第二章 秘されし花

第1話 白銀の言梯師

 その日は夜までローデンシア語の本の翻訳作業に没頭し、一息吐いたころには梟の鳴き声が聞こえてきていた。


「アル、あなたはもう少し、自分を大事にしてくださいね」


 グリエルモとアル以外誰もいなくなった禁書室に、彼の溜め息が落ちる。

 アルは金鏡きんきょう官吏用の宿舎を王宮のなかに与えられていたが、滅多にそこに帰らずに、禁書室の仮眠部屋に身の回り品を持ち込んで生活していた。


「でも、グリエルモ様だって滅多に帰らないじゃないですか」

「私は老いぼれだから別にいいんですよ。でもあなたは……一目見て可憐な顔立ちをしている」


 そう言ってから、グリエルモは「もっとも――あなたの価値は顔や体や若さなどではありませんが」と付け足した。

 グリエルモはいつも、どのような人間を相手にしても、ただ一人の人間として真正面から見てくれる。

 アルはグリエルモのこういうところをなによりも信頼していた。


「なにも女性だけが狙われるわけではありません。あなたは華奢で、明らかにひ弱に見えます。こんなに遅くまで残っては格好の的になりますよ」

「……でも皆さん大抵娼館に通ってるみたいだから大丈夫ですよ。まあちょっと不安といえば、……王太子殿下とか?」


 次期国王になることが《詩篇クロニカ》に詠まれている王太子イニーツィオの評判は最悪だったが、彼の悪評のなかでももっとも臣下たちを悩ませているのがその男好きだった。

 教会も同性愛を宗教上の罪と位置づけているものの、他でもないエジカが次の王として認めているのがイニーツィオなので、手出しは出来ない。


「……たしかに殿下は男性がお好きなようですが――誰かを無理やり手籠めになさるような方ではないと思いますよ」


 グリエルモはなにかとイニーツィオに甘い。しかしアルの評価はそんな生やさしいものではなかった。

 アルは、イニーツィオが誰を好きだとかそんなことははっきり言ってどうでもよかった。他人の恋愛事情にさほど興味はないし、それらに第三者の分際で口出しできると思うほど傲慢でもない。

 アルが彼を王太子としてありえないと思うのはただ一点、民の血税でたらふくご飯を食べているくせに、彼が政務を全然全く毛ほどにも行っていないからだ。蟻の子一匹の方がよほど真面目に働いているどころか、比較対象にしたら蟻があまりに気の毒なほどだった。

 アルは夜食を貪りながら、眉を吊り上げる。


「よくもまあ、こんな王都の復興すらままならない状況で、どこぞをほっつき歩いて臣下にお仕事ぜ~んぶ丸投げなんてできるもんですよっ」

 アルがスープに浮いた豆をぶちぶち怒りに任せて突き刺していると、グリエルモが穏やかに笑んだ。

「アルの仰るとおりです。ですが――彼と話をしてみなければ、本当のところは分かりません。その舞台がこの金剛宮であるのなら、なおのこと。アルは、王宮でいないものとして扱われている私に、いつだって敬意を持って接してくれていますね。なぜですか?」

「それはっ、グリエルモ様について回る悪い噂のほとんどは根も葉もない出まかせだからです。でも、殿下はちがう。グリエルモ様と王太子殿下を一緒になんかしたくありません」

「たしかに殿下が王子業をサボりまくっているのは事実です。ですが――、私が前宰相であるクラヴィス公をいまだお慕いしていると言ったら、あなたは私を軽蔑しますか?」


 アルは目を見開いた。

 前宰相クラヴィスは、七年前の震災――カリタの神罰を招いた張本人でありながら、その莫大な力を持つ家名のために罪を免れた人物として悪名を轟かせている。グリエルモの左遷も、クラヴィスが癇癪を起こしたせいだと聞いていた。今では東部の国境沿いにある廃城で半ば幽閉生活を送っていると聞くが、罪の重さに対してあまりにも軽すぎる刑だった。


