第3話 彼の欲しがったもの

(……それにしても、ローデンシア語を喋れない振りをしている理由がさっぱりわからない。やっぱり王になりたくないってこと……? でももう《大詩篇》が詠まれちゃってるのに、そんなの無理だわ)


 考えてみれば、一時でもグリエルモに師事していたという人間がローデンシア語を全く喋れないというのは考えにくい。グリエルモは知の巨人に相応しい人物だったが、人に教えるのも抜群に上手かった。


(グリエルモ様、たぶんこの人の母国語も喋れません設定が演技だって、最初から知ってたな)


 アルがしばしばイニーツィオへの不満を口にするたびに、取りなすようなことを言っていたのも、このためだったにちがいない。


(……教えてくれたらよかったのに)

 そうしたらこんなに回り道をしなくて済んだ。


(それとも……教えられなかった?)


 その考えは、なんだか妙にしっくりきた。

 そしてそれは、イニーツィオがローデンシア語を喋れない振りをしている理由とつながっている気がする。


「なにかまたひらめいた?」

「ひらめいたところで教えてくれないじゃないですか」

「今はね。だけど君にはなんだか、調子を狂わされるから」


 それはこっちの台詞だと言ってやりたい。

 イニーツィオのおかげで、アルはひたすら言葉の真意を考え続けたり青ざめたり赤面したり怒鳴ったりと忙しないことこの上なかった。


「ね、それで俺のお願いだけど」

「う゛っ」


 アルは地面に座り込んだまま後退りした。

 自分から言いだしたこととはいえ、悪魔に魂を売り渡したような気分だ。

 イニーツィオは地面に手をついて、こちらに迫ってくる。

 太腿の付け根の脇に手が置かれる。梢の間から覗く鈍い銀の弓張り月を背にして、イニーツィオは小首を傾げる。


「――俺のために死んでくれる?」

「え、嫌です」

「……また即答」


 ふてくされた様子で、イニーツィオがアルの上からあっさりと退く。


「そこはさ、嘘でもいいから頷いとけばいいじゃない。俺の機嫌取っとけばなんかいいことあるかもよ? 仮にも王太子だし」

「あなたまで仮にも王太子とか言わないでください!」


 散々自分は仮にも王子とか腐っても王族とか心の中で暴言を吐いてきたのを棚に上げて、アルは喚いた。


「君だって相当の嘘つきのくせに、律儀だね」

「わたしは好き好んでホラ吹き人生を送りたいわけじゃないんです! カントゥス家に戻れたら、いえ、それはもうわたし自身望んでいませんけど、ただのアル・スブ=ロサになれたらどんなにいいか――!」


 そう捲くし立てるやいなや、ぽろりと目尻から熱いものがこぼれ落ちた。

 慌てて手の甲でそれを拭う。

 しかし心とは裏腹に、一度溢れだした涙はもう留めることができなかった。


 七年前に母を目の前で喪い、ついには愛していた家を飛び出してから、実家のことを誰かに話したことはなかった。誰かに心のうちをさらけ出してしまうなんて、もってのほかだ。

 女神エジカの血を色濃く受け継いだ楽謡がくよう血統カントゥス家の娘は、《詩篇》が詠めること、そして楽謡血統の子どもを生めることから、歴史上悪意を持った人間につけ狙われてきた。

 だから絶対に、この秘密を打ち明けてはならない。誰にも、心を捧げてはならない。男に奪われてはならない。

 カントゥス家を出奔した際に、そう覚悟を決めていた。そうでなければアルの存在は、カントゥス家や王国に破滅をもたらす禍にしかならない。


 イニーツィオの顔が見れない。

 この期に及んで、感情ひとつままならない自分に嫌気が差す。


 不意に肩を引かれて、なにか硬くて温かいものに倒れ込む。

 目を見開けば、イニーツィオの腕の中にすっぽりと包みこまれていた。


「あんまり目、擦ると黴菌入るから」


 から、の使い方がおかしい。理由になっていない。

 だけどアルには今、それを指摘するだけの気力も余裕もなかった。ただされるがままにイニーツィオの胸に顔を埋める。

 後頭部をなだめるように手のひらが滑る。

 イニーツィオの手は、思っていたよりもずっと大きかった。

 男のひとの手だ、と否応なしに思い知らされる。いつもだったらそれを怖いと思っただろうに、どうしてかたとえようもなく安心した。ともすれば、このまま微睡んでしまえそうなくらい。

 涙が落ち着いてくると、アルはがばっと身を起こした。息も触れ合いそうなほど近くに、イニーツィオの目に毒な整いすぎるほどに整ったご尊顔がある。


(わ、わ、わたしは王太子殿下相手になにをやってるの!?)

