第2話 怪物公クラヴィス

 大量の書物や羊皮紙が雑然と積み上げられた部屋の奥から、器用に車輪の進路を取って、クラヴィスが近づいてくる。

 アルは、人の姿かたちのつくりにそれほど頓着のない人間だと自負していた。

 しかし、クラヴィスの半分焼けただれた顔や、右腕しかない肢体をこうして陽の光に満ちた部屋で見ると、暫しの間言葉を失ってしまった。


「醜悪だろ?」

 クラヴィスは皮肉げに言った。


「あ、あの――」

「心にも思っていない謝罪は結構。掛けたまえ。あのジジイは洒落た茶などを出したんだろうが、あいにくこの城には葡萄酒か麦酒しかないものでな。お好みは?」

「いえ、その。まだ本調子ではないものですから。せっかくお心遣いいただいたのに申し訳ありません」

「俺はいつでもどこでも酒だがな。君にはあとで温かいスープでも運ばせよう。そう畏まるな。ともかく掛けろ。なに、俺が音に聞く怪物だろうが、この無い足よりは君の方が逃げ足は速いさ」


 べつにアルはクラヴィスが即座に危害を加えてくるとは思っていなかったのだが、彼はさっそく空になった杯で脚の辺りを叩いてみせた。

 アルは大人しくちょこん、と長椅子に腰掛ける。


「ええと、改めまして、アル・スブ=ロサと申します。昨夜は急に倒れたにもかかわらず、手厚く保護していただき、感謝の念に堪えません。わたしはグリエルモ様の庇護を得て、秘書局禁書室で金鏡官吏として働いていました」


 そう言ってアルは、グリエルモの託してくれた梟の紋章を差し出す。すでに話を聞いてくれているので、意味はないとは思ったが、意外にもクラヴィスはどこか面白げに唇を吊り上げた。


「ええと、それで……王太子殿下の言梯師選を間近に控え――」

「ジジイが柄にもなく、罠に掛けられた、だろ。大方の事情は把握している。君の性別も、――君の本当の名前もな」


 アルは色を失った。

 本当の名前。グリエルモは勘づいていただろうが、彼にすら言ったことはなかったのに。

 女であることよりも、言梯師になりたいことよりも、絶対に知られてはならない、もっとも重大な秘密。それが、アルの真名だった。


「心配するな。君の生まれを利用するつもりはない。……今のところは」


 含みのある言い方だ。

 思わず恩も忘れて睨みつけそうになってしまう。


「……だんまりか。賢明な判断だ。ま、どうせバレることだから、早めに言って傷口を小さくしといてやるが、元々あのにっこりジジイが君を拾ったのも、君の生まれを利用するためだぞ。まさか、あのジイさんがただの親切心だけで小汚い子どもを拾って育てたと思ってはいるまい?」

「……うそ、」


 琥珀色の眸がゆらりと揺らめく。

 だが、言葉とは裏腹に衝撃はさほどなかった。クラヴィスの言うとおり、グリエルモがアルを拾ってあれほど親切にしてくれた理由に半ば気づいていたからかもしれない。


「幻滅したか? だが、君は程々に賢いと聞いている。俺がどうして君の正体を知っていると?」

「……ぬ、脱がせたから……?」


 アルのいらえに、クラヴィスは思いきり葡萄酒を噴き出した。胸を押さえて身体を折って咳き込んでいる。


「あ……あんたバカか!? 今の話の流れでなんでそうなるっ!? 俺がなんのために、君をミノムシにするよう頼んだと!? たしかにこの城には女がいない! だから騎士にやらせたが……いいか、誓って不埒な真似はしていないし、君の身体を見てもいない! そいつと俺と君の名誉のためにも言っておく!」


 クラヴィスは右手だけで卓をバシバシ叩いてそう主張した。それからチラッとアルの方を見て深い溜め息を吐く。


「……たしかに年頃の娘を了解も得ずに剥いたのは悪かったとは思っている。だが、この城には身動きも取れない娘をどうこうしようとかいう人間の腐ったような奴はいない。……とはいえ、ここは男の牙城だ。怖がらせたろう。そこは謝る」


