間章 燎原の火

王の目覚め

 深い水底に揺蕩っていたような意識が、ふっと浮上する。

 重い瞼を押し上げれば、見慣れた天蓋と昏い室内が濁った視界に映り込んできた。


「……陛下! 陛下がお目覚めになったと今すぐ申し伝えよ!」


 近侍のうるさい声に、ああまだ耳は使い物になるようだと、王はまるで他人事のように思う。

 今回はどれほどの間、眠りに落ちていたのだろう。

 病に倒れてからというもの、日に日に身体は痩せ衰え、かつて軍神と畏怖された屈強な戦士の面影はもはや、どこにも見出せない。床擦れのためか皮膚は爛れ、骨に薄皮が張りついたような矮躯は少し動かしただけで、まるで壊れた甲冑のように軋みを上げる。それでもこの七年ほどの間に、豚のように肥えていた時代よりはましだろうか。ぎゃんぎゃんがみがみと小うるさい側近がいなくなってから、放蕩の限りを尽くしてきた。行いは我が身に返るとは真理だろう。

 思うように動かない萎えた身体を見下ろせば、清潔な寝具が目に入った。

 瞬間、その場に澱んでいるなつかしいにおいに気づく。

二十年と少し前、この同じ部屋で眠る先王ちちを訪ねたときも、ちょうど同じにおいがしていた。


 死のにおい。

 もはや抗えぬ、人の天命。


 思えば、そんなものにひたすら支配されてきた人生だったように思う。

 先王の崩御と同時に始まった、ローデンシア中を巻き込んだ王位継承争いは、結果として己の勝利に終わった。

 先王は戦乱の時代に終止符を打ち、法制度を整えた賢君として名を馳せたが、王妃や子には関心を持たず、晩年は自らの子らの王位争いによってその治世の輝きを曇らせることになる。

 問題だったのは、先王が病床に伏してのちも、玉座に座る男の名が詠まれないことだった。

 王は末の王子として生まれ、くだらぬ重臣たちのおべっかとはほとんど無縁で育ってきたが、それでも自身に関する《詩篇クロニカ》が詠まれれば、やれこれをしろあれをするなと指図を受けた。

 元々王位にはさほど興味もなかったが、しきたりだらけの金剛宮において未来さきのことが分からないというのは存外面白いもので、戦好きも相俟って、王国を七つに分断した血で血を洗う王位争いに名乗りを挙げた。

 のちにアダマスの惑乱と呼ばれることになる、二年近くに及ぶ内乱の時代の幕開けである。


 泡沫候補に過ぎなかった弱小の駒が盤上を塗り替えていくのは心地がよく、またその様に華胥の夢を見た者たちは自らの主君を裏切って、王のもとに集った。神のさだめによってではなく、みずからが歴史を動かしていると思えるのは、先王の末の王子という虚ろな器でしかなかった己に水を注がれていくような、愉悦と快哉をもたらした。

 だが、最後の戦いで第四王子の首を刎ねてすぐ、稀代の歌姫が半月ほど前に詠んだとかいう《大詩篇マグナ・クロニカ》が遅れて届けられた。


 そこには、王がアダマスの惑乱に勝利し、玉座に坐すことが記されていた。


 王は嗤った。嗤うしかなかった。

 自身の野心も凶暴性も、汚い手で忠臣を惨殺した第二王子への怒りも。袂を別ってなお情を棄てきれずにいた、唯一兄と慕った第四王子を手に掛ける苦悩も。すべて――王がその心に感じ、欲し、願い、猛り、抗い、祈ってきたすべてはエジカの御心のままだったという。

 王がこの世に生を受けるより太古の昔、神代に記録された《詩篇》と寸分たがっていなかったと。


 ならば――ならばこの、始めから終わりまでが定められたこの世で、人の意志などどれほどの価値があろうか。盤上で踊らされるだけの駒に、心などある方がよほど――。


 しかして王は、玉座に坐した。

 アダマスの惑乱で最後の最後まで立場を表明せず、遅参したリチェルカーレの家から王笏を選ぶように言われ、王は当てつけのように不具者かたわものの男を選んだ。

 バルトロ・アダマスの治世は、そのようにかげに憑りつかれるところから始まり、そうして今や、翳に溺れた。

 もはや、抗うことに疲れ切っていた。


「陛下、火急の報せにございます。宰相ヴァスコ・ランベルティ並びに秘書局禁書室室長グリエルモ・スクリーバが異域いいき干渉罪で投獄されました」


 よくる男に連なる名を耳にし、一瞬指先が震えた。

 記憶の底で不具者が下手くそな笑みを浮かべている。


『この先なにがあっても、俺は一生あんたの王笏ですよ。あんたが後世、どれほどの愚王と罵られようが、仕える主はあんただけ』


 その声を頼りに、王は身を起こす。

 眸に、あるかなきかの光が兆す。罅割れた声がしかし、死臭を纏ってなおさやけく、王の寝室に響きわたった。

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