(たしかにクラヴィス公は、カリタの神罰以前は、優れた功績をたくさん残しているけれど……グリエルモ様、自分をクビにしたクラヴィス公のことなんか話したくないのかと思ってた)


「それは――」

 アルは目線を彷徨わせる。

 七年前はアルもまだ子供で、王都の混乱のさなかにいた。クラヴィスのことをどうこう言えるほど、アルは彼を知らない。


「すみません。少し意地悪な質問でした。ですが私は、クラヴィス公は、世間で言われているような方ではなかったのを近くで見てきました。結果的に――あの震災で王都や周辺地域は壊滅的な被害を受け、その対策もままなりませんでした。どれだけの人命が失われ、そして今も苦しむ民がいるか……」

 グリエルモは目を伏せ、言葉を詰まらせた。


「それは事実ですから、当時王宮の中枢にいた者として、申し開きなどができるとは思っていません。ですが、目に見えるものだけが真実ではないことをあなたに知ってほしかった」

 グリエルモはすっかり黙り込んでしまったアルの髪を撫でる。

「もっとも、あなたのその怒りは間違っていません。王族たる者、しっかりと責務は果たさねば。殿下は人々を踏みにじっている。もし殿下に会うことがあったら、ぶっ飛ばしてあげてくださいね」


 茶目っ気たっぷりに言うと、グリエルモは打って変わって目ざとくアルが今しがた手に取った羽根ペンを取りあげた。それから机に積み上げておいた書物の山も取り去ってしまう。


「そろそろお休みのお時間ですよ、アル」

「う、もうちょっとだけ……」

「……アル?」


 にっこり笑顔は危険の兆候だ。アルはすごすご引き下がる。今日は久々に宿舎に帰らないと、グリエルモの世にも恐ろしい雷が落ちそうだ。


「おやすみなさい、グリエルモ様」


 アルは礼を取って、秘書局を後にする。それからどうせ宿舎に帰るなら、明日は早起きをして月に一度の墓参りに行こうと思い立つ。

 しばらく歩いてから、グリエルモに昼間にイシュハ語じみた言葉を聞いたことを話せばよかったかとちょっぴり思った。


(でも、確証もないことを言って、困らせたくないしね)


 そんなことを思いながら、空を見上げる。

 今宵は、十三夜月だった。

 楽謡がくよう血統は、満月の夜にもっとも力を発揮すると言われる。

 ぼんやりと月を眺めていると、とろとろと眠くなってきた。そのままアルは宿舎の寝台に倒れ込み、朝まで爆睡した。



   * * *



 翌朝、久々にすっきりと目覚めたアルは、墓参りに向かった。

 行き着いたのは、金剛宮の最奥にある糸杉の森。細く背の高い針葉樹に覆われ、射し込む木漏れ日はわずかだ。

 左手に抱えた数本の花は、ここに来るまでに通りがかった庭園で、顔なじみの庭師から頂戴してきた。緋衣草サルビアの花だ。最もよく見られる赤い種ではなく、青い種はアルのお気に入りだった。

 木々のにおいに導かれるようにして、慣れ親しんだ小径を辿っていく。やがて道が途切れ、雑草に覆われた古びた石が視界に飛び込んでくる。

 それは、墓碑だった。故人の名は、刻まれていない。けれども、王宮に出入りする者ならだれでも、この無名の墓が誰のものか知っている。


 その名を、ルーナ=プレナ・カントゥス。白銀しろがね言梯師げんていし。今や滅びの魔女という忌まわしい名で知られる、初代アダマス国王シリウスに仕えた始まりの言梯師――そして初代王笏、、だった。


 カントゥスという名が示す通り、彼女は楽謡血統カントゥス家の出だ。アダマス王朝が起こる前にこの王国を支配していたのはカントゥス家であるため、彼女は血族を裏切って簒奪者に手を貸したことになる。

