第三章 言と書の盾
第1話 隊長閣下の憂鬱
古びた書物のにおいが満ち満ちている。
アルは緊張に指を震わせながら、水鳥の羽根でできたペンでとある一節を何度も書き記していた。
“
昨日の日没後、この王都で二番目に大きな城――言うまでもなく、最も巨大な建築物はこの金剛宮である――で、ある女が詠んだという詩だ。
女の名を、モルガーナ・カントゥス。
暁天の城の城主で、当代のカントゥス家当主だ。ローデンシアがアダマス王家によって平定されてのちは、アダマスの他に王を名乗る諸侯は潰えたが、カントゥス家当主に限ってはしばしば影の女王とも囁かれる。
時に王の言葉すらも枉げることのできる一族――それがカントゥス家だ。
始祖エジカの血を継承し、血に刻まれたこの世界の誕生から滅亡までの記録を読み解くことのできる、国内では唯一の一族である。
この世界で起こるすべての事象は、女神エジカがその血に刻んだ記録――《
《詩篇》のなかでとりわけ重要なのは、未来を預言するもので、年代記に記されるような預言を《
アルが秘書局に入ってから《大詩篇》が詠まれたのは、これが初めてのことだ。遍く《大詩篇》は、『エジカ・クロニカ』と題された、今アルの目の前にある鈍器のような年代記に記録される。
今ではあらゆる公文書がハラ語によって筆記されるが、こと《大詩篇》に限っては、ローデンシア語による記述が認められていた。
その栄誉に身を浴する機会を、アルはグリエルモに与えられたのだ。
いつまでも試し書きをしていたところで、唐突に書の腕が上がるわけでもない。
アルは意を決すると、震える吐息をぐっと飲みこんで、羊皮紙にペンを走らせた。
「お見事です、アル」
グリエルモの朗らかな声に、アルは額に薄っすらと浮かんでいた汗を拭った。
「ほ、本当ですか? なんか心なしか右にナナメってないですか? なんか震えちゃって最初の字滲んじゃったし、途中王太子殿下のこと考えたらイラっとしちゃって思わず第二王子殿下とか書きそうになっちゃうし、いえ、そんなおぞましいこと絶対にしませんけど、わたし――」
「――アル?」
にっこり笑顔が垣間見えて、アルは唇を引き結んだ。
「ス、スミマセン」
「誰でも初めはそうなるものですよ。年代記を記すのに、畏れも覚悟もない方がよほど恐ろしいことです。市井に出回っている史書のなかには、恣意的に捻じ曲げられたものも多くありますから」
そこまで言ったところで、グリエルモが深く溜め息を吐いた。
なかなか見られない珍しい光景だが、グリエルモが疲弊しているのも無理はなかった。
鷲便が王宮に飛んできてから早三日。貴族たちはてんやわんやの大騒ぎで、秘書局の高官たちも鷲便到着の翌日には召集された。
その会議で決まったのが、王太子イニーツィオの
王太子がぽんこつの暗君である以上、それはつまり、事実上の次期最高権力者を決める選挙に他ならなかった。
そしてなんと、その言梯師候補にグリエルモの名前が挙がったのだ。
候補は他に二人。現宰相であり、王の代理を務めるヴァスコ・ランベルティ。そしてもう一人が、現在参政権を失っているものの、このローデンシアで最も影響力を持つ西部の支配者カルディア・リチェルカーレだった。
ちなみに西部総督たるリチェルカーレ家は、ヴァスコの前の宰相、クラヴィスの生家でもある。もっとも、クラヴィス公は生家と折り合いが悪く、宰相時代も常に暗殺者を送り合うような仲だったと聞いてはいるが。
グリエルモは今でこそこうして毎日のほほんと写本に耽っているものの、かつては宰相クラヴィスの右腕として金剛宮の中枢も中枢にいた人物だ。北部の名門スクリーバ家の当主だった時期もある。スクリーバ家は高弟三家――ルーナ・プレナの時代に彼女を支えた賢者の家系の一つで、前々からアルが密かに憧れていた家名でもある。とはいえ、今回グリエルモが選出されたのは、ルーナ=プレナ絡みなどではなく、不遇をかこつ北部貴族に担ぎ上げられての推挙だった。
当のグリエルモ本人は乗り気ではないらしく、ぶちぶち文句を言い続けている。
「私は別に本が読めればそれでいいんですよ。なのに今朝は足を引っ掛けられるわ、窓から屎尿をひっくり返されるわ、陰気な唐変木ジジイとかいう悪口を言われるわ、散々な目に遭いました。陰気な唐変木ジジイのなにがいけないんです? 陽気にダンスでも踊りだせっていうんですか、この古希越えのジジイに。それはそれで見たくない絵面だと思いませんか、アル?」
屎尿をひっくり返されたことよりも、陰気な唐変木ジジイと言われたことを根に持っている。
「わ、わたしは陽気にダンスを踊るグリエルモ様も素敵だと思います!」
「――そ、そうですか。それは嬉しいことを聞きました。随分前に離縁した妻も、そんなことは言ってくれなかったものですから」
グリエルモはちょっとテレテレしながら咳払いをした。
「それにしても、お間抜け王子が仕事をしない余波がこんなところにも……」
この言梯師選とて、イニーツィオが本来の作法に則って、しっかり自分の言梯師を決めておいてくれれば話は済んだのだ。
