第3話 王都カリタ

 王都の正門付近は、行き交う荷馬車や衛兵、地方貴族たちでごった返していた。


「おう、アルじゃねえか。新市街方面に行くが、乗ってくか?」


 見知った馭者のおじさんが声を掛けてくれる。アルはしばしばこうして、王宮の仕事帰りの荷馬車に乗せてもらって市街地に出ることがあった。


「じゃあ、お言葉に甘えて。今年は夏野菜、けっこう豊作だったみたいですね」

「おう、ようやくな。七年前から比べりゃあ、天と地の差よ」


 “七年前”。

 それはまだ、アルにとっても塞がっていない瘡蓋を抉るような記憶だった。

 アルは馭者台の隣にちんまりと腰かけながら、遥か遠方を見渡す。青空の向こうに、ごつごつとした山嶺が見て取れた。


 王国の中南部から王都の東にかけて連なるドラコー山脈の北限、オース岳。人を寄せつけない、俗世と隔絶したような美しさから、詩歌にも数多く詠まれているあの山が、七年前の冬の日、突如牙を剥いた。

 オース岳は火口から火を噴き、山麓の集落を壊滅させ、王都の下町の一部も火砕流に巻き込まれた。

 夥しい数の人が死に、街が一瞬で灰と化した。火山灰は三年もの間降り続き、日光は遮られ、ある年には真夏に霜がおりた。


(……まるで終わらない冬に閉じ込められたみたいだった)


 この馭者とはもうすぐで三年の付き合いになるが、出逢った当初は火山灰で作物の収量が落ち、貧民街に餓死者が転がっているのを嘆いていた。

 《カリタの神罰》。

 のちにそう呼びならわされるようになるあの震災は、いまだに人々の生活に影を落としている。


 アルがこれから向かう孤児院も、震災の影響で親を喪った子たちが数多く暮らしている場所だ。

 今では夏も来るようになり、青空の下をこうして顔に覆いもせずに出歩くことができる。だが、すべてが元に戻ったわけではないし、失われた命はもう二度と戻らない。

 しかし、行き交う馭者たちの掛け声は威勢がよかった。大通りに出ると、そこここから商魂たくましい商人たちの客引きの声が聞こえてくる。その通りをしばらく行くと、三叉路の向こうに広場が見えた。


 広場に面して、荘厳な大聖堂がその威容を誇っている。あれが、王都の三大名物の二つ目、エジカ教会大本山のユルハ大聖堂だ。ちなみに、名物の一つ目は言うまでもなく、国王の住まう金剛宮である。

 広場には、大聖堂から長蛇の列が伸びていた。


「アルも寄っときな。たまには《詩編クロニカ》を詠んでもらわねえと、困っちまうだろ」

「大丈夫ですよ。これで時々ちゃんと、歌姫さまに詠んでいただいているんです」

 アルのいらえに、おじさんは疑わしそうな顔をした。


 このローデンシアで政事を司るのが金剛宮であるならば、祭事を司るのはこの大聖堂だ。七日に一度は、皆大聖堂や大きな教会を訪れて、楽謡がくよう血統――俗に歌姫と呼ばれる――に《詩編》を授けてもらう。

 アルは後方を振り返る。

 王城を捧げもつ丘からさらに北、王都の最奥には、鬱蒼とした森があり、その先に切り立った岩山が鎮座している。

 その天頂に白く輝いている城塞。あれが、王都の三大観光名所のトリ――いやこの王国の神域とも称される暁天の城だった。

 歌姫の一族、カントゥス家が居を構えている場所だ。


「俺は昨日、歌姫さまに《詩篇》を詠んでもらいに行ったんだがな。来年、ま……まままま孫が生まれるってんだ。まーだ、うちのドラ息子はカミさんさえ捕まえてないってのによぉ。歌姫さまを疑うわけじゃねえが、本当なのかねえ」

「ええっ、おじさんもついにおじいちゃんになるんですね! お孫さんが生まれたら、お祝いを持っていきます」

「そ、そうかあ? いやあ、うちの倅なんか、アルみたいな官吏さんとちがって、稼ぎもねえしよお。母ちゃんみたいな物好きもいたもんだなあ」

 おじさんはしかつめらしい顔を装ってこそいるが、喜びがダダ漏れだ。照れ隠しにか、アルの背中をバンバン叩く。なかなかどうして、かなり痛い。


 《詩篇》とは、女神エジカがこの世界の誕生から終焉までを謳いあげた記録のことだ。この世界で起こるすべての事象は、女神の賜物であり、エジカの血脈を色濃く受け継ぐ楽謡血統――ローデンシアにおいてはカントゥス家だけがその記録を詠み解くことができる。

