断章 毀れた刃

第1話 薄闇の生命

 ぴちゃん、という水音がした。

 霞む目を押し開けば、辺りには一筋の光すら射さない常闇が広がっている。昔から暗闇は嫌いだったが、この獄中生活が始まってからはそれが当たり前になってしまって、嫌だという感情も次第に薄れた。

 肩口を伝っていく水滴を啜る。水をめったに与えられないので、屋根から雨漏りをしている濁った泥水を口に含んで命を繋いでいる。残飯のように床に放られた食物に四肢をついて舌を這わせるのも、それが日常になって数日が経っていた。

 脇に置かれた尿瓶は職務怠慢のためか昨日は変えられず、ここに放り込まれる前の彼が嗅いだら卒倒するような悪臭が漂っている。


 冷えきった身を起こせば、爪先まで凍てついたように感覚がなかった。染みまみれの襤褸布を引き下ろす。極限状況が見せた悪夢であればと何度も願ったが、やはり下着ひとつ身につけていない。

 身体にはいくつもの痣と傷ができていた。元々は戦によって召し上げられた、戦士の家系の出だ。線が細いだの、軟弱そうに見えるだの陰口を叩かれていたが、これでも身体は鍛え上げている。

 幼い頃から折檻をされるのが日常茶飯事だったので、暴力には耐性があるつもりでいた。だが、数人がかりで殴られ蹴られ続ければ為す術はなかった。思っていた以上に、宰相家の人間というのは、人から憎まれていたらしい。


 看守どもの暴行はそれだけでは終わらなかった。

 宰相家のなかで唯一金の髪を持ち、父とも母とも似ても似つかない“優美な”“宝石のような”顔貌を持つ彼は、おそらく鬱憤を溜めた男たちの欲のはけ口にちょうどよかったのだろうと思う。娼婦の産んだ子だという噂も、それに拍車をかけた。それから多分、ほんの数日前まで金剛宮の中心であった一族の末子をこれ以上なく辱めてやろうという嗜虐心も、おそらくはあった。

 切れた唇に指をやると、衝動のように吐き気が込み上げた。

 だが昨日胃液まで散々吐きつくしてしまったせいで、もう出るものはなにもない。ただ、口のなかにも消化管にも異物感が沈殿していて、身体中を這いずった薄汚い手の感触がまざまざと肌に残っていた。


 男の自分がこれなら、母や姉たちは比べ物にならない屈辱を味わったに違いない。どういうわけだか彼は最初に閉じ込められた牢獄とは別の房に早々にぶち込まれてしまったので、家族が今どうなっているかはまるで分からないが。

 姉たちのことを思えば、ほんの少し胸の奥がひりついた。

 彼はすでに正面切って家族に愛を乞うことも差し出すことももはややめて数年が経っていたが、それでも半分は血のつながった家族だった。


 母が――彼とは唯一血がまったく繋がっていない母が晒し首になったのは、昨夜彼を犯した看守の一人に聞いた。

 髪はざんばら、頬は骸骨のように削げ落ち、酷い有様だったという。ランベルティの百合とまで呼ばれた、楚々とした美しい女だった面影はどこにもなかったと。


 母に認めてほしくて、ただ名を呼んでほしくて、バルトロ国王の覚えめでたい父のような武功を立てんと騎士を志した。

 彼は兄弟のなかでも一等幼かったので、同じく騎士を志す兄たちの“練習台”にはちょうどよく、朝から晩まで痛めつけられて常に傷だらけの幼少期を過ごした。

 父も母も沢山いる兄も姉も、彼の名を呼ぶことはめったになかった。少なくとも母は、彼が物心ついてから、必要に迫られたときを除いて一度として名を呼んだことはない。屋敷ではいないものとして扱われるか、なにか気に入らないことがあったときのはけ口として扱われた。


 そんな家族でも、愛してほしかった。

 みじめにもただ、愛してほしかったのだと、今は思う。彼自身はもはや家族を愛しているのか分からなかったけれど、そうされなければ自身の輪郭がゆらゆら震えて、融けて消えてしまいそうだった。


 兄のうち、一人は彼が憧れ続けた金剛騎士団に入団し、一人は第二王子ナザリオの騎士となった。他の兄たちも、どんなに不出来な者でも少なくとも武人にはなった。しかし彼は誰の騎士にもなれずに、金剛宮の官職を与えられ、落ち目の秘書局に配属された。史上最年少の《残月ざんげつの守人》隊長とは聞こえはいいが、要は腰に佩いた剣はお飾りでしかない、古臭い書物の収集係でしかなかった。