 そんな彼女を非難する声はいまだに教会の一部過激派のなかにも見られるが、アルは彼女が家族と良心とを天秤にかけて下した決断を思うと、なんだか泣き出したいような心地になるのだ。

 当時のカントゥス家は、政事祭事両方を掌中に収め、非道の限りを尽くしていた。

 血と骸と混沌によって産声を上げたシリウスの治世は、今の王の比ではない戦続きの世だったと言われる。彼はカントゥス家の女王や血族、そしてカントゥスを笠に着た豪族を血祭りにあげ、新たな時代を切り拓いた。

 ルーナ=プレナは最期のカントゥス女王に虐政をやめるよう何度も諫言したという当時のカントゥス一族には珍しい良識派だったが、その言葉は聞き届けられることはついになく、シリウスが女王を弑逆。ルーナ=プレナは牢獄に放り込まれることになった。

 だが、国内の有力者を殺し尽くして内政が落ち着いてくると、今度は外交問題が浮上した。当時外つ国の言葉を操る力は、カントゥス家の専売特許であったため、シリウスはルーナ=プレナを牢から解き放った。


 そうしてルーナ=プレナが王の代わりに言葉を伝えたのが、言梯師の始まりだ。

 ルーナ=プレナの協力を得たのは、シリウスの治世としては終わりに差しかかった頃であったが、その頃から少しずつ積み上がる骸の数は減っていったのだという。

 晩年のシリウスは、その治世の始まりとは対極的に、知恵と対話でもって国を治めた。


 以来、ルーナ=プレナのように五言語を使いこなし、言葉でもって問題を解決する者を言梯師と呼びならわした。彼らは王や諸侯と臣従の契約を結んで、歴史の表舞台に名を連ねた。

 中でも、王の言梯師は正統な王の証として、戴冠の際に伴うことが慣例となった。そのことから、王の言梯師は王笏と称されるようになる。時代を下るにつれ、王笏は宰相を兼ねることも多くなった。


 ルーナ=プレナの時代以降は、東西南北を治める総督位を女性が務めることもそう珍しい話ではなくなる。ローデンシアではそれまで、女性が高い地位に就くのは、カントゥス家を除いて例がなかったのだ。

 しかし、今や総督位に就いているのもすべてが男性だし、侍女などを除けば宮廷に出入りしている女性は皆、貴族男性の妻か娘だった。


 言梯師は無用の長物とされ、国内の現役の言梯師も、王笏であり宰相であるヴァスコ・ランベルティのみになってしまった。アルを宮廷に押し上げ、数こそ少ないとはいえ平民の官吏を生みだしてきた金鏡官吏制度も、ルーナ=プレナが整えたものだったが、その仕組みも風前の灯火だ。

 百年ほど前のイシュハ滅亡は、ルーナ=プレナの遺産を完膚なきまでに叩き潰した。たった一人の狂女王の出現で、女は台所に戻され、母語を学ぶことすらできなくなったのだ。


 ジュストが摘発してきた絵本『銀の魔女』は、ルーナ=プレナの伝説をもとにした物語だった。だからハラ語にもかかわらず、ジュストが禁書扱いしたのだ。

 ルーナ=プレナはシリウス王の戦乱の時代を立て直し、その後のローデンシアの礎を築いた人物だ。だがその功績すべては、女というただその一点だけで、王国に滅びをもたらす者として闇のなかに葬られつつある。

 アルは、それが悔しい。


 歯痒い思いを堪えて、アルは墓碑の前に跪いた。

 落ち葉がいくつか積もった墓碑を手で払い、濡らして絞ってきた手巾で墓碑を磨く。

 その数々の功績にも拘わらず、今や彼女の墓を訪れる物好きは、この金剛宮でアルくらいだった。

 だから、背後で物音がしたのに心臓が口から飛び出しそうなくらいに驚いた。


「……誰?」

 アルはハッと後ろを振り向いた。

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