 たとえば今、遠く離れた北の地で誰が死にかけているだとか、昨日隣の家で起こった空き巣の犯人は誰だとか、果ては数年後に誰が王位を継ぐだとか。事の軽重は楽謡血統個人の力量に大きく左右されるものの、一流の歌姫はそれらを詠み解いてきた。

 《詩篇》の通りに日々を送ることこそ、正しく世界が運行していることの証だ。人によっては毎日教会に通っては、今日はどんな服を着るのが正解なのか、どんな献立にしたらいいのかなんて些細なことすら、《詩篇》に頼りきっている者もいると聞く。


「おいアル、まさか、教会に懸想している娘さんでもいるんじゃないだろな。歌姫さまはやめとけよ。歌姫さまの結婚相手っつったら、王族の結婚よりも厳しく選定されるっつーじゃねえか」

「あはは、わたしにそんな甲斐性はありませんってば」


 アルは苦笑しながらも、内心ではおじさんに平謝りする。アルが女だと言うことは、この気のいいおじさんにも明かせない秘密だった。




 聖堂前広場を通りすぎ、新市街に向けて馬車が石畳をがたごと走っていく。旧市街に比べると真新しい家々が建ち並んでおり、絹織物に身を包んだ新興商人が闊歩していた。ゆるやかな下り坂は段々と道幅が狭くなってくる。


「あ、この辺で下ろしてください」

「おう、気ぃつけろよ」


 おじさんにお礼を言って、アルは馭者席から飛び降りた。手を振っておじさんを見送り、それから狭い路地を折れる。

 見上げるような立派な住居は無くなり、ひしめき合うようない家々が並んでいる。下水道の整備も近年進められているが、この辺りの庶民が暮らす地区には行き届いていないのが現状だった。

 汚物のにおいも気にはなったが、それ以上に深刻なのが、放置された瓦礫の山だ。七年前の震災の爪痕はまだ、色濃く残っている。大通りの近辺はすっかり復興したが、この辺りの界隈は後回しにされていた。

 アルは絵本を抱えて、小径を進んでいく。やがて、古びた孤児院がお目見えした。


「おや、アルじゃないのさ」

 恰幅のいい中年の女が、水をやっていた花から顔をあげて破顔する。

「院長先生、こんにちは」

「ああ、絵本を返しに来てくれたのかい? 忙しいのに悪かったねえ」

「そんな、こちらの不手際です。心からお詫びします。それから、ちょっと教本もつくってきたんですけど。先生のどなたかにお渡ししてもいいですか?」

「ああ、ありがとう。それは絶対に見つからないように、あたしのとっておきの場所に隠しとこうかね」


 院長は片目を瞑ってそう請け負うと、アルの背を押して施設のなかへ引き入れた。 


「あっ! アルせんせいだー!」

 途端にアルの腰ほどの背丈の子どもがわらわらと纏わりついてくる。


「アルせんせー、今日ね、こわいお兄ちゃんがやってきてご本を持って行っちゃったの。それでねえ、ニナが泣いちゃったんだよ」

「あたしだけじゃないもん。ルカも泣いてたくせに」


 そっぽを向いて、少女が応じる。

 やはりジュストは無理やりこの子たちから絵本を奪い去って行ったらしい。あれでジュストとしては善意でやっているのだから、タチが悪い。

 内心頭を抱えながらも、アルはつとめて、笑顔で絵本を掲げてみせた。


「じゃーん! 絵本を取り返してきました」

 少年と少女の顔がぱっと輝く。

「ええー! アルせんせいすごーい!」


 無邪気なきらきらとした眸に見つめられ、アルはちょっと罰が悪くなる。

 そもそも彼らから本を取りあげているのは、アルたち体制側の人間だった。

 本好きのアルにとっては、禁書室は黙っていても勝手に本が集まってくる夢のような場所だったが、それはつまり、こうして本来の持ち主から書物を奪っているということだった。


 特権階級の人々は特別に認められたローデンシア語教師を雇って、母国語であるローデンシア語や、その書物を学ぶことができる。

 しかし庶民に許されたのは、《第六言語機関》と国が奨励するハラ語、そしてハラ語で著された書物だけだった。

 そして――。


「あら、アル先生、この教本とても分かりやすいわねえ」


 顔なじみの職員が、アルの作ってきた教本をしげしげと眺めながら呟く。彼女は、没落した貴族の家出身で高い教養を持っていたが、ローデンシア語の読み書きだけはできなかった。

