第5話 梟の守り

 心臓が歪な音を立てた。

 その意味は――。

 立ち止まって、グリエルモを見上げる。その眸は、相も変わらず穏やかに凪いでいた。

 グリエルモは、その場に凍りついたアルの外套の頭巾を引き上げて、少し困ったように笑う。アルも見たことのない、珍しい顔だった。

 気づけば、秘書局の外に出ていた。重く垂れこめた雲から、細い雨が降り出している。夜風が服の隙間から入り込み、肌を粟立たせたが、どういうわけか寒いとはまるで感じなかった。

 心ががらんどうになってしまったかのようだ。ただひたひたとなにか乾いた温度もにおいもない圧倒的なものが、すぐ傍まで押し寄せていた。


「アル、きっと私の言葉はあなたを傷つけてしまうでしょう。ですが、どうか心を強く持って聞いてほしいのです」


 グリエルモは自身も頭巾をかぶって、辛抱強くアルの手を引いた。よろめくように、足が動き出す。もはやそこにアルの意志は伴っていなかった。


「包みが届けられた際、金剛騎士団が通りがかったそうです。荷を検めさせよと彼らは言ったと」


 荷物検査自体は然程珍しい事態ではない。

 ローデンシアが国交を断ってから、同時に貿易も禁じられ、貿易商たちの商売は上がったりになった。しかし、未だに密かに密貿易を企む者が後を絶たないことから、王都においても金剛騎士団や《残月の守人》による荷物検査は合法として認められていた。

 しかしその時機が、まるで図ったかのようだ。


「愚か者ども――いえ、金剛騎士団はこの手紙が異国の言葉だと断定はできなかったようで、いったん手紙を持ち帰って調べると言うことになったようです。うちの家族もどうやら皆、捕らえられたようですが、ライマンドは――スクリーバ当主は、騎士団の目を掻い潜ってこの書簡を届けさせた」


 グリエルモがそこまで言ったところで、獣臭いにおいが使いものにならなくなった嗅覚をわずかにくすぐった。

 厩舎だ。この時間帯はよく、厩番が酒盛りに興じている。中には、馬以外は誰もいなかった。


「今まさに、金剛騎士団が私を捕らえるために王城に向かっています。時間がありません。いいですか。あなたは私の後ろ盾で金鏡官吏になりました。さすがにあなたまで死罪にしようとはしないでしょうが、確実に金剛騎士団の取り調べを受けることになるでしょう。そうすれば確実にあなたの秘密がバレてしまう」

 アルはグリエルモが厩舎にやってきた理由を正確に理解した。


「……なら一緒に逃げましょう!」

「イヤです」

「だって、相手はグリエルモ様をなんとか首チョンパにしようとゲス顔している連中ですよっ。そんなもん、正面から相手取るだけムダですよ、ムダ! ハナから話を聞く気がない奴らなんですっ。こっちはなんにも悪くないのに悔しいですけど、逃げるしかありませんっ!」

「ヤです」


 ぷいとそっぽを向かれ、子どもみたいな駄々をこねられる。

 アルは、グリエルモの服の胸のあたりを掴んで揺さぶった。


「な、なんでですか! わたしと二人っきりの逃避行ですよっ。ちょっとドキドキしちゃうな~って思いません? なんとわたしってば、花の十六歳なんです。花のッッ! 全国津々浦々稀少レア本探しの旅しましょうよっ」

「ぜ、全国津々浦々稀少本探しの旅……」


 グリエルモの頬がちょっと赤く染まって、眸がきらきらと輝く。

 花の十六歳はグリエルモにとってどうでもいいらしいが、稀少本探しの旅は彼の心の琴線に触れたらしい。さすがアルの師。書物への愛が度を超えている。

 テキトーなことを並べ立てたが、アルもそれは我ながらなんて名案なんだ、という気になってきた。是が非でも行きたい。


「ハイッ、決まりですね! そうと決まったら馬を選びましょう。さすが金剛宮の厩舎。名馬が選り取り見取りですよ。うわっ、国王陛下の馬までいる……」


 空き巣よろしく物色を始めたところで、袖を引かれる。

 見上げれば、アルの大好きな優しい慈しみに満ちた眸が、深い決意を湛えて潤んでいた。

 その表情を一目見て、ああもうなにを言っても無駄なのだと悟る。


「私もこれでも言と書に師事する者です。あなたと稀少本探しの旅に出かけたいのは山々ですが、逃げたところで、私の家族が晒し首にされるだけです。であれば、私も言と書を武器に戦わねばなりません」


