第2話 キァーヴェへ
その晩、アルは娘を自分の寝台に押し込めると、寝ずの看病を続けた。彼女が酷い高熱に魘され、時折吐瀉物で喉を詰まらせそうになったからだ。身体はひどく弱り、外で見つけたときには低体温症になりかけていたが、壊死は避けられそうだった。
こんこん、と扉を叩く音にアルはうつらうつらしていた顔をハッと上げる。気づけば、窓の外の空が白んでいた。
「ごめん、俺。起きてる?」
控えめな声がして、ほっと息を吐く。イニーツィオだ。
そっと扉を開けば、イニーツィオはアルの夜着姿を見てとって、目を伏せた。
「ごめん、気になって。大丈夫そう?」
「ええ……熱ももう、だいぶ落ち着いてきたと思います。本当はお医者様に診せた方がいいんでしょうけど……」
「それは残念だけど、ここじゃできないね」
アルは俯いて唇を噛む。
なにがどうしてイシュハの民がローデンシアにいるのか分からない。彼女の意志なのか、それとも無理やり連れてこられたのか。どちらにせよ、病気になっても医者に診せることもできないというのは歯痒いものがある。
「傷は?」
「暴行を受けたような痕はありました。ですが、わたしの見たかぎり、命に係わるようなものはありません」
娘の腹部と背中には、つい最近できたばかりに見える大きな痣があり、それ以外にも身体中に無数の傷があった。日常的に暴力を受けているのがありありと分かる。そんな身体だった。
アルはカントゥス家にいたころはほぼずっと、傷ひとつつかないように大事に守られてきた。金鏡官吏時代も事あるごとにジュストと衝突していたとはいえ、なにかあればグリエルモが守ってくれた。
だからこのイシュハの娘の境遇は衝撃だった。
アルと同じような年頃の少女が、このように傷だらけなのも、おそらくは言梯師選にまつわる謀によって彼女の父親と同じかそれ以上の年代の男に差し出されたのも。
それはアルの知らない世界の出来事だった。
「ん……」
イシュハの娘が、身じろぐ。
アルはハッとして寝台に駆け寄った。
娘の瞼が開いている。鮮やかな濡羽色の眸が、怯えたように巡る。
「〈大丈夫。ここは安全です〉」
アルの言葉に、娘は時を止めたようにこちらを見た。
「〈あんた、イシュハ人じゃないわよね〉」
警戒したような声音に、アルは寝台の傍に膝をついて娘に視線を合わせた。
娘はよろよろと身を起こす。
「〈水〉」
居丈高な声に、アルは慌てて水差しから注いだそれを娘に差し出す。
念のため、アルも同じ水差しの水を目の前で飲んでみせた。娘も唇を湿らせるようにしてそっと口をつける。
その様子にほっと息をついて、アルは言葉を継いだ。
「〈ローデンシア人です。名前はアル。あなたのお名前を伺ってもいいですか?〉」
「…………〈なぜ、助けたの?〉」
イシュハの娘は、アルの問いには答えずに室内に目を凝らす。
それからイニーツィオの姿を見つけると、なにやら唇を吊り上げて寝台から滑り降りた。
娘は、よろめきつつもイニーツィオの目の前に進み出た。
「〈ふーん、いい男。あんたの彼氏?〉」
「〈全然ちがいます! わたしの主です。ていうか不用意に触らないでください!〉」
「〈あら、彼氏じゃないならいいじゃない。名前は? イシュハ語は喋れる?〉」
娘はそう言って、イニーツィオの腰や太腿や鎖骨の辺りに意味ありげに触れていく。
さしものイニーツィオも、やんわりと拒絶しつつも固まっている。お間抜けにも、「うわーどうしよう」と顔にでかでかと書いてあった。
「〈イオはイシュハ語喋れませんし、ついでに言うと女性に興味がないので、離れてください!〉」
イシュハの娘は、最高にくだらない冗談を聞いたという顔をした。
「〈あんた、それ本気にしてるの?〉」
「〈ど、どういう……〉」
動揺するアルを尻目に、娘は鼻で嗤ってみせた。
「〈イオ様。あたしならこんな***娘よりあなたを愉しませてあげられるわ。その代わり、連れて行ってほしいところがあるの〉」
途中、聞き取れない単語があったが、おそらくアルの悪口にちがいない。
娘はイニーツィオの指と指の間を撫でて、上目遣いに肉厚の唇を開く。それから、焦れたようにアルを振り返った。
「〈ちょっと、早く訳してよ〉」
「――なっ」
さすがのアルも顎を落として言葉を失う。
なんという自分勝手さだ。
べつに恩を売りつける気はないが、正直「助けてくれてありがとう」くらいの言葉は期待していた。それをアルの存在は無視してイニーツィオに色目を使いだされて便利な翻訳機械扱いされたら、ムッとしなくもない。
だが、相手はおそらくはアルなどの想像もつかないような辛酸を舐めてきたはずだ。こんなちょっとした苛立ちをぶつけるのは、忍びない気がする。
「……イオ、その……彼女が、連れて行ってほしいところがあると。あと、えーと、彼女ならあなたを愉しませてあげられると。その、あなたが女性に興味がないことについては、勝手ながらお伝えしたんですけど」
イニーツィオは苦笑した。案の定、立っていられずにふらつき始めた娘を支えて、椅子に座らせてやる。
落ち着くと、娘はなぜかアルを睨みつけてきた。なんだかますます敵意を抱かれた気がするが、その理由が分からない。
