第2話 ひかりを乞う
「ああ、あの書物を盗んでこいって言った相手のことですか?」
「いえ、それはもう目星がついていますから、お気遣いなく。問題は、今その事件を追っている私の大事な養い子の守り人が、あまりにも少ないということです」
「養い子って……」
「あなたが散々いじめていたぶってくれた、私のかわいい養い子ですよ」
語尾はどこか、上ずってすらいた。
暑くもないのに、嫌な汗がじっとりと浮かぶ。
「スブ=ロサが事件を追っている? 一人でですか?」
「いえ、今は王太子殿下と合流したようです」
「王太子殿下!?」
「シ、声が大きいですよ。人払いはしておりますが、もう少し声を落としてくださいね」
拒絶を断固として赦さない密やかな声が囁かれる。
ジュストは首振り人形のように首を縦に振って、それからこわごわグリエルモを見上げた。
「それで……僕にどうしろと?」
「はじめに断っておきますが、私の力をもってしても、助けられるのはあなたひとりです。あなたのご家族はこれから順番に、首切り役人の手に委ねられるでしょう。残念ながら、それを止めることはできません。失礼ながらあなたはランベルティの奥方様の嫡出子ではなく、ランベルティ家の相続権をお持ちではありません。それをごり押ししたら、あなただけはまあどっかその辺にほっぽり出されて、みじめに庶民に紛れて生きていてもいっか、というお達しが出ました」
ジュストは拳を握りしめて俯いた。
おそらくたぶん、グリエルモの言いたいことをジュストは正確に理解した。
「まあ、それもこれも、陛下の取り成しがあったからですが」
「……陛下の? お目覚めになったのですか?」
「ええ。ですがまた、深い眠りにつかれました。昨夜のことです。スクリーバ家の嫌疑を晴らし、あなたの処遇についても言い置いてから。まったく――あの青二才が聞いたらまた隠れて泣きますよ」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
一瞬柔らかく綻んだ口元を引き結んで、グリエルモが口早に言った。
「評議会は、まあ有り体に言えば名もなき平民のことなどどーでもいいようで、あなたが死のうが生きようがどちらでも構わないご様子です。ということで、あなたの進退は私の手に託されました」
なにがどうして、ということで、になるのか全然理解不能だったが、ジュストは賢明にもそれについて触れないことにした。
「あなたの手に残された選択肢はふたつ。ひとつは、これから一人ずつ処刑されるランベルティ家の皆様の後を追って死ぬこと。そしてもうひとつは、先ほども申し上げたように、私の養い子をあらゆる災厄から守り抜いて生きることです。つまり生きることを選んだら、ご家族が順番に殺されていくのを見棄てて、私を選んでくださいね、ということです」
グリエルモは、最後の言葉を濁さなかった。
およそ想像通りの選択肢だ。
「あなたを? スブ=ロサではなく?」
「あなたがご家族を棄てる重荷など、あの子に背負わせるわけがないでしょう。私につくか、死ぬかです。二度は聞きませんし、時間もありません。申し訳ありませんが、この場で答えていただきます」
ジュストは、血で汚れた床に視線を彷徨わせた。答えは半ば出かかっている。ただ一つ、解せないことがあった。
「あなたなら、ぼ――私でなくとも、腕利きの戦士をご存知のはず。わざわざ疵のある私のような者を選ぶ必要はありません」
「ああ、罠かなにかだと疑っていらっしゃる?」
「いえ、どちらにせよ死ぬ運命です。純粋に、……疑問で。あなたがスブ=ロサを大切だと仰るなら余計に、私のような者を近づけたくはないのでは?」
グリエルモは、ふむと顎を指で摘まんで、ジュストを見下ろした。
「さほど頭の回転も悪くないようですね。以前はこんな阿呆がこの世に存在するのかと、うっかりこの歳にもなって世を儚みそうになるほどの薄らぼんやりぶりでしたが」
誰だ、この老人がいつも笑顔で穏やかで優しいとか嘘八百を並べた奴は。
あまりにも辛辣すぎてなんか涙が出てきた。
「ですが、あなたを見込んだからとかそんな理由じゃありません。いくらアダマスの惑乱当時、軍神バルトロ国王陛下の懐刀を演じたヴァスコの子息といえど、あなたほどの使い手ならごろごろいるでしょう。あなたに手を差し伸べるのはひとえに、あなたが死ねばあの子が悲しむであろうことが手に取るように分かるからですよ。それだけの理由です」