 アルはぐっと押し黙った。


「幸い、というべきかはわかりませんが、今この王宮に言梯師はいません。裁判と刑の執行までは猶予がある。私はありとあらゆる手段を使って無実を訴えるつもりです。気は進みませんが、隊長殿のこともなにがなんでも守らねばなりませんね。私をハメた輩を知っているかもしれません。ということで、私はここでやることが山積みです。だから今はあなたひとりで逃げてください」

「……でも、」


 それきり、言葉が続かない。


「私はアルの師を自負していたのですが、あなたは私が信用なりませんか?」

「そんなこと――!」

「であれば、私にあなたの信頼を託してください」

「……わ、わたしも残って――」

「私の余罪が増えて、あなたも監獄にぶち込まれるだけですよ。それよりはあなたに頼まれてほしいことがある」

「……頼まれてほしいこと?」


 縋るようにグリエルモを見上げる。

 彼は尾花栗毛の美しい馬に手慣れた様子で鐙や鞍を取りつけると、アルの持っていた手燭の火を吹き消した。

 馬を引いて、夜陰に乗じて裏門の方へと歩いていく。


「王都東門から伸びる街道をずっと行くと、やがて国境沿いにドクトゥス砦が見えてきます。今、クラヴィス公がのほほーんと隠居生活および棺桶に足を突っ込みながら、城主をしているところです。あなたはそのクラヴィス公の横っ面を引っ叩いて、王都で卑怯者の誰かさんがやりたい放題していることを伝えてください」


「……クラヴィス公」


 前宰相であり、バルトロ・アダマス国王の前王笏。七年前のカリタの神罰を引き起こし、金剛宮を追われながらもリチェルカーレの威光によって死罪を免れた人物。その悪名高さと常人離れした姿かたちから、人々は彼を口々に“怪物公”と呼ぶ。


「ええ。図抜けた頭をしているくせに、なんとも口の悪い、ヘンクツ極まりない青二才ですが、まああれで一応、虐げられる者を放っておけないところのある人間ですので」


 グリエルモにしては、なかなか辛辣な言葉だった。たしかこの間グリエルモは、クラヴィスのことをお慕いしているとかなんとか言っていなかっただろうか。空耳?


「アル、――これを」


 グリエルモはアルの手に、銀色に輝く留め具を乗せた。

 意匠は、梟。スクリーバ家の紋章だった。

 かつて、ルーナ=プレナが高弟三家の一角たるスクリーバ家に与えた紋章は、彼女をして知の巨人と言わしめたスクリーバの誉れそのものだ。


「……受けとれません、とても」

「そう言わずに。どうか年寄りの気まぐれに付き合ってはいただけませんか?」


 グリエルモの眸に映ったアルは、ひどく頼りなげだった。


「この梟を見せれば、クラヴィス公はかならず力になってくれるでしょう。とはいえ、あれで彼は阿呆ではありませんので、あなたを一目見ればおそらく諸々理解して保護してくれるはずですから、まあ、いわばお守り代わりです」


 それが、この悪意で塗り固めたかのような金剛宮にグリエルモを残していく罪悪感で押しつぶされそうな、アルの心の縁になると知って――。

 ついに、世界が潤んで融けかける。瞼が熱い。指先が小刻みに震えたが、アルは両の手でぎゅっと梟の留め具を握りしめた。

 グリエルモの皺だらけの指先が、アルの目尻を優しくなぞる。


「どうやら言葉を間違えてしまったようです。あなたを泣かせたいわけではなかったのに」


 ひどく守られていると感じる。言梯師になりたいなんて大それた夢を語りながら、アルは誰一人救うことができなかったのに。

 夜風に乗って、馬蹄の音が微かに聞こえてきた。正門の方が騒がしい。おそらく、金剛騎士団が帰ってきたのだ。


「さあ行って。時間がありません」


 グリエルモはアルが馬に乗るのを補助すると、東門の衛兵に話を通して門を開けさせた。


「かならず、助けに来ます。かならず――!」


 顔をくしゃくしゃにして言い募れば、グリエルモはなんてことのない様子で、いつものように微笑んだ。


「ええ、待っています。……いいですか、アル。忘れないでくださいね。あなたには、できることがある」


 そうしてグリエルモは馬を前方へと押し出した。

 アルの躊躇いを振り切るように、宵闇を切り裂いて、黄金こがねに光る獣が駆ける。

 やがて、背にした王城からは、猛るような男たちの大声と女の悲鳴が聞こえてきた。

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