第六章 廃滅の国からきた娘
序 星の名
蛆虫が這っているようだ、と思う。
何度繰り返しても、慣れることはない。黒く濡れたと褒めそやされる肌には薄らと汗が浮かび、自分のものではないそれと混じり合って、雨滴のように身体を伝う。
不意に、娘の腰を掴んで揺さぶっていた男が何事かを口にした。
知らない言葉。巻き舌の語調の強い言葉は、これまで褥を共にした男たちの発していたものとは少し違う気がする。“カリタ”という大きな街で耳にした言葉と響きがよく似ていた。
この国では今、二つの言葉が話されているそうだ。
故国を後にして海峡を渡り、この国の土を踏んでから数日が経った日、同胞がそう教えてくれた。
今回の相手は自前の馬車を持っている貴族じみた男だったから、きっと“カリタ”の男と同じような言葉を喋るのだろう。
男に抱かれている間、娘は絶対に故国の言葉を口にしない。大抵のローデンシア人の男は、娘の祖国の言葉を蛇蝎のごとく嫌っているらしいからだ。
口にしていいのは、男の名前と、意味のない音の連なりだけ。
祖国の言葉を口にすれば、殴打され、酷いときには殺されかけることもある。
この土地で娘に価値があるのはこの顔と体だけ。
だからそれが傷つけられるのを、娘はひどく恐れた。
窓の外には、故国と変わらぬ糠星が輝いている。
娘の生まれ育った国には、星にまつわる言葉が豊かにあった。星々を道しるべに、広大な砂漠を旅して生きてきたがゆえだろう。他でもない娘の名も、星にまつわるものだった。
しかしこの土地でその名が呼ばれることはもうないだろう。それが寂しいとも哀しいとも思わない。
色褪せた絵本を開いて、祖国の美しい文字を教えてくれた母が死に、幼い弟の手を引いてこの異邦の風を浴びたその日、もはや星の名を冠する娘は死んだのだ。
身体を貪っていた男が、不意に燭台の炎に照りかえった娘の装身具に興味を示した。
砂漠の薔薇を閉じ込めた、母の形見。
母が読み聞かせてくれた御伽噺は、今から思えば笑ってしまうくらいに優しくて滑稽な、遠い世界の話だった。星の名を持つ姫君が、危機に瀕した祖国のために不思議な力を宿す財宝を求めて冒険に出かけ、やがて王子様と恋に落ち、結ばれる物語。姫君は行く先々で出逢う小鳥や象や獅子に親切にされ、国の危機ももちろん救ってしまう。
今や滅んだ国で、かつて無名の作家が描いた、ありえない夢物語。
そんな物語を愛していた母も、どこか夢見がちな人だった。
だから悪人に騙されて、その代償に命まで取られることになるのだ。
母は、そのように愚かな女だった。
母が死んだ日、あのようにはなるまいと決めた。もう弟を守れるのは、娘だけだったから。
陽だまりみたいな母の笑顔を塗りつぶして、記憶の底に沈めて鍵をかけた。
だから薄汚い男が形見に触れるのも、大したことではない。大したことではないはずだった。
「触らないで」
唐突に声が漏れた。左手が、男の手を叩いて払っていた。
思わず口元を押さえる。自分がなにを言い行ったのか、まるで理解できない。
「 !!!!」
男が何ごとかを吐き捨て、拳を振りかぶる。
思わず頭を庇ったが、腕と頬のあたりに衝撃が来た。寝台の上から転げ落ちて、尻と肘を強かに打つ。次には脇腹を思いきり蹴り上げられた。痛いと思う間もなく、胃のなかのものを吐きだす。えずいていると、男が脇にあった長剣を手に取るのが視界の端に見えた。
床に転がったまま身を翻し、最初の一撃を躱す。それから傍にあった男の靴を男の顔面を目掛けて思いきり投げつけた。眉間の辺りを押さえて蹲った隙に、服を抱えて走り出す。
行くあてもないが、このままここにいれば殺される。そんなことになれば、弟に生きてふたたび巡り会うことなどできやしない。
宿のなかを赤ら顔の男たちとすれちがう。酷く出来上がっているのか、娘の黒い肌を見ても好色な視線を向けて、なにか言葉を投げつけてくるだけだったのは幸運だった。
宿の外に出てすぐ、夜陰に紛れて異国の装束を纏う。貴族の男がもたもたしていてくれて助かった。
北か南か、それとも東か西か。どこに行けば弟の元に辿りつけるのかも分からない。もはや最後に別れた町がどこにあったのかも。宿のなかから、陶器かなにかが割れるような音が聞こえてきた。男とその従者が追いかけてきたのだろう。
娘は、たまらず駆けた。誰にも見咎められない闇のなかへ、一刻も早く。
薄曇りの夜昊が、ざわりと冷たい風に揺れる。遠く山裾の向こうから、もくもくと叢雲が立ちのぼる。
厚く覆った雲は星々の輝きをたちまち掻き消し、辺りは濃い闇のなかにとっぷりと沈んだ。
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