 それでも周りはランベルティ家の子息として彼を持ち上げるので、誰よりもランベルティたらんと振る舞った。

 そうすればいつか、父母や兄姉たちが気づいてくれるとでも思っていたのかもしれない。

 最後には、ランベルティ家を救う切り札になるだのなんだのと唆されて、盗人よろしく禁じられた書物に手をつけた。


 次は誰の番だろうなあと、看守は粘ついた声で嗤っていた。

 もういいか、と思う。次の番が己だとして、なんの不都合があるだろうか。

 元からこのような汚濁と汚物に塗れて生きるのが似合いの、卑しい生まれだった。これ以上、みじめな生を晒したところで、待ち受けているのがこのように虚ろな薄闇に過ぎないのならば、もはやなんの未練もなかった。


 ――それはまだ、分かりませんよ。


 澄みきった朝の息吹のような声が、汚穢に塗れた牢のなかを駆け抜けていった。

 ハッと顔を上げるが、当然この独房にあの小憎らしい金鏡官吏などはいない。

 彼よりもよほど卑しい生まれのくせに、いつだってお綺麗そうな顔をして、やたらとそのキャンキャンよく吠える声で売られた喧嘩は買いまくり、果てには喧嘩を売りつけてきた年下の本の虫。

 何度お前はここに相応しくないと吐き捨てても、絶対にそれを認めようとはしなかったこがねの眼差し。

 それがどれほど疎ましく、どれほど羨ましかったか、奴には分かるまい。


(結局怖気づいて、あの本もあいつに渡してしまったんだったな)


 苦く笑って、俯く。

 本当は分かっている。恐ろしかっただけではない。

 他でもない、アル・スブ=ロサだったから、託した。

 あの、不正義を赦さない狭量な眼差しが厭わしく、そして同時に慕わしかった。それゆえに。


 でもまさか、家の罪が暴かれたとき、庇われるとは思いもしなかった。

 スブ=ロサのまるで少女めいた白魚のような手が、背に触れた。

 あれは、憐れみでもあったが、さして不快ではなかった。いや、不快ではなかったどころか――。

 他の誰もが汚物でも見るような目で彼を見ていた。或いは彼自身ですら、ずっとずっとそういう目で、自身を映してきたのに。


 ふと、視界の端にちらちらと光るものを捕らえて、顔を上げる。

 鉄格子の向こうに、松明に照らされて矮躯の老人が立っていた。


「なん――」


 声はそれきり、言葉にならない。まともな食事も摂れずに嬲られ続けたせいか、声は涸れ果てていた。


「ごきげんよう、ジュスト隊長殿。ああ、元隊長殿でしたか。……酷い有様ですね?」


 松明を掲げて、不敵にその老爺が笑う。

 ジュストは唖然と、菫青石の眸をこぼれんばかりに見開いた。

 最後に出逢ったときと同様、髪はよく手入れされ几帳面に後ろに撫でつけられている。まるで今朝も変わらず、禁書室に出仕でもしそうな立ち居振る舞いだった。


「――あなたも、捕縛されたと……聞きました」

「やれやれ、いけませんね。牢番たちは小鳥のようにお喋りだ」


 そう言って、グリエルモはくすくすと微笑う。


「あなたはご存知ないかもしれませんが、私はバルトロ国王陛下と先王陛下ばかりか先々王陛下の戦乱の時代を生き抜いた老いぼれですよ。こんなお粗末な姦計に誰が大人しく首をくれてやりますか。まったく、年寄りは労わってほしいものですね?」


 細められた目の奥の眼光の鋭さに、ひくりと喉の奥が震える。

 高弟三家スクリーバ家の当主を務めたことがあることも、先代宰相の右腕だったことも、勿論知らなかったわけではない。

 だが、毎日禁書室で黴臭い書物を捲り、のほほんと茶を啜る彼からは、このような姿を想像することはできなかった。


「ど、うやって……」

「言ったでしょう。私は老いぼれですから、今の高官の皆様のことはよく存じ上げているのです。あることないことないことないこと。それこそ露見すれば、いちどきにこの金剛宮にいられなくなるようなことも、たんまりと」


 つまり高官連中を脅して事件を握りつぶさせた、というところだろうか。怖すぎる。絶対に敵に回したくない。いやもう存分に敵にまわしちゃったけど。過去の自分よ、猛省しろ。


「今、失礼なことを考えましたね? 私のは濡れ衣なんですから、正当防衛です」


 正当防衛とか言っているわりに、ほぼほぼないことを捏造しようとしていたあたりが狂気の沙汰だ。

 いまだに笑顔が標準装備ではりついているあたりが、もはや恐怖を催させてくる。


「それで本日は、ジュストくんにひとつお話を持ってきました」


 物凄く侮られている呼称になったが、今のジュストにはもはやそれに撤回を求めようなどという考えは毛頭起こらなかった。

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