第1話 廃滅の国からきた娘

「――ということで、黒字こくし病患者の扱いには留意する必要が……ってイオ、聞いてます!?」


 アルは『廃滅はいめつの国イシュハにおける黒字病の伝染に関する董伯とうはく暦三十六年の記録』百五十二頁を朗読し終えると、目の前で葡萄の果実を啜りながら窓辺にじっと目を凝らしている主君に向かって声を荒げた。

 ここは、キァーヴェ村からだいたい馬で三日くらいの距離にある小さな町だ。ここ数日は野宿が続いていたので、さすがにアルもイニーツィオも口数も減り明らかに消耗してきていたため、久々に町に泊まることにしたのはいいのだが……。


「この期に及んでそんなに今夜の同衾のお相手を物色したいなら、謹んで退出させていただきます」


 イニーツィオが書物の内容を知りたいとかなんとか言うから、荷解きもほとんどせずに彼の部屋にすっ飛んでいったのだ。だというのに、相手が上の空では堪忍袋の緒も切れる。

 黄昏の迫る窓辺に肘をついてぼんやりしていたイニーツィオが、顔を引き攣らせてこちらを振り返った。


「……アルは俺のこと、なんだと思っているわけ」

「色狂いの猿――あっ」


 思わずクラヴィスのイニーツィオへの罵り語録その一のひとつを口にしてしまってから、アルは口元を押さえる。


「ふーーーーーーーーーん。君のご主人様に対する見解はよく分かったよ」

「や、イオ? 今のはちょっとした言葉の綾っていうか、ね?」

「ね、じゃ分かんないよ言梯師げんていしさん。それに最近はアルと一緒に寝てるから、べつに誰も物色せずに済んでるし」

「ご、語弊がありすぎるので撤回してくださいっ」


 顔を真っ赤にして言い募れば、柘榴石の眸が細まりにまにまと口元が緩む。この王太子殿下は、一緒に過ごせば過ごすほどタチが悪くなってきていた。

 いくら野宿の間は、なにか不測の事態が起きたときに備えて、互いの寝顔が見えるくらいの距離で眠ったとはいえ、イニーツィオとの間にはなにもなかった。まあ彼の愛情を傾ける相手は男性なのだから当然なのだが。そしてそうであるからこそ、アルも安心してぐーすか眠りこけていたわけであるが。

 とはいえ、イニーツィオがここ最近は夜の生活を断っているのも事実だった。まあ野宿続きだったせいもあるだろう。

 そこまで思ったところで、アルは注意深く窓の外を見下ろした。特に変わったものは見当たらない。しかし――。


「イオ、もしかしてこの町に入ってからずっとなにかを探しているようなのは、お相手探しではなく、なにかを警戒していらっしゃいますか?」


 イニーツィオがハッとした様子でアルを見上げる。

 やはりそうか。

 アルは自分の迂闊さに頭を掻きむしりたくなった。

 この王子様が世間の評判よりもよほど地頭がよく、考えなしではないことは旅を共にしてきて否応なしに理解している。そうでなければ、精鋭ぞろいの側近たちをこうも煙にまき続けることなどできやしないだろう。最近では、旅を始めたばかりの頃のような、馬鹿げた行動も全くとらなくなった。アルにはもう隠し通せないと踏んだのだろう。

 思えば、あのはじめて野営を共にした日、「もう後戻りできなくなるけど、いーの?」という言葉が決め手だった気がする。あの日、正真正銘アルはこの人の臣になったのだ。


 とはいえ、彼がそのすべてを明かしてくれるようになったかというと、それもちがう。

 イニーツィオはいまだ、一人で塞ぎこんだり、なにかを抱えこんでいるような節がある。

 それを薄情だとは思わない。アルも禁書室時代に、どれほど同僚や上司や街の人々と打ち解けようとも自らの性や真名を話す気にはなれなかった。それは相手を信用していないからというのとは、また少しちがう。アルの場合は、信念の問題だった。或いは、決意の。

 クラヴィスは、グリエルモを評して“左腕そのもの”と言い切った。アルはまだ、イニーツィオにそのようには思ってもらえていない。お互いに隠していることが多すぎる。


「ちょっと来て」


 イニーツィオに手招かれ、帷帳の裾からそっと窓の外を覗く。

 緩やかな石造りの斜面の通りの向こうに、優美な小片鎧スケイル・アーマーを纏った騎士が、辺りを警戒するように首を巡らしている。胸当てには精緻な黒種草ニゲラの花が描かれ、機能性に優れたというよりは装飾性に富んだ、金剛騎士団にも似た甲冑姿だった。