グリエルモはそう、冷ややかに言った。
辛辣だが、公正な人物だ。情報は渡し、判断は委ねる。アル・スブ=ロサはこの老人のことを心から信頼しているようだったが、ジュストも見解は違えど、彼のことは信用できる気がした。
「――あなたにつきます」
声はひどく静かだったが、独房のなかに朗々と響いて聴こえた。
「剣を取り戻した暁には、アル・スブ=ロサに忠義を捧げ、この身を賭して、彼を守ります」
「……彼?」
グリエルモが目をぱちくりとさせる。
今、この無情な悲劇続きのどん底人生においても類稀な、結構格好いい感じのことを宣誓したつもりだったのだが、なにか粗相があっただろうか。
グリエルモはああ、と嘆息して合点する。
「大事なことを伝えていませんでした。あの子は――実は、女の子です」
「ハァ!?」
ジュストの素っ頓狂な声に、グリエルモは「お・し・ず・か・に」と唇の前で人差し指をかざしてみせた。滅茶苦茶怖い。
全然まったく事態を飲み込めないジュストをよそに、グリエルモは懐から鍵の束を取りだして、あれでもないこれでもないなどと目当ての鍵を探し始める。
「ぼ、僕に言ってよかったんですか。僕がそれをバラしたりしたら――」
グリエルモは鼻で嗤った。
「――しないでしょう、あなたは」
碧玉の眸に覗き込まれる。
どこか馬鹿にしているような節もあったが、なにかやわらかなものが、眸の奥に兆している。そんな気がした。
「あなたには、もうできないと申し上げているのですよ。ちがいますか?」
金剛騎士団に刃を向けられた日、強張った背に触れてきた手の感触がまだ鮮やかに残っている。
どれほど蹂躙されても嬲られても、消えなかったもの。
生まれてから、ずっとずっと喉から手が出るほどに、欲しくてたまらなくて、焦がれていたもの。
――それはまだ、分かりませんよ。
あの言葉が嘘でも本当でも、どちらでもよかった。
ただ、あんなふうに寄り添って言葉をかけてくれる人間は、はじめてだったから。
だから。
「……ちがいません」
癪だったが、そう素直に漏らせば、グリエルモは珍しく、どこか下手くそな笑みを浮かべた。
独房の扉が開く。
ふらふらと立ち上がって鉄格子の外に出れば、久々にまともに歩いたからか、くらりと目前が傾いだ。
倒れかかったところを抱きとめられる。
「も、申し訳ありません」
こちらは全裸に小汚い襤褸布を纏っているだけの状態だ。
みじめで情けなくて死にたくなる。
グリエルモは小さく嘆息してから、「失礼」と言って襤褸布を取り去ると、小奇麗な綿布を取りだした。
「あなたはそろそろ分別のついていい年頃ですが」
そう言ってグリエルモはジュストの背中に腕を回す。柔らかな綿布が、肌に巻きついていく。
「それでも、子どもです。守られてしかるべき時代を過ごせなかった子どもです。ですから一度だけは、優しくしてさしあげます」
ジュストは目を見開いた。たまらずグリエルモの肩口に額を押しつける。目頭が熱くて、融けそうだ。鼻の奥がツンとする。
「今だけですよ」
そう言いながらも、しばらくの間グリエルモは肩を貸してくれていた。
涙が落ち着いて歩きだすと、思い出したように立ち止まって、胡散臭い笑みを向けてくる。
「もうひとつ、言い忘れていましたが」
回廊を歩きながら、ジュストは構えてグリエルモを見た。どうせろくなことじゃないことは目に見えている。
「あの子に妙な気を起こしたら、地の果てまで追いかけて抹殺します」
語尾にきらきら煌めく星を撒き散らす幻想さえ見せながら、グリエルモが朗らかに微笑んだ。
絶対に冗談ではなさそうなところが、だらだらと脂汗を浮かばせる。
しかし、ちょっと待て。
ジュストは立ち止まって考える。
琥珀色の、しかし涼やかに流れる水のような透きとおった眸。
滅多に閉じられることがない、小うるさく透徹とした屁理屈ばかりを吐きだす、扁桃の花びらのような唇。吹けば折れてしまいそうな、凹凸の欠片もない身体。
よかった。正直全然まったく、好みじゃない。
ジュストの好みは、自分の話に穏やかに頷いて、口数少なく上品に頷いてくれるような、たおやかな女なのだ。
だから、それはない。絶対にないはずだ。……たぶん。
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