第2話 養父とわたし
ぱたんと扉が閉まってしばらくすると、アルはイーッと歯を剥き出しにした。
「ビンボー人で悪ぅございましたね、ビンボー人でっ。お坊ちゃまがなんぼのもんじゃい! あんたなんかお父さまが失脚したら、無能すぎて路頭に迷うこと請け合いなんだからねっっ!!」
アルの大声が、シーンと静まり返った禁書室にわんわんと反響する。
やめよう。所詮、負け犬の遠吠えだ。
(いつか絶対、隊長閣下よりエラくなってぎゃふんと言わせてやるんだから)
今のところそんな大出世をする気配は微塵もなかったが、それはそれ、これはこれ。夢を見ることはタダだ。タダなら罰も当たらない。
(さあ、仕事仕事)
本を大事に抱えなおして、書架の間を縫って歩く。
王都カリタに聳える金剛宮で、最も華やかさと縁遠いのがここ、秘書局禁書室だ。広大な地下空間に所狭しと並べられた蔵書の数は、百万冊は下らない。
だが、そんな見る者が見れば垂涎物の知の泉に手を伸ばすことを赦されたのはもはや、禁書室に務める者だけだ。
この王国ローデンシアでは、母語で記された書物を閲覧することさえもが、禁忌となって久しい。
そんな、誰からも顧みられることのない、書物の居城がアルの勤め先だった。
「アル、先ほどすごい叫び声が聞こえましたが、その様子では、隊長殿がいらっしゃっていましたか?」
聞こえてきた穏やかな声に、アルは耳まで顔を赤くした。
「……グリエルモ様。ご、ごめんなさい。お邪魔をしてしまいました」
書見台の向こうで、顔を覗かせているのは、グリエルモ・スクリーバ。
白髪まじりの髪は丁寧に撫でつけられ、沢山の皺に埋もれた碧の眸は理知に冴えている。
アルの上司であり、この禁書室の室長。そしてアルの親代わりでもある存在だった。
「でも聞いてください。あの頭すっからかん威張りんぼボンボンが、性懲りもなくまた! 来ていたんですっ」
「い、威張りんぼボンボン……」
グリエルモはなんとも言えない顔をしてから、申し訳なさそうに目を伏せた。
「すみません。すっかり写本に夢中になっておりました」
「そんな。あんなの、グリエルモ様が相手にする価値もないですよ!」
相変わらず、グリエルモは腰が低い。
七年前、宰相がジュストの父に代わる前は、当時の宰相の右腕を務めていたほどの人物だ。それが今や、こんな殆ど訪れる人のない禁書室の管理などを押しつけられている。
アルにとってはこの場所は宝の山で、禁書室での仕事を誇りに思っている。だが、グリエルモの禁書室室長就任は事実上の左遷でしかなかった。
前宰相時代に、グリエルモは地味ながらも辣腕を振るった。
あるときには、家無しの貧しい者たちのために住居を与え、人手不足に苦しむ職人たちとの間を取り結んだ。またあるときには、経費節減のために禁書を回収せず焼いて処分しようなどと言いだした高官連中に真っ向から喧嘩を売って、焚書をすんでのところで食い止めた。
貴族連中からは、ぱっとしないなどと揶揄されていたが、アルは未だに彼の政策に感謝の言葉を述べている民草の顔をいくつも知っていた。
他ならぬアルも、その一人だ。
彼のおかげで、今アルは禁書に触れることができる。これが全部焼かれていたかと思うと、ゾッとした。
「――アル。たしかに隊長殿の物言いは目に余ります。私も、ときどき彼の爪の間に針でも突き刺して掻き回してやろうかと思うときもありますが、『あんなの』とは聞き捨てなりませんね」
にこにこしながらも途中、不穏な言葉が混じっていたような気もするが、アルは賢明にも聞かなかった振りをした。
「認めたくはありませんが、時に品性下劣などうしようもない御仁というのはいます。ですが、いつでも常にあなたの側に真実と正義があるとは限りません。特にあなたはこのローデンシアの中枢たる官吏。人を軽んじ、目を閉じ、耳を塞ぐことに決して慣れてはいけません」
グリエルモの口調は柔らかだったが、決して曲がらぬ芯を持っていた。
「……はい」
アルは恥じ入るように目を伏せた。
「ただし、隊長殿は少し、お仕置きが必要なようですね。私の大切な自慢の子を、こんなふうに傷つけて。今度はかならず、私を呼んでくださいね」
グリエルモはそう言って、アルの頭を撫でる。
アルの顔がくしゃりと歪んだ。
アルは、三年ほど前にぼろ雑巾のように王都を彷徨っていたところをグリエルモに拾われ、捨て猫よろしく保護された。昨秋からは、グリエルモの奮闘の甲斐あって、この禁書室に金鏡官吏として勤めている。
金鏡官吏とは、この金剛宮のれっきとした制度で、貴族だけでなく平民であっても能力のある人物を官吏として取り立てる仕組みだ。狭き門ではあるものの、王都の大学で学問を修め、試験に合格すれば官吏になることができる。逆に言えば、金鏡官吏になれなければ、平民がこの金剛宮で役職をあてがわれることはない。
