第3話 言葉の涯の先に

 キァーヴェは、特殊な不銹ふしゅう鋼を製造する技術をもつ職人の村としてかつて栄えていた小さな村だ。今やローデンシアからは喪われた技術で、村には老人の姿が目立つ。この長閑な村に、まさかイシュハ人が息を潜めているとは誰も思わないだろう。アルたち一行は石畳の坂道を下り、やがて一軒の小さな古民家に辿りついた。


「中に、リゲルと医者がいる」


 サダクビアの弟は、リゲルというそうだ。

 アルは『廃滅の国イシュハにおける黒字病の伝染に関する董伯暦三十六年の記録』をぎゅっと抱きしめた。リゲルは黒字病に感染している。アルは綿布で顔を覆い手袋を嵌め、サダクビアにも同じものを渡した。


「〈いらないわよ。あたしの弟を汚いもの扱いしないでくれる?〉」

「〈黒字病は人から人に感染うつるの。この文献によれば、接触感染は確実。でも、空気感染するかまでは書いてない。あなたまで感染したら、面倒みきれる自信がない。予防よ。それができないなら、イオと一緒に外で待ってて〉」


 アルの辛辣な言葉に、サダクビアは眉根を寄せて綿布と手袋をひったくった。見よう見まねで、後頭部で綿布の先っちょを固結びしている。


「ねえ、俺のは?」

 当然のようにアルの袖を掴んで首を傾げたイニーツィオに目を剥く。


「イオは外でお留守番です! 当然でしょう。あなた、自分が誰だと思っているんですか?」

「でも俺しか事情分かってないもん。俺が行った方が話が早いでしょ?」

「それはそうかもしれないけど、あなたは……」


 そこまで言って、アルは小さく息を吐く。

 言いだしたら聞かない顔をしている。それにたしかに、イニーツィオがいないと状況も分からないし、アルたちだけで行っても医者に不審がられる可能性があった。


「じゃあ、これつけて。手袋もして。中では絶対になにか飲んだり食べたりしないでくださいね」

「はーい」


 イニーツィオは緊張感のない笑みを浮かべている。そのへらへらとした顔を小突いてやりたいような気持ちになる。

 そんなことはありえないと分かっているけれど、もしもエジカ・クロニカに謳われた次期国王が死んだりしたら国は大混乱だ。

 《詩篇クロニカ》という正しい導きを失った国の末路は悲惨だ。サダクビアの故国たるイシュハの狂女王は、《詩篇》に反旗を翻し、結果として国は滅び黒字病が撒き散らされた。


「わたしはあなたの臣ですから、あなたをなにに代えても守らなければなりません。そのことを忘れないでくださいね」


 アルの言葉に、イニーツィオは曖昧に微笑む。その俯いた眼差しの儚さに、息を呑んだ。


(またこの顔……)


 この王太子殿下は、時折ひどく寂しげな、それでいてなにかに焦がれるような目をしてみせる。その理由が、アルにはいまだ分からない。

 そもそも政務にまるで関心を見せなかったイニーツィオが、なぜこんな厄介なイシュハ人や黒字病の問題に首を突っ込んでいるのかもさっぱりだ。

 アルは思考の渦に飲みこまれかけた頭をぶんぶん振って、扉に手を掛ける。ギィ、と古めかしい音を立てて、蜘蛛の巣の張った狭い廊下がお目見えした。




「やあ、王子様。もう戻ってこないかと思っていたところですよ」


 居間に入ってすぐ、擦れて落ち着いた低めの女の声がした。

 室内は雑然と散らかっていたが、食卓の上には所狭しと医療器具や薬草が几帳面に並べられている。

 女は嵌めていた手袋をごみ袋に投げ捨てると、額に浮いた汗を拭った。

 暗い色調の腰にも届きそうな赤毛を頭の高い位置でひとつに結んでおり、榛色の眸は切れ長で涼やかだ。身長は男性のなかでも長身のイニーツィオと並ぶくらいに高く、化粧っ気はなかったが思わず見惚れてしまうような華がある。年の頃は、二十代後半――いや意外と三十は超えているだろうか。

 アルは何とはなしに、サダクビアと目を見合わせる。


「じょ、女性のお医者さま……?」


 ローデンシアの医師は、医学大学で学んだ内科医、外科医学校で学んだ外科医、そして床屋と外科医を兼ねる職人としての床屋外科医の三種に分けられる。そのどれもが、ほぼ男性で占められ、近頃女性医師を見かけることは稀だった。


「これはかわいらしいお客様を連れていらっしゃったものだね。お嬢様がた、はじめまして。私はルスキニア。これでも腕には自信がある。安心してくれるかな。そちらのお嬢さんがサダクビア嬢?」


 アルは慌ててサダクビアにイシュハ語訳を話して聞かせ、自己紹介をした。

 それにしても開口一番失礼なことを言ってしまった気がする。男だ女だと色眼鏡で見られるのは、アル自身が嫌いなことだったのに。

 ちらとルスキニアを見れば、彼女はアルのイシュハ語に口笛を吹いて「やるね」とからりと笑った。どうやら気分を害してはいないようだ。ほっと胸を撫で下ろす。その笑顔ひとつで、アルは彼女を好きになれる気がした。