「べつにその必要はないって言って。あと、どこに行きたいのか、聞いてくれる?」
イニーツィオの言葉をそのまま訳せば、娘の眸が頼りなげに彷徨った。
「……〈イシュハの難民が流れ込んできていた港よ〉」
「イシュハの難民が流れ込んできていた港? イオ、心当たりはありますか?」
「たぶん、港湾都市ルモーレだろうね。あそこ、イシュハ人目当ての人買いがいっぱい出入りしているらしいから」
アルは耳を疑った。
ルモーレはローデンシアの最南端に位置する大都市で、外国との交易が途絶えた今も国内各地とは取引をしているが、そんなことは聞いたことがない。
「信じたくないと思うけど、この国の娼館のいくつかにはイシュハ人がいるし、それを買う輩はいる」
ここでイニーツィオが嘘を吐く理由はない。
おそらく、箱庭で蝶よ花よと愛でられて暮らしていたアルには知らないことが、この世界には山ほどあるのだろう。
「……アル、その子にカリタで会ったって言ってたよね? その子の名前、サダクビアじゃない?」
イニーツィオの言葉に、娘の肩がぴくりと震えた。
「〈なんで知っているの?〉」
アルが問うよりも早く、娘が尋ねた。視線に警戒の色が混じっている。
「君の弟を知っているかもしれないって伝えて」
アルが瞠目しつつ、イニーツィオの言葉を翻訳すれば、サダクビアは束の間、時を止めた。
夜色の眸に透明な液体が盛り上がる。それまで纏っていた妖艶な女の鎧が剥がれ落ち、あとには泣きじゃくる少女の姿だけが残された。
* * *
サダクビアとの出逢いから二日間、アルたちは宿に逗留し、彼女の快復を待った。彼女は病を押して弟の元へと向かいたがったが、アルの取り成しに渋々折れ、驚異的な回復を見せた。
三日目にはサダクビアはアルとともに馬上の人になっていた。
向かうのは港湾都市ルモーレではなく、元々イニーツィオとアルが目指していた山村キァーヴェだ。
なんでも、イニーツィオがキァーヴェに匿っているイシュハ人が、サダクビアの弟らしい。イニーツィオは彼から、王都に連れて行かれた姉の話を聞かされていたというのだ。
サダクビアは何度もイニーツィオに感謝の言葉を口にした。とはいえ。
「〈なんであたしがあんたと同じ馬なの? なんか乗りこなし方下手じゃない? あんた〉」
アルへの憎まれ口は相変わらずだった。
「〈そ、それは悪うございましたね。わたしの乗馬の腕前は置いといて、サダクビアをイオと一緒にしないのは、イオにべたべた触るから! 一応あの人それなりに立場がある人だから、そういう振る舞いはやめてほしいの〉」
アルももはや彼女に敬語を使う気は失せていた。
「〈だったら、あんたも触ればいいじゃない。女の嫉妬は見苦しいわよ〉」
「〈そういう意味じゃないんだけど!?〉」
アルの素っ頓狂な声にも、サダクビアはどこ吹く風だ。隙あらばイニーツィオに接触しようとする。
「〈なんで?〉」と聞けば、「〈お礼よ。当然でしょ〉」と彼女はすまし顔で答えた。自分の美貌に絶対的な自信を持っていなければ、そんな答えは返ってこない。まあたしかに、彼女はアルがこれまで目にした女性たちのなかでも、鮮烈な印象を残す美しい娘だった。
大抵の男は、彼女に迫られて悪い気はしないだろう。
とはいえ、イニーツィオは例外だ。彼をサダクビアの魔の手から守らねば、とアルは固く決意する。
「〈で、今日のハラ語講座だけど〉」
アルの強引な話の切り替えに、あからさまにサダクビアは不満そうな顔をした。
ハラ語講座は、アルがサダクビアに提案したことだ。
この国でイシュハ語はあまりに異質で、いくら肌を布で覆おうと、言葉ひとつ発しただけでローデンシア人でないことが露見してしまう。
アルとてできることならずっとイシュハ語で会話をしていたいところだったが、それはあまりに危険な振る舞いだった。そのため、サダクビアとハラ語での意思疎通をすべく、彼女にハラ語の学習を提案したのだ。
「〈あんたも、イシュハ語なんて汚らわしいって思ってるクチでしょ〉」
サダクビアはそう言って、肩を竦める。
アルは思わずオロの足を止めた。
「〈思うわけない〉」
急に止まったのを不審がって、サダクビアが振り返る。
「〈思うわけないよ。だって、あなたたちの言葉はとても……綺麗だもの〉」
サダクビアは、目の前にしたご馳走が突然消えたような、奇妙な、途方に暮れたような表情をした。
「……〈あっそ〉」
短くそう言って、サダクビアは前を向いてしまう。アルの話を聞く気はゼロのようだ。
「お嬢さんたち」
先行していたイニーツィオが、馬首を返して戻ってくる。
彼はなびく髪を押さえつけて、前方を指差してみせた。
すぐ手前には緩やかな川が蛇行して流れており、その奥に石灰岩の台地がお目見えする。その台地の上には、白っぽい外壁にくすんだ褐色の石片を積んだ傾斜のきつい屋根が建ち並ぶ、美しい町並みが見えた。
「あれがキァーヴェ村。ようやく目的地だよ」
イニーツィオの言葉に、アルは表情を引き締める。
すぐ前で、サダクビアがなにかを堪えるように、太腿のあたりの巻き衣を握りしめる気配がした。
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