約三百年ほど前に現王朝が成立して間もなく、この秘書局の設立者ルーナ=プレナによって運用が始まり、満月を名とする彼女に敬意を表し、“金鏡”の言葉が冠された。
そんな、平民にとっての希望の星である金鏡官吏制度だったが、七年前の災害で大学が被災し、事実上廃校となってからは死文化した。
だからアルも、金剛宮に足を踏み入れることを半ば諦めていた。そんなアルの背中を、グリエルモが押してくれたのだ。
彼は大学で教えていた課程をアルに教え、その上で試験を臨時で開くよう要請。アルは見事試験に合格した。
試験において不正はしていない。自分の力で突破した。大学で学ぶべきすべて、あるいはそれ以上のものをグリエルモから教わってきたと自負している。
しかしこの金剛宮に相応しくないと言われるたび、沸々と怒りが煮えたぎるのと同時に、身体の芯から冷えていく心地もした。
そうした心無い言葉は、たしかに事実だったからだ。
(……わたしは、この金剛宮で働くのにふさわしくない)
何故ならば。
アルは本当は男ではない。
女の身でありながら、男と偽ってこの金剛宮に転がり込んだ。
なにも、この国でも太古の昔から女が政治に携わることを禁じられていたわけではない。
現王朝成立以前は女王による千年王朝が続いていたし、現王朝成立後も女の高官は少ないながらに存在していた。
それが決定的に変わってしまったのは、六十年ほど前のことだ。
南の大国イシュハで、狂女王が自国を滅ぼした。
以来、女が政治に関わることはこの国で禁忌となった。
女を排除せよと明文化されたわけではない。ただ、“女に政事は向かない”。そんな曖昧な理由で、金剛宮からも諸名家の当主の座からも女は姿を消し、大学の受験資格も男性のみに与えられるようになった。
グリエルモと出逢う前、アルは女の権力者の元でその優れた手腕を傍らで見てきた。アル自身とて、まだグリエルモには遠く及ばずとも、貴族というだけで威張り散らす連中に知識では引けを取らない。
だからアルは、女だからという理由で王宮を追われるのに納得はできない。
(だけど……)
一つの嘘が、ときどきアルに呼吸の仕方を忘れさせる。
正々堂々と女として入局していたなら、売られた喧嘩は買うことができる。
だが、嘘つきのくせにと叫ばれたら、もうアルはなにも言うことができない。
「……あなたには辛い思いをさせてしまいます。申し訳ありません」
アルの心を察して、グリエルモが目を伏せる。彼だけは、この王宮でアルの正体を知っていた。
「いいえ! グリエルモ様はわたしの我が儘を聞いてくださっただけですから。むしろ、わたしのために危険を冒させてしまって、申し訳ないのはこっちの方です」
「あなたがあなたのまま力を発揮できるように、変えるべきは制度。分かってはいましたが、今や私に力はなく、私が仕えていた方は王宮を追われ、王はお変わりになってしまわれた。あなたの才に惚れ込み、強引に表舞台に引きずり出してしまいましたが、そのような顔をさせてしまっては、意味がありませんね」
グリエルモは、アルの頬を撫でて、それから髪の生え際の白銀にそっと触れた。
肩で切り揃えられた黒橡色の髪が、実は染料で染めたものだというのを知るのも、グリエルモただひとりだ。
「グリエルモ様、わたし、本当に感謝しているんです。おかげで、夢に近づけました。絶対に叶わないだろうって諦めかけていた夢に。七年前のわたしが今のわたしを見たら、あまりにも幸せすぎてびっくりしちゃうくらいです。だから、わたしは大丈夫。まだ覚悟しきれてなくて、そのせいで迷っているように見えたらごめんなさい」
そう言って、アルは先ほどジュストから預かってきた絵本をぎゅっと抱きしめた。
そのとき、折よく鐘の音が聞こえてきた。正午だ。
「あ、わたしちょっと、下町の方に行って、この本返してきますね。ついでにこの間つくった教本も渡してきます。なのでわたし、いませんけど、ちゃーんとお昼食べてくださいね。グリエルモ様ってば、放っておくとずっとお仕事しているんですから」
アルは頬を膨らませてそう言って、籠のなかの包みを開いた。
今日の昼食も、具沢山の
アルはその分、彼から沢山の知識を与えてもらっている。
「ありがとうございます、アル。それと……あなたは大丈夫と仰いましたが、何があっても必ずあなたのことは私が守ります。ですから、あなたはどーんと構えていてくださいね」
「……はい!」
アルは元気よく返事をして、回廊を駆けていく。階段を登り切って射し込んできた陽光に目を眇め、手を翳した。
絵本の白銀に共鳴するように、陽の光に生え際の艶やかな白銀が輝く。
(そろそろ髪を染め直さなきゃね)
アルはつむじの辺りを掻き回すと、秘書局の建物の外へと足を進めた。
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