第一章 書の城

第1話 ボンボンと言語オタク

 ――来た。

 建てつけの悪い扉がやたらと大きな音を立てる。それが奴ら、、の来る合図だ。

 書見台の古びた書物に凝らしていた目をすっと上げる。インク壺に浸していた羽根ペンを立てかけ、まだ声変わりもしていない小柄な少年、アル・スブ=ロサは立ち上がって礼を取った。


「――今日もここは黴臭いな。それとも貧乏人の臭いが染みついてるのか?」


 聞こえてきたのは、お馴染みの嫌味。

 下げた頭を戻すと、アルは溜め息を吐きたいのをこらえて、口を開いた。


「……あー、ハイハイハイハイ。貧乏人の臭いですね、貧乏人の。隊長閣下からは、お貴族様のさぞや典雅な匂いがするんでしょうねえ」


 嫌味のつもりだったが、鼻高々に少年がふんぞり返る。

 艶やかな猫っ毛に、菫青石の眸。鶏の徽章を胸に挿し、後ろには揃いの隊服を纏った部下を二人ほど引き連れている。

 禁書摘発部隊《残月ざんげつ守人もりびと》隊長、ジュスト・ランベルティ――アルがこの金剛宮で、一番お目にかかりたくない相手だった。


「お引き取りを。隊長閣下には、相応しくない場所のようですから。それとも、なにかご用件があるのなら、さっさと仰って消えて――あ、ちがった。どっかに行ってください」

 淡々とした声で告げれば、ジュストは眉を跳ね上げた。


「どっちも十分不敬だろうがっ。さんぴん金鏡きんきょう官吏ごときが、僕に指図するな!」

「ええ。たしかにわたしは、さんぴん金鏡官吏ですので、他の皆さんに比べて、学ばねばならないことが多くあります。ということで、用がなければ、仕事に戻らせていただきたいのですが」

「分からない奴だな。僕に相応しくないのは、お前だよ。お前の存在が、この金剛宮を穢していると言ってるんだ」


 剥き出しの侮蔑をぶつけられ、アルは思わず拳を強く握る。

 危うくジュストを睨みつけそうになったところで、なんとか強張っていた掌を解いた。


 ここで頭に血がのぼって、騒動を起こせば相手の思う壺だ。

 やはり平民は野蛮だ、追放だなどと鼻で嗤われるのが目に見えている。

 というか、前に我慢がならなくて思わずジュストの胸倉を掴んでしまい、危うく斬り殺されそうになったところを、上司に庇ってもらったことがあるのだ。

 以来、アルも学習した。相手を黙らせるだけの地位を手に入れるまでは、どんなに理不尽だろうがぐっと耐え忍ぶしかない。

 アルはたった今、突然殺されたとしても王都のどぶ川に死体を投げ捨てられるのが関の山の平民で、ジュストは今を時めく現宰相の末の息子だった。


(あとでこのボンボンが馬糞踏んで滑って転んで、肥溜めに頭から突っ込んで、それはそれは同情を誘う悲鳴を上げて、みんなから馬糞閣下ってあだ名をつけられますように!)


 アルは密かにジュストに呪いをかける。

 取り澄ました顔で嵐が去るのを待っていると、ジュストは舌打ちをした。部下の二人に顎をしゃくって、アルが書き物をしている机の上に袋を広げる。

 それを見て、アルの目の色が変わった。


「ちょ、ちょっと、もっと丁寧に扱ってくださいってば!」


 引っくり返された革袋から、大小さまざまな書物がまろび出てくる。

 アルが務める秘書局禁書室は、このローデンシア王国のあらゆる禁書を管理する職場だった。


「こ、これは……!」

 アルの声が喜びに打ち震える。


「『楽謡血統の系譜』――嘘でしょっ。灰尋暦にローデシア語で記された、幻の歴史本……。ハッ!? これは、カンタク語の語学入門書。うちの禁書室には二冊目だけど、垂涎物の稀少レア本じゃないですか……! ヒエッ……これは……レイスの……家庭料理の本とか……ウッッ……尊すぎる。なにこれ死ぬの??」