 ローデンシア語の教育が許されたのは、特権階級の男だけだからだ。例外的に、楽謡血統であるカントゥス家だけは、女にもローデンシア語の教育を認められている。だがそれも、あくまでエジカの《詩篇》を詠み解くのに必要であるからに過ぎなかった。


 アルはしばしばこの孤児院に出入りしては、子どもたちにハラ語を教え、そしてこっそりとローデンシア語の簡単なあいさつや基本的な単語を教えたりしていた。

 ハラ語が標準語として国中に広く知らされた今も、金剛宮や教会など、特権階級の出入りする場で使われる言葉はローデンシア語のままだ。ハラ語しか教えないくせに、そうした場で働きたい庶民や女は、ローデンシア語を話せないという理由で門前払いになることが常だった。


「せんせい、今日はなにを教えてくれるの?」

「ごめんね、わたし、今日は職場に戻らなくちゃいけないんだ。また来るから、待っててくれる?」

「うん、じゃあ、〈またね〉だね!」

 少年がローデンシア語で挨拶をする。

 アルは目をぱちくりとさせてから、少年をぎゅうぎゅう抱きしめた。


 かつてこの国にも、身分の別のない教育を目指した時期があった。しかし今、庶民と女には、その一端を学ぶ機会さえない。

 アルはそれを、変えたいと思う。

 少年を羨ましがって群がってきた子たちの頭を撫でて、アルは孤児院を後にする。


 帰りはさすがに馬車を拾うことはできそうにない。

 アルは旧市街の方を見回りがてら帰ることにする。旧市街には、古くからこの地に根づいている貴族も多く居を構えていた。

 ふと、アルは通りから離れた広場の傍に泊まっている馬車に目をやった。中から、頭から黒い布をかぶった人影が誰かから連れ出されるようにして出てくる。傍にいるのは騎士風の男二人だったが、黒づくめの人物は性別も定かではない。なんだか端から見ていると、足を踏んばって逃れようとしているようにも見えなくもない。


(なに……?)


 アルが不審に思って近づいたとき、一瞬の隙を突いて、黒づくめの人物が駆けだした。しかも、猛然とこっちに向かってくる。


「えっ? わっ!?」


 右往左往しているうちに、その人物がどんどん近づいてくる。布が風を受けてはらりと翻り、アルは目を疑った。

 このローデンシアではほとんど見かけない黒く滑らかな肌。細かくいくつもの三つ編みが施された長い髪。そして、思わず息が止まりそうになるほどの、一流の彫刻師が掘り出した女神のような美貌。

 極めつけは、アルに向かって発せられた――。


「〈どいて!〉」


 しかし、呆然と立ち竦んだアルは、その忠告を聞くことができなかった。

 アルはまともにその少女と正面衝突する。視界が弾け、世界がひっくり返る。背中を石畳に叩きつけられ、アルはしばらく悶絶した。


「いっっったぁ……」


 なんとか庇ったものの少しぶつけた後頭部を押さえながら、よろよろと身を起こす。

 しかし、少女の姿は嘘のように忽然と消えていた。目の前を、騎士の長靴が、切羽詰まった様子で素通りしていく。「追え」とか「逃がすな」という物騒な声が聞こえた気がして、アルはなんとか立ち上がって辺りを見渡した。

 気づけば、さっきまで停車していた馬車もどこかに行ってしまっている。


「なんなの……?」


 アルはなんとかして彼らを追おうとしたが、ぶつけた頭がずきずきしてきたので、その場にへたり込んで、あわよくば彼らが戻ってくるのを祈った。

 しかしいつまで経っても少女も騎士たちも戻ってこない。

 アルは諦めて、金剛宮への道を戻ることにした。

 その間も、少女の発した音だけが何度も頭のなかで響きわたっていた。


(……ハラ語でも、ローデンシア語でもなかった)


 ――イシュハ語。

 百年前に滅び、今や国としての体を成さず、わずかな生き残りが命をつなげているという、南の大国の言語。

 ローデンシアではまかり間違っても聞くはずのない言葉だった。


(わたしもイシュハ語を聞いたことはほとんどない……聞き間違い?)


 第一、外つ国の人間と接触を持ったりしたら、異域干渉罪で首を刎ねられる。百年前にイシュハがエジカの原初の言葉ゆえに滅びてからは、ローデンシアは外国との国交、その民や文物との関わりの一切を禁じた。

 もしアルが聞いたのが本当にイシュハ語で彼女がイシュハ人であったならば、とんでもない大事件に出くわしたことになる。


(……まさかね)


 アルは頭を振って、物騒な考えを追い出そうとする。しかし一度湧いた疑念はなかなか払拭できず、アルは悶々としながら見知った道を辿った。

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