 視線を感じたのか、その騎士が仰向く。


「あ、やばっ」


 思わず帷帳を閉めようとした手を、イニーツィオに引かれる。アルはたたらを踏んで、座椅子に腰掛けたイニーツィオの膝の上に乗り上げる。


「ご、ごごごごめんなさい、殿下!」

「いいから、俺の首の後ろに手、回して?」

「は?」


 真顔でそう返すやいなや、焦れたように腰を引き寄せられた。膝立ちでイニーツィオの上に跨っている。なんだか知らないがすごくなにかが猛烈におかしい態勢だ。

 吐息が絡み合うほど近くに、イニーツィオの顔がある。アルの蜂蜜色に染めた髪はイニーツィオの頬に落ちかかり、窓から射し込んだ夕日が彼のきめ細かな瑞々しい肌に、踊る影を添えていた。

 心臓が、とくんと鳴る。


「……あ、行った」


 間近で見つめ合っていたはずのイニーツィオから、ひどく間の抜けた声が上がる。イニーツィオの視線を追いかければ、窓の外の騎士が目を逸らし、別の方角へ歩きだしているところだった。

 騎士の動きを監視している不審者と疑われていたところが、ただのいちゃついている恋人同士かなにかだと判断されたのだろう。

 もしかしなくても、全部演技だったらしい。脱力して、座椅子の背もたれを支えに溜息を吐く。


「なんだ。そういう気なら、最初からそう言ってくださいよ。そうしたらわたしだってそれらしく……」

「じゃあ、今度はそれらしくやってみる? お邪魔虫もいなくなったことだし」

「お戯れはやめてください! わたしはあなたの臣で、しかも女なんですから対象外でしょう。もう、ほんと困った方ですねっ」


 うっかりいまだイニーツィオに乗っかったままだったのを思い出して、いそいそと彼の脚から下りる。


「ところで、あの騎士なんだったんですか? 側近の方じゃないですよね?」

「んー、目当ては俺かと思ったけど、あの様子じゃどうもちがうみたいだね」

「側近の方以外にもまだ追われる理由があるんですか!?」


 衝撃を受けるアルをよそに、イニーツィオは曖昧に笑う。


「それか、イシュハの民の目撃情報でも入ったかな。デズィーオの検問をしてた連中と同じかも」


 イシュハの民と聞いて、アルも背筋を正した。


「外の様子、見に行ってきます」

「君一人で行って、どうするの。俺も出るよ」


 そう言って、イニーツィオは外套を目深にかぶる。

 やはり、以前よりもよほど周囲を警戒しているようだ。少なくとも男娼を大量召喚して、俺が次期王様だーとかなんとか威張り散らして乱交の宴を開くような色ボケ大王ぶりは鳴りを潜めている。


「でもイオ……」

「大丈夫、どうせ死なないんだから」

「そのことと、あなたを粗末に扱うのとはちがいます。なにかあったら、絶対わたしの後ろに隠れてくださいね」

「ハイハイ」


 どこか嬉しそうに寂しそうにイニーツィオが言って、アルの手を取った。


「……なんですか、この手」

「えーと、偽装目的? かな?」


 なぜ疑問形なのか理解に苦しむが、たしかに女と手をつないでいるのがまさか男色趣味の王太子殿下だとは誰も思わないだろう。

 妙案と言えば妙案のような気がしなくもない。


「仕方ありません。今日だけですよ!」


 アルの言葉に、イニーツィオはぽやぽやとした笑顔で微笑んだ。やはり性格が迷子すぎて理解不能だ。

 アルも自分の客室に戻って、外套に袖を通す。連れ立って宿の外に出れば、先ほど向かいにいた騎士は跡形無く消え去っていた。

 どうしようかとイニーツィオと顔を見合わせたところで、坂の下になにやら石工たちが作業しながら談笑しているのが見えた。

 石工の一人から素っ頓狂な声が上がる。木槌とたがねを使って石を切り出して彫刻を施している姿は珍しく、イニーツィオの手を離して吸い寄せられるようにそちらへ足を運んだ。

 石工たちは、どこか辺りを憚るように頭を突き合わせて、ひそひそとハラ語で囁き合っている。


「それ、本当かよ」

「マルチャに住んでるサンドロが言ってたんだ、間違いねえよ」

「でも、イシュハの女なんて高級娼館にしかいねえって噂じゃねえか。本当なのか?」

 アルの地獄耳はイシュハ、の単語を聞き漏らさなかった。


「すみません、ちょっとお話、聞かせていただけますか?」

 アルの突然の参入に、石工たちは顔を見合わせる。


「い、いや、俺たちはなにも……」


 それなりに良いところのお嬢さん風を装っているアルの手前、娼館だのイシュハだのという言葉を聞かせるのを躊躇うのも無理はない。

 それに、悪ければ異域いいき干渉罪で首が飛ぶご時世だ。

 正攻法では難しいと見える。

 アルはたちまち、愛想のよい笑みを浮かべた。


「わたしは《第六言語機関》の大使の使いで、イシュハの女性を探しに参りました。ローデンシアでは、異域干渉の罪は重罪と伺っておりますが、わたしどもは治外法権を認められた身。あなたがたの証言も決して他言はいたしません。どんな情報でも構いませんから、教えてはいただけませんか?」

