第2話 嘘に塗れた花の名は

 その人物は、思わず見る者を釘づけにするような印象的な青年だった。

 艶やかな黒髪に、真っ直ぐに裁ち落とした風になびく黒の外套。装飾性のない金属製の釦は胸の辺りで閉められ、まだ薄く細い腰が強調されて見える。

 上着から覗いた胴着の丈は短く、黒一色の上着の素っ気なさを補うように、濃紅の縞模様が覗いていた。ぴったりとした外套と下体衣ブリーチズとは対照的な、少しだぼっとした乗馬靴が装いに遊び心を加えている。

 アルはさほど服装に敏感な方ではないが、彼が流行の最先端を行く、粋な青年らしいというのは理解できた。

 青年はひどく驚いた様子で、アルを見つめていた。

 お互いに仰天するのも無理はない。

 ルーナ=プレナは今や悪女の代名詞であり、もし過激派に彼女の墓を訪っている様子を目撃されでもしたら最期、国家転覆を企む重罪人の烙印を押されかねない状況だった。


(誰だか知らないけど、わたしに文句を言いに来たって感じじゃない。まさか――わたしと同じルーナ=プレナ様信奉者――なわけないか。男の人だし)


 本来なら自己紹介でも始めるべきところだが、滅びの魔女の墓をこっそり訪うのは危険を伴う行為だ。たとえ相手に害意がないとしても、お互いのためにもそれは避けた方がよさそうだった。


「……お墓参りですか?」


 ちょっとぎこちないアルの問いに、青年は目を瞬いた。

 なにかを言いかけて、一度口を噤む。それから青年は小首を傾げた。

 闇色の髪が揺れる。露わになった左の耳には、金剛石にも似た精緻な耳環が嵌まっていた。


「……ハラ語で頼める?」


 今度目を瞬いたのは、アルの方だった。

 ばっちり決まった服装から貴族の子弟かなにかだと思っていた。

 ローデンシア語が喋れないということは、名家出身というわけではないのかもしれない。

 アルは慌てて、ハラ語に切り替え、質問の内容も変えることにした。


「失礼しました。どうしてここへ?」

「墓参りだよ。君もでしょ?」


 その言葉に目を見開く。

 そうだったらいいなと思っていたが、本当にそうだとは思わなかった。

 とはいえ、まだ完全に相手を信用するのは危険だ。もしこの青年が過激派一味だったなら、アルに裏を取ってから連行するつもりである可能性も十分にある。


「……ていうか君、俺が誰か知らないの?」


 思わぬ問いに、アルはもう一度まじまじと青年を見つめた。やはり、見覚えはない。

 ひょっとすると、有名人だったりしたのだろうか。

 常日頃、宮廷の権力争いとは無縁の、閑古鳥が鳴く禁書室に引き篭もっている身だ。華やかな貴族の子弟のことにはとんと疎い自覚はある。

 なんて答えたものか迷っていると、青年は少し笑った。


「じゃあ、イオって呼んでよ」


 じゃあ、ということは本名ではないらしい。

 まだアルが警戒心を引っ込められずにいるのを見てとって、噛んで含めるように言葉を続ける。


「俺は君を過激派に売り渡したりしないけど、一応ね。……君は?」

「え?」

「え、じゃなくて。名前。偽名でいいから」


 そんなことを言われても、偽名なんてぽんぽん思いつかない。

 青年はまた一歩近づいてくる。血の色をした眸に映しだされ、アルは息を呑む。

 その色は、どうしてかこの青年にひどく不似合いな色のように思えた。


「じゃ、じゃあシリウスで」


 無理やり捻り出した名前に、イオは噴き出した。

 先ほどまでルーナ=プレナとシリウス王のことを考えていて、それ以外思い浮かばなかったのだ。いくら死んでいるとはいえ、王の名を詐称するとは、あまりにも身の程知らずだった気がする。

 アルは頬を赤らめた。


「君、覇王って感じには見えないけど」

「よ、余計なお世話ですっ」

「揶揄っているわけじゃない。これは――そうだな、ちょっとした仮面舞踏会だとでも思ってよ。敬語もいらない」

「……はあ」


 調子のいい言葉に言いくるめられ、アルは渋々頷いた。


「不思議だったんだ。ここに来るといつも、緋衣草の花が供えられていたから」


 アルの手のなかにある青い花束を見下ろして、イオがささめく。

 それからイオはまるで硝子細工に触れるように、青い花弁に指先でそろりと触れた。

 それは何故だか、厳かな儀式じみているような気さえした。


「いつもって……あなた――イオもルーナ=プレナ様のお墓参りの常連さんだったんだ?」

「たまにだけどね。……そうか、君が……」


 イオは感慨深げにアルを見つめる。

 その眸が、ともすれば泣き出しそうにさざ波だったように見えたのは、気のせいだろうか。


「――逢えてよかった」


 万感が込められた言葉に、アルは縫いとめられたように動けなくなる。


 彼の眸は感情という感情で混沌としていた。

 挽歌の聴こえる夜のような孤独と、空恐ろしいほどの涯てを知らない、渇き。

 幼いころ、養父の膝の上で聞いた異邦の詩歌の一場面が、ふっと脳裏を過ぎる。


 “砂漠の王は、いまだ涸れ果てた熱砂にひとり。”


 アルがまだ見ぬ、渇いた砂の大地にたった独りで立ち尽くしている。そんな情景が思わず思い浮かんでくるような、ひどく淋しくも烈しい眼差しだった。


「わ――わたしも。ルーナ=プレナ様のお墓に通っているのなんて、わたしくらいだと思っていたから。……あ!」

 アルはふとした思いつきに、みるみるうちに頬を紅潮させた。