「あ、あの、これ参考になるか分からないんですけど」


 そう言ってルスキニアに文献を差し出してから、アルはあっと声を上げた。

 文献はローデンシア文字で書かれている。


「へえ……黒字病の専門書なんて、よく手に入れたね。まさか本当にあったとはねえ」


 ルスキニアはしげしげと書物を開いて眺めている。どうやらルスキニアは女性でありながら、ローデンシア文字が読めるらしい。

 ルスキニアはああと笑って、アルの疑問に答えてみせた。


「私は今はこんな無頼の医者をやっているが、昔は貴族令嬢だった時代もあってね。母の目を盗んではローデンシア語を学んでいたんだ。兄たちが学んでいることをどうして学んじゃいけないのかって、カンカンに怒ってね」


 バレたときの母の怒った顔はそれは見物だった、と言ってルスキニアは片目を瞑ってみせる。

 説教を右から左に聞き流しているルスキニアの姿がありありと想像できて、アルはくすりと笑った。


「〈ちょっと!〉」

 業を煮やした様子で、サダクビアが声を上げる。


「〈本があったって、患者がいなきゃどうにもならないでしょ。リゲルはどこ〉」


 その通りだ。

 こんなところで油を売っている場合ではない。


「ああ、申し訳ない。サダクビア嬢、なにがあってもリゲルくんに触ることはやめてくれるかな。それだけ守ってくれるなら、私についてきてくれ」




 その部屋に一歩足を踏み入れると、アルは思わずその場に蹲りたくなる衝動をぐっと堪えた。

 頭をがんがんと殴りつけられているような痛みが走り、血がぞわりと蠢いているような気さえする。呼吸がしづらい。

 しかしそんな変調をきたしているのは、アルだけのようで、イニーツィオとルスキニアは大した抵抗感なく部屋のなかへと足を踏み入れている。

 いや、よくよく見てみれば、アルの脇でサダクビアが胸を押さえて息を荒げていた。


「アル? サダクビア?」


 気づいたイニーツィオが取って返してくる。

 背をそっと撫でられ、少し呼吸が楽になった。


「やはりそうか」


 ルスキニアが顎に手をやって呟く。

 アルもルスキニアの言いたいことを察して頷いた。


「黒字病は、周囲の人にも影響を及ぼし、その患者の言語の話者に特に強く作用します。あの文献にそう書いていました」

「うん、そのようだ。接触性の病としての側面もあるが、エジカの呪いじみたものを否定しきれないな。医師としてはあるまじき言葉だが。アル嬢とサダクビア嬢は外に出ていてくれ」


 ルスキニアはそう言って、アルたちを部屋の外に出そうとする。


「〈あたしは大丈夫よ〉」

「せめて様子だけでも確認しないと」


 揃った声に、サダクビアを見やれば、彼女は蒼白な顔でしかし、寝台をまっすぐに見つめていた。

 彼女の腕を引いて、リゲルの眠る寝台の横に膝をつく。

 リゲルを覗き込んだサダクビアの顔が引き攣り、ひ、と声にならない声が漏れ聞こえた。


 リゲルの髪は真っ白に染まり、その身体には無数のイシュハ文字が蚯蚓のようにのたうっていた。

 文献にも、病状が進行すると髪が脱色してしまうと書いてあった。身体に刻まれたエジカの創りし文字たちは、黒字病の典型的な症状だ。


「〈あたしと別れるまでは、ここまで酷い状態じゃなかった。胸の辺りにいくつか文字が浮かんでいただけだったのに〉」

 そう言って、サダクビアはその場に崩れ落ちる。


「〈この子を治してくれるっていうから、あたしは――あたしは王都とやらに行ったのに!〉」


 サダクビアは罅割れた声で叫んで、床に拳を打ちつける。

 綺麗に手入れされた爪が割れて、床にぱっと血飛沫が散った。ぽろぽろと流れ落ちた涙が痕をつくり、綿布を濃く染めていく。

 アルはその手を慎重にとって、彼女の夜昊じみた眸に視線を合わせた。


「〈髪の色が抜けても、快復した例はあるわ。治療法はちゃんと、ここに書いてある。諦めないで〉」

「〈あんたになにが分かるのよ!〉」


 血を吐くような声だった。

 彼女は弟が助かるために、みずからの全てを犠牲にしたのだろう。

 利用されていると知りながら、ランベルティ失脚に際して異国の父親ほどにも年齢の離れた男に身体を差し出し、命からがらその場を逃れてからは、リゲルの元に辿りつくために身体を売った。

 その心情を思うと、アルは途方に暮れてしまう。

 あまりにも遠くて、あまりにも悲壮な決意が横たわっていて。それを訳知り顔で分かっているなんて口が裂けても言えるはずがない。

 そもそもアルは、どれだけ言語を学び書を紐解いたところで、他人のことが完全に理解できるなんて、毛ほどにも思ったことがない。


「〈あなたの心はあなただけのもので、わたしがイシュハ語を喋れたって、分かるはずもないものだけど〉」


 そう言って、アルはサダクビアのほっそりとした、しかし働き者の手に指を絡ませた。


「〈だけど、わたしも家族が大好きだった、、、から。だから、リゲルくんの治療が終わるまで、あなたの傍にいる〉」


 サダクビアの花のかんばせがくしゃくしゃに歪み、ほたりと雪のようにアルの手の甲を光のつぶが弾けた。

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