森に響いていた。

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