 クラヴィスは苦々しげに、けれどアルの目をしっかり見つめて言いきった。

 “怪物公”、“リチェルカーレの異端者”、“女神への大逆人”。クラヴィスの悪名はこの世に溢れかえっている。だけど、アルは今目の前にいるこの男のことは好きになれそうな気がした。


「……ふふっ」

「なにがおかしい」

「だってなんか、グリエルモ様とかぶって……」


 くすくす笑いながら言えば、クラヴィスはまるで茹蛸のように顔を赤らめた。


「ハ、ハァ~~~~~~~? 俺があの陰険腹黒クソジジイと一緒にされて喜ぶとでも思ってんのか、このコンコンチキッッ!」


 耳まで赤い。

 それで、アルも力が抜けた。


「助けてくださって、本当にありがとうございました。クラヴィス公」


 今度は他意なく、心の底から礼が言えた。


「……それから、グリエルモ様がたとえ、私の情報をあなたに売っていたのだとしても、あの方への信頼は揺らぎません。そ、そりゃちょっともガッカリしなかったって言ったら嘘になりますけど。でもあの人は、出逢ってから今まで、わたしを道具として扱ったことは一度もありませんでした。わたしにきっと、そう、、ではない道を残してくれていた。だから、わたしとグリエルモ様の仲を割こうったってそうはいきませんよ」


 冗談めかして笑えば、クラヴィスはなにかが腑に落ちたように、唇を吊り上げた。


「――君は、たしかに梟にふさわしい」


 アルは頬を染めて視線を彷徨わせる。


「あ、ありがとうございます。もちろんまだ未熟だって分かってるんですけど……光栄です」

 そう言ってはにかめば、クラヴィスは酢を飲んだような顔をした。


「君みたいな反応は新鮮だな。俺の周りにはなんでか、性悪しか集まらん。まあ君も……そこそこ悪知恵は働きそうだが」

「わ、悪知恵って……」

「おや悪だくみはお嫌いかな? 快感だぞ。家名や身分に胡坐をかいた、性根のねじ曲がったクソみたいな奴らをねじ伏せるのは」

 ニヤッと悪役じみた顔をして、クラヴィスが杯を干す。


「まあいい。これで自己紹介は済んだな。本題に移ろう。俺はずっと前から、言梯師げんていし候補を探していた」

「げ、言梯師候補?」

「名家の生まれとはいえ、王宮の片隅で嘲笑される醜悪な不具者かたわものに過ぎなかった俺が一時でも栄耀栄華を味わったのは、誰のおかげだ?」

「それは、バルトロ国王陛下があなたを言梯師に任じられたからで……」

「いいぞ、その調子だ。王宮では、言梯師選なんてくだらない企てをしたようだが、俺に言わせればあんなものは茶番だ。現に、候補者は二人とも闇に葬られた」


 グリエルモとジュストのことを思い出して、アルは拳を握りしめた。


「カルディア・リチェルカーレ公が、グリエルモ様と宰相閣下を陥れたんですか?」

「俺の父は、それほど単細胞ではない」

 クラヴィスは肩を竦めた。

「おおかた、リチェルカーレに取り入りたい有象無象の仕業だろう。ま、有象無象にしては頭が回る奴が糸を引いていそうだから、油断は禁物だが」


 クラヴィスの言うとおり、イシュハにある程度通じていなければ、今回のような陰謀を企てることは不可能だ。

 ミロ・コッツィはあくまでも黒幕に踊らされ、ジュストもその者に操られていたのだろう。


「リチェルカーレとしては、そんなことをしなくてもジジイは選外、ランベルティのクソも大して票は集まらない……勝利は目に見えていた。わざわざ手を汚す必要もないことに、労力は使わない。リチェルカーレってのは、そういう連中だ。忌々しいことに、俺も含めてな」

 言われてみれば、たしかにあのまま行けば、黙っていてもカルディアが最多票を集めただろう。


「さて。たとえ父上が選出されようとも、そんなものは帳消しにできる方法がひとつある。それは?」

「……正規の方法に則って、王太子殿下がみずから言梯師を選ぶこと」

「ご名答」


 クラヴィスは会心の笑みを浮かべて、指を鳴らした。

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