おかげでジュストの当たりも日に日に強くなっている。
ジュストは秘書局の高官会議の議決権があるので、当然父親たるヴァスコを擁立していた。
「ところで、ジュスト隊長ってばどこに行っちゃったんですかね。あの人も記録内容に責任を持つ立場だっていうのに……」
『エジカ・クロニカ』を記す部屋はこの閉架書庫と定められている。
アルも初めて入室したが、開架書庫よりは狭い部屋ながら、見渡す限り石板に蠟板、獣皮に巻物、今日の本の主流である冊子まで、ありとあらゆる種類の書物がびっしりと並んでいた。書物の多くは鎖につながれ、持ち出しができないようになっている。
アルが《大詩篇》の記録に励んでいる間、ジュストはそわそわと落ち着かない様子でどこぞをほっつき歩いていた。
こと彼に限っては、書物に興味があるなどという理由ではないだろう。ジュストは《残月の守人》隊長のくせに、禁書の選別もほとんど部下任せにしているくらいなのだ。
(ジュスト隊長が史上最年少の《
だが、秘書局の人事権どころか王に次ぐ権力を握る時の宰相が彼の父親なのだから、この采配は致し方ないとも言えた。
ようやくジュストが戻ってくる。彼はにこやかに会釈したグリエルモに気づくと、一瞬顔を引き攣らせ、それから思い直したように形ばかりの笑みを貼りつけて礼を取った。
「ああ、閣下。申し訳ありません。あまりに退屈なものですから、少々散策をしておりました。いやあ、こんな黴臭い本を読んだり書いたりしていればいいだけの仕事というのは、いいですねえ。気楽で平和で。父は宰相の身でありながら、時に剣を取りさえするものですから」
「な――! あんたねぇ!」
ジュストが言いたいのは要するに、お前なんか本を読み書きしているだけの閑職のくせに事実上の宰相位選に首を突っ込むなということだった。
気色ばんだアルを手で制して、グリエルモが微笑む。
「たしかに書を読んでいられるというのは、気楽で平和です。燃え盛る炎に逃げ惑い、閃く刃を交わしながらでは、書を読むことすらままならない。それゆえ私は、書を読む穏やかな時間をなにより愛しているんですよ。隊長殿」
ジュストに対してさえ、グリエルモの言葉は誠実に響いた。
グリエルモはたとえこちらの言葉になど耳を貸さないような相手にも、まず言葉を尽くす。その丹念さには頭の下がる思いがした。
「それに、本を生かすも殺すもその者次第です。書はときに、千の兵に勝る武器ともなりえます。そも言梯師とは
「……ふん、閣下はそれはご自分だとでも?」
「いいえ、私ごときではとても。ですがもし私を選んでいただけたなら、そう在れるよう、老骨に鞭を打つ所存ではありますがね」
(もしわたしに選挙権があったら、グリエルモ様一択なのに……)
残念ながら、グリエルモは泡沫候補扱いだった。そして、最高権力を握っているはずのヴァスコもまた、劣勢に立たされている。
王が病床に伏して半年、西部総督リチェルカーレ家の復権を望む声は日に日に大きくなっていたが、カルディア西公が言梯師候補に推挙され、ついには抑えが利かなくなった。
というのも、七年前のカリタの神罰でリチェルカーレ家が金剛宮を締め出されて以降、国庫も貴族連中の懐も逼迫する一方だったからだ。
もっとも肥沃で豊富な金鉱を抱えるローデンシア西部の広大な土地を支配し、今なお西部総督として君臨し続けているリチェルカーレ家。その影響力は絶大だった。
選挙権は四公――東西南北の総督を務めるそれぞれの家長と、高弟三家家長、秘書局の高官、エジカ教会の指導者たる
これら大貴族が、リチェルカーレ家一強時代の再来を良しとするか否か。それを問う選挙といっても過言ではなかった。
結果いかんでは、ジュストが今のグリエルモのように王宮の片隅に追いやられるなんてことも十分ありえる。
(この人、他人様にふんぞり返る以外の人生を送れるのかしら)
仇とはいえ心配になって彼に視線を向ければ、なんだかいやに顔色が悪い。
「ちょっと、隊長閣下大丈夫ですか。なんか青ざめてますけど」
「うるさい! 平民の分際で僕に触るな」
「じゃあ、言わせてもらいますけど、病人の分際で口答えしないでください。急病でぶっ倒れて周りに庶民しかいなくても僕に触るな~とかアホなこと抜かすおつもりですか?」
「な――お前、僕のことをアホと言ったか?」
顔は青ざめていても自分への侮辱は聞き逃さないのがジュストのジュストたる所以だ。
「言・い・ま・し・た。ハー、ヤダヤダ、人間なんて皮一枚剥がせばみ~んな、ただの骨と肉の塊なんですからねっ。グリエルモ様、わたしちょっとこの後、隊長閣下をお医者様のとこに連れて行きますから、すみませんけど後のことはお願いします」
「ええ、お気をつけて」
グリエルモは柔らかな笑みとともに請け負う。
ジュストはさんざんアルを邪見にしたが、そのしつこさに最後は折れて、されるがままに典医のところに連れて行かれた。
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