 この世ならぬものを見てしまった恐怖に引き攣った顔で、ジュストとその部下たちが後退りする。

 しかしアルはこの秘書局でどれほど「あいつヤベエ。マジもんのオタクだよ。キモッ」などと後ろ指を指されようが、そんなことはどうでもよかった。


 今でこそ、この王宮で書や言語、そしてそれらに携わる禁書室に所属する官吏は、不遇の扱いを受けている。ひとたびつ国の言葉で話などしようものなら、頭が変になったか、国家転覆を企む危険分子と見做されかねない。

 そんな禁書室も、百年ほど前は大貴族が名を連ねていた花形部署だった。

 言語は神の恩寵の証として、創世神話にも語られる。それゆえ言語と言語に基づく書物に精通した者は、人々の崇敬を集めたのだ。


 アルはこれ以上ない悦びを噛みしめながら、書物に目線を戻す。


「それからこの薄いのは『銀の魔女』――ってこれ、ハラ語じゃないですか。しかも絵本」

 高ぶりまくっていた熱が、すうっと引いていく。


 この世界の始祖たるエジカは、混沌の海から大地と生命とともに、五つの言語を生みだした。それがアルたちの暮らすこの王国の母語たるローデンシア語、北のレイス語、中東のタシュガル語、東のカンタク語、そして今は滅びし南のイシュハ語だ。

 かつて国交が開かれていた時代は、様々な言語で著された書物がこの国に溢れていたという。

 しかし、イシュハがそのいにしえの言葉ゆえに滅びてからは、始祖エジカの強大な力を宿した言語は使い方を間違えれば災厄を招くとして、扱いがとても繊細で微妙なものになっていた。


 今では《第六言語機関》が生みだした人工言語ハラ語が大陸中を席巻している。

 ジュストが隊長を務める《残月の守人》も、五言語により著された書物による災禍を防ぐ目的で、近年になって設立された組織だ。

 《残月の守人》が狩る書物から、ハラ語で記された書物は除外される。さすがにジュストがそれを知らないはずはない。


 咎めるようにジュストを見たが、彼はアルに絵本を捲るように促した。

 どうやら、白銀の髪の女が主人公の冒険ものの物語のようだ。


(……なるほどね)

 アルは小さく息を吐き、その絵本の表紙を撫でた。


「……内容はどうあれ、ハラ語で書かれた絵本まで摘発するのは、越権行為です。今すぐ取って返して、持ち主に返しといてください」

「いちいちどこで書を狩ったかなんて覚えてるか。それに僕は、お前みたいに暇じゃない。まったく、だから本なんか後生大事に取っておかずにその場で焼けば楽だっていうのに」

「なっ――!」


 さすがに聞き捨てならない言葉だった。

 いくら五言語で著された書物が危険を孕んでいると言っても、書物には金銀にも代えられない価値がある。

 あらゆる時代のあらゆる言語、あらゆる人種の人々によって記された叡智の結晶。それが書物だ。日々の暮らしのとりとめもない記録から年代記、医学、神学、帝王学に至るまで、その内容は多岐に渡る。


(それを焼けば楽、だなんて)


 先人を冒涜し、今を生きる人々を木偶の坊に変え、未来の芽を摘みとる軽率な言動だった。

 今でこそアルはこうして書物に囲まれた生活を送っている。だが、それがどれほど得がたいことか、片時も忘れたことはない。

 怒りを振り払うように、アルは頭を振った。


「じゃあ、そこのお二人! 覚えてますか?」


 アルの今にも噛みついてきそうな凄まじい形相に、ジュストの部下たちは思わず顔を見合わせた。


「たしか、孤児院かなにかだったよな。下町の」

「ありがとうございます。では、こちらもお預かりして、わたしが責任を持ってお返ししておきますので」


 アルはそう言うと、ジュストたちの持ちこんだ摘発本の山を抱えて立ち上がった。

 これから仕分け作業だ。ジュストたちの相手をしている暇なんてない。先ほどまでやっていたローデンシア語本のハラ語翻訳作業もまだろくに進んでいないのだ。


 ジュストは芸のないことにまたもや舌打ちをすると、金魚の糞を引き連れて外に出て行った。

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