「だ、《第六言語機関》……」


 石工たちはふたたび顔を見合わせた。

 《第六言語機関》は一般の人々の間には、人工言語ハラ語の普及を使命とする、世界的な組織――つまり実際問題何をやってるのだか内実はよく分からないが、雲の上のエラい人たちという印象しかない。大抵の人はそういうエラい権威には、なんとなく従ってしまうものである。

 アルはダメ押しの笑顔をつくる。

 すると、石工の一人の口が滑りだした。


「じ、実は昨日、どこかの貴族様が隣のマルチャの町に泊まったらしいんです。でもそのお貴族様が連れていた女が、実はイシュハ人だったんじゃないかって。その女、まだ見つかってないそうなんです。で、その噂を聞きつけたのかなんなのか、今日は昼くらいからここらじゃ見かけない騎士様がうろうろしてて」


 ドンピシャだ。

 逸る気持ちを押さえて、努めて穏やかにアルは尋ねる。


「その女性の居所に心当たりはありませんか?」

「い、いや――あ、でもたしか酒場のイルダが、さっき墓地の近くでふらふら歩いている奇妙な人影を見かけたとかなんとか……。この時期はよく北の方から家無しの連中が紛れ込んでくるんで、そいつらかもしれませんが」

「ありがとうございます。とても参考になりました」


 アルはお礼を言って、足早にイニーツィオの元へと戻る。

 イニーツィオはぱちぱちとまばらな拍手をして、それから少し意外そうにアルを見下ろした。

「嘘、嫌いなんじゃなかったっけ?」

「嫌いです。だけど、必要なときは嘘もハッタリも使います。とくに誰かを守るときには。わたしだって、言梯師がまったく曇りなくお綺麗に澄ましていられる職業だとは思っていません。ただ、嘘で誰かを傷つけたりするのはやっぱり、嫌、ですけど……」


 そう言って歩きだす。

 墓地は、さほど遠くない距離にあった。木枯らしが落ち葉を踊らせ、砂埃を巻き上げる。注意深く見渡したが、先ほどの騎士の姿はない。代わりに、石工たちが言っていた奇妙な人影も見当たらなかった。


「そんな簡単に上手くはいかない、か」


 アルが小さく嘆息したときだった。

 イニーツィオが立ち止まって、糸杉の根元の辺りに目を凝らしている。アルも爪先立ちして覗いてみれば、なにか布に覆われた塊が鴉の群れにたかられていた。


「な、なななななにあれ?」


 黄昏時の墓地に、鴉に、謎の物体。明らかに怪しすぎる。

 アルは非科学的なものは信じない性質タチだが、この状況には及び腰になってしまう。思わずイニーツィオの裾を掴めば、手首を引かれた。


「行こ」

「ええええっ」


 めちゃくちゃ嫌そうな声が出る。

 とはいえ、王太子を矢面に立たせて自分だけ隠れているわけにはいかない。

 アルは意を決して、おそるおそるその怪しげな物体に忍び寄った。

 布からはみ出たものを見とめて、一息に頭が冷える。人だ。しかも、おそらくローデンシア人ではない。黒く濡れた肌。そして、頭巾から覗いた、細かく編み込まれた緑の黒髪。


「このひと……」


 その顔には、見覚えがあった。

 王都カリタで言梯師選が行われる前に接触した、イシュハ語を操る美しい娘。

 長い睫毛は固く閉ざされており、そっと触れた指先は氷のように凍えきっていた。


「〈大丈夫ですか?〉」


 正直発音も文法も正確なのか自信がないが、イシュハ語でそう尋ねる。しかしまるでいらえはない。脈をとれば、少々弱くなっている。呼吸も浅い。よくよく見れば、衣類から覗いているところだけでも、肌に細かな無数の傷があるのが確認できた。


「イオ、宿に連れて行きたいです。かまいませんか?」

「もとからそのつもりだよ。下がってて。運ぶから」


 そう言って、イニーツィオは娘を抱えあげる。

 それほど筋骨隆々としているようには見えなかったのだが、男のひとなのだなあとしみじみと思う。さすがにこればかりはアルでは代わることができないので、ありがたくイニーツィオの厚意に甘えた。

 アルは自分の外套を脱いで、娘の肌が露出している部分に掛けてやる。

 そうしてアルとイニーツィオは途中で見つけた酒樽に娘を押し込めると、荷車を拝借して何食わぬ顔で宿に戻った。

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