 慌てて、イニーツィオの肩を押して身体を引き剥がす。


「ごごごごごごごめんなさい、殿下。わたし、ちょっと気が動転してました! 以後、こんなことがないように気をつけますから」

「俺も君に泣かされた。だから、おあいこ」


 アルはその言葉に目を瞠った。


 ――大丈夫じゃない。


 ルーナ=プレナの墓地で大丈夫かと尋ねたアルに、イニーツィオはたしかにそう答えた。その目から、今にも涙がこぼれ落ちそうだったのをよく覚えている。彼のなかでなかったことにでもされていると思っていたが、そうではないらしい。


「な、泣かされたっていうのは語弊がありますから、やめてください。……あのとき、やっぱり大丈夫じゃなかったんじゃないですか。理由は……どうせ教えてくれないんでしょうけど」

「……ごめんね」


 ゆるりと目尻が細まる。

 イニーツィオの手が伸びてきて、アルの頬にはりついていた髪が耳の後ろにかけられる。

 耳たぶに彼の指先が触れかけて、我知らず心臓が跳ねた。

 思い通りにならない感情をなだめすかして、アルはそっと目を伏せる。

 イニーツィオは咎めなかったが、あまりにも自分本位な物言いをしてしまった気がする。いくら仕事を放棄している王太子といえど、なんでもかんでもずけずけと土足で踏み込んでその心を暴いていいわけではないだろう。アルとて、イニーツィオになにもかもを余すところなくさらけ出しているわけではないのだ。


「わたしも……ごめんなさい」

 アルは深呼吸をして、イニーツィオの手のひらを両手で包みこんだ。


「あなたが大切に心の奥にしまっているものまで、無遠慮に暴き立てたいわけじゃありません。でももし、わたしのことが信用に足ると思っていただけたときが来たならば、どうかまた、わたしにイオの真実ほんとうをくださいますか?」

「……うん、考えておく」


 素直な返事が意外で、アルはまじまじとイニーツィオを眺めてしまう。

 流し目をくれられ、アルはこほんと咳払いをした。


「あ、あと念押ししておきますけど、イオのために死ぬつもりはさらさらありませんからね。わたしにはもうこの道しかないんですから。そうそう簡単に手放す気はありません。わたしの力が誰かの役に立つのなら、わたしはそのために力を尽くしたい。だから死んでいる場合じゃないんです!」

「うん、俺も君には死んでもらうつもりはないから。さっきのは、物の譬えっていうか」

「は?」


 仕えるべき主君にすこぶる無礼な返しをしてしまったが、何度やり直したとしても、多分同じ返しをしてしまうだろう。


「もう訳が分かりませんよ。その謎っぽい空気を醸し出しているのがイケてるとでもお思いなら、大間違いですからねっ。はっきり言って、意味不明すぎてドン引きですから。性格が迷子すぎてついていけません。いえ、わたしはあなたの言梯師ですから、ついていきますけど」


 イニーツィオは立てた膝に頬杖をついて、背を丸めて笑っている。


(もうなんなのよ、このひと……)


 そこまで思ったところで、鍋が噴きこぼれているのに気がついた。野菜と茸の深みのある甘いにおいが辺りにくゆっている。

 慌てて立ち上がったところで、手首を引かれた。


「わ、ちょっと、お鍋が!」

「俺のお願い聞いてからにしてよ」

「子どもじゃないんですから、ちょっと待っててください! もう、お鍋を下ろしたらいくらでも聞いてあげますから」


 イニーツィオに渋々解放され、アルは慌てて鍋を火から下ろす。蓋を開けると、むわ、と蒸気とともに食欲をそそるにおいが充満する。隠し味で入れた香草の樟脳にも似た香りが鼻腔をくすぐった。

 椀に二人分取り分け、イニーツィオに手渡す。食前のエジカへの祈りの聖句を口にしてから、スープを啜った。


「わ、美味しい。お肉に弾力があって、脂が乗ってるってわけじゃないんだけど、なんかこう、上品なお味っていうか」

「俺の血抜きが上手いからね」


 ふふん、とイニーツィオが胸を反らす。

 森の中で生き抜く力が高すぎる王太子というのも――それ以外がダメダメなので――どうかと思わなくもないが、今はその経験と技術に助けられた。


「イオのおかげで、野垂れ死にせずに済みました。しかも野外でこんなに美味しいご飯を食べられるなんて」

「お望みならまた作ってあげるけど」

「わたしの望みは、あなたがちゃんとお仕事してくれることです! まったくもう、臣下に自らご馳走振る舞って鼻高々にしている王子様がどこの世にいるんですか!」


 アルはそうぷりぷりしつつも、次から次へと匙を運んで兎鍋を平らげた。うっかりおかわりまでしてしまったが、イニーツィオに食い意地の張ったやつだと思われなかっただろうか。


「それで、俺のお願いだけど……」


 ご飯を食べている間に忘れてくれないかなどと思っていたが、彼もなかなかどうしてしつこかった。


「添い寝――」

「却下」

「……ええ~」

「なんで不満そうなんですか! わたし、男性じゃないので、そういう意味で殿下を楽しませることはできませんっ」

「……べつに、そういう意味じゃないのに」


 イニーツィオは匙を咥えたまま、いじけたようにそっぽを向く。


「お行儀が悪いです」

「だってアルが冷たいんだもん」


 かっと頬に朱が走る。

 初めてまともに名を呼ばれた。


「だもん、じゃありません。まったくもう、王太子の威厳、吹っ飛んじゃってますよ。まあはっきり言って、常に吹き飛んでますけど――」

「じゃあ一緒に星観よーよ」


 アルの毒舌をも意に介さず、あっけらかんとイニーツィオが言い放った。

 思わず目を瞬く。


「え……そんなのでいいんですか?」

「うん」


 イニーツィオはこくりと頷く。うっかり可愛げすら感じかけて、アルはぶんぶんと首を左右に振った。

 正直、拍子抜けした。もっとえげつない願いごとをされることも覚悟していた。イシュハ絡みの――なにか途轍もない悪意が関わるような。


「……それなら、お安いごようです」

「じゃ、来て」


 イニーツィオに手を取られて、アルは立ち上がらされる。

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