第四章 廃墟城の契り

第1話 廃墟城でみる夢は

 騒乱の金剛宮を逃れて、七日七晩アルは尾花栗毛の馬に乗って街道沿いや時には森のなかを駆けた。五日目の昼にはアルの手配書が街々に届いているのを知って焦ったが、なんとか誰の手にも落ちずに、王国の国境付近まで辿りつく。

 後ろを振り返れば、遠く向こうのウルスス山脈の稜線に残照が燃えていた。


(グリエルモ様……)


 懐にしまい込んだ梟の紋章を、服の上から握りしめる。おそらくは今頃、グリエルモは金剛宮の地下牢に投獄されているはずだった。彼の歳では堪えるはずだ。


(せめてご家族と一緒だったらいいんだけど)


 道中、何度も王都カリタに引き返しかけては、自分の頬をぴしゃりと叩いてここまで進んできた。

 クラヴィスに会えれば、きっと事態は好転する。そう信じて進むしかない。


(さすがに、意識が朦朧としてきたわ)


 ここ数日、まともなものを口にしていないというのもあったが、今日は随分と冷え込み、おまけに昼過ぎまでずっと雷雨に打たれたというのもあるだろう。

 身体のことを考えればこんなことになる前に雨宿りをするべきだったのだが、ドクトゥス砦を目前にして気持ちが逸ってしまった。


(あとちょっとよ、わたし。ここはもう気力という名のヤケクソで進むしかないわ)


 やがて、天を突き刺すような巨大な城砦が見えてくる。あれが、ドクトゥス砦。またの名を、廃墟城。

 一瞬の晴れ間はほんの束の間のことで、尖塔には叢雲がかかり、小雨が降りだしていた。

 城門の前には衛兵が二人詰めている。


(なんて言ったら入れてくれるかな。そもそも、クラヴィス公の砦の兵が公に忠実とは限らないし……)


 しかし、アルの心配は杞憂に終わった。

 アルが城門の前で馬から降りると、衛兵から声がかかった。


「アル・スブ=ロサ様ですね。顔を見せていただけますか?」

「え、あ、ハイッ。って、え?」

「金色の眸に、黒く染めた髪。どうやら本物とお見受けする。クラヴィス公からの命で、お通しするようにと仰せつかっております」

「え? ど、どうもありがとうございます?」


 思ってもみない待遇だ。というか何故、アルが来ることを知っていたのだろう。グリエルモの采配だろうか。いや、さすがにあの騒動のさなか、そんな余裕はなかったはずだ。

 アルは馬を引いて入城する。これだけ大きな城砦にしては中には人が少なかったが、人々は忙しなく動き回っていた。アルに気づいた男が、馬を預かってくれる。

 そこでもペコペコ御礼を言ったところで、くらりと視界が回った。視界が霞む。


「――なんだ、本当にクソガキだな」


 雨音を破る、よく通る声がした。

 遅れて、泥濘を巻き上げる、湿った車輪の回る音。

 視界はぼやけていたが、それが精緻に設計された車椅子であると気づくのに、さほど時間は掛からなかった。

 かすれた視界に、栗色の巻き毛の男の姿がかろうじて映り込む。彼の太腿から先の本来両足が生えているはずの部分には長い脚絆が飾り布のように虚ろに垂れ下がり、左腕は上腕骨から先がなかった。

 顔は右半分が火傷で覆われ、紫の糸繰草の色をした眸がどことなく不気味に輝いている。年の頃は、三十代半ばくらいだろうか。

 アルも面と向かって会うのは初めてだが、何度もその得意稀な容姿を耳にしていたので誰に聞かずとも彼の正体が知れた。


「ク、ラヴィス公……グリエルモ、様を……」


 たすけて。その言葉が、声になったかどうかは分からない。

 誰かがなにかを叫ぶ声がしたが、アルの意識はそこでとっぷりと闇に沈んだ。



   * * *



 怨嗟の声だけが、広場に満ち満ちていた。

 辺りには人がごった返していたが、誰一人として目鼻立ちが判然としている者はいない。さながらのっぺらぼうの群れに囲まれているかのような、不可思議な現実離れした光景。

 ああまた、この夢だ、と気づいたが、気づいたところで逃れる術がないこともとうに知っている。

 その日は嘘のようによく晴れた日で、雲ひとつない青天から射した陽光が、女の白銀の髪を透かして星のように瞬いていた。

 処刑台に向かって放たれる罵声と怒号、それに混じって狂信者たちの地の底を這うような呪詛の声も聞こえていた。

 まだ幼かったアルははじめ、従者の青年の腕の中にいた。よくは覚えていないが、たまらずすぐにその腕を振り切って駆け出したのだったと思う。

 人々に揉みくちゃにされながら、大人たちの足の間を縫うようにしてアルは力いっぱい走った。

 アルの大事なその人は――母は、首切り役人の隣でみすぼらしい布切れを纏って立っていた。

 そこここから生ごみや汚物や、木片のようなものが投げられて、母の身体に当たると一段と大きい歓声が上がった。


 アルの母親は、品行方正な貞淑な女ではなかった。アルを生む前の母は、権力を恣にし、夜ごと別の男と情を交わしたのだという。

 だからアルには、本当の父親が誰なのか分からない。多分、母にもきっと分かっていない。

 しかし、アルを産むか産まないかの頃、父に出逢って母は少しだけ変わったのだそうだ。アルになにが本当のことかもはや知る余地はなかったけれど、アルは生まれてからその義理の父を、父と呼んで育ってきた。

 そんなこんなで、母を取り巻く噂は、醜いものも沢山あった。でありながら同時に母は、このような怨嗟と侮蔑を向けられるには不似合いな、気のいい人間でもあった。

 だから、アルはいまだにあの日のことが実は嘘だったんじゃないかと錯覚さえ抱くのだ。


 あのときから何度となく繰り返した光景を、今日の夢も寸分たがわず同じように辿っていく。

 この後は意識が何度も暗転して、一瞬だけ視界が明瞭になったかと思うと、球状の肉の塊が地面の上を跳ねるのだ。

 そして、赤。命の流れ落ちる色。


 どうして、という声を発するといつも、その残酷な景色は消えて、最期はよく見知った男の後姿に辿りつく。

 その貌は何度も指で辿って、記憶の底に焼きついているはずなのに、今はもう朧気に思いだすことさえできやしない。陽だまりのようだと思った声音すら、アルの名を呼ぶ囁き声すら、瞼の裏に描けない。


 父さま、とうわ言のように呟く。

 その後ろ姿が、振り返る。その途中で、アルはいつも目を覚ます。



   * * *



 目覚めると、寝台の上だった。

 ふかふかとまでは言わないが、柔らかな敷布の感触は久しぶりで、思わず頬擦りさえしたくなってしまう。

 寝台から滑り降りて、アルは窓辺を見やる。細い光の筋が射し込んでいた。少なくとも、今は夜ではないらしい。

 暖炉には十分すぎるほどの薪がくべられ、明々と炎が燃えていた。

 くしゅ、とくしゃみをする。


(さ、さむっ。こんなに部屋のなかあったかいのに)


 よくよく見てみれば、王都を出てくるときに着ていた服ではなく、毛布が何重にも身体に巻きつけられて無造作に紐で縛られていた。


(み、蓑虫?)


 やっとのことでそれらを脱ぎ落として、アルは少し青ざめた。

 下着しかつけていない。だいぶ乾いてはいたが、まだ少し生地が湿っていた。

 ずぶ濡れだったから、誰かが脱がせてくれたのだろう。冷え切っていたので、低体温症になる恐れもあった。

 とはいえ、ありがたいと素直には思えない。

 意識を失っている間に見知らぬ赤の他人に身体を触られたかもしれないというのは、なかなか受け入れがたいものがある。

 しかし、一番の問題は。


(……いきなり男じゃないってバレたわ)


 ゆくゆくはクラヴィスには本当は女だと伝えるべきかもしれないとは思っていたが、それがこんな形で露見するとは思っていなかった。


(城に乗り込んできた男のカッコした人間が実は女で、かつての右腕であるグリエルモ様の弟子でした~なんて夢物語、信じてくれるかしら)


 自分がクラヴィスだったら一昨日きやがれと蹴り倒したくなるような話だ。

 とはいえ、信じてもらうしかない。こうしている間にも、グリエルモの処刑までの刻限が迫っているのだ。ぐーすか寝ている場合などではなかった。

 衣装箪笥を開けてみると、男物の衣類が一揃いと、女物の礼装ドレスが並んで下げられていた。どちらもアルの身の丈に大体合っているので、おそらくこれを着てもいいということだろう。


「もうバレているから、どっち着てもいいわけだけど……」


 三年もの歳月を男の格好で過ごしたためか、なかなか礼装に手が伸びない。

 とはいえ、ここで頑なに礼装を拒むのもなんだか妙だし、男装は正体がバレる心配を除けば気楽で機能的ではあるが、もともとアルは女性としての装いが嫌いではなかった。

 ここではもはや、男を装う必要はない。自らを偽っているという感覚に、じわじわと絡めとられていくことも。

 アルは久々に礼装に袖を通す。黒色の装飾を廃した裳は釣鐘型で、首から裾までが完全に隠れる仕様だ。腰や首元には真珠がいくつか縫いつけられており、その周りを蔦のように這う金糸の刺繍がともすればぼんやりとした印象になりそうな衣装を引き締めている。胸元も開いていないし、身体の線が必要以上に強調されている造形デザインでもないので、抵抗感なく身につけることができた。

 意を決して、部屋の外へと続く扉に手を掛ける。果たして、扉は簡単に開いた。

 長く伸びた廊下には、武装した騎士や使用人がぽつぽつと行き交っている。扉の前に看守のような兵は立っておらず、アルが自由に歩き回るのを咎めるような者はいない。


「目が覚めたんですね! クラヴィス公が執務室でお待ちです」

 そんな親切な声まで掛けられる。

「え、ど、どうも」


 冷たい印象の無骨な城砦ながら、どこか清涼な空気が漂っている。これも城主たるクラヴィスの采配によるものなのだろうか。


(そもそもクラヴィス公は、カリタの神罰の件を除けば、尊敬できる宰相ではあるのよね。……でも、あの人開口一番わたしのこと、クソガキって言わなかった?)


 昨夜はそれどころではなかったが、今から思い返してみると、初対面の人間相手に随分な言い草だ。

 いや、そんなことより。


『なんだ、本当にクソガキだな』


 記憶が確かであれば、クラヴィスはそう言っていた。


(――「本当に」ってことは……)


 やはり彼は、事前にアルの名前はもちろん、姿かたちや年の頃も人づてに聞かされていたということになる。七年前の事件を受けてこの廃墟城に幽閉され、情報も遮断されている今や世間から隔絶された罪人という感じではない。この城の騎士たちの様子から見ても、彼はこの廃墟城の城主として君臨し、彼らを統率している。


(それに、わたしの手配書には名前と十五、六歳の黒髪の少年で、禁書室所属としか書いてなかった。たしか衛兵の人、わたしが髪を染めてることまで知ってなかった?)


 何はともあれ、油断できない相手だ。

 グリエルモの言葉はもちろん信頼していたが、彼とクラヴィスが袂を分かってから、七年以上の時が流れている。

 変わらないものなど、なにもない。

 その気性は炎のごとく。次々に血生臭い粛清を繰り返し、シリウス王の再来とまで言われたバルトロ国王も、七年の間に臣下たちの傀儡と化した。


「――失礼します。アル・スブ=ロサ様をお連れしました」

 その声に我に返れば、目の前に楢材の重厚な扉が迫っていた。


「入れ」


 居丈高な声に、少々気圧されながらもアルは背筋を正して、城主が待つ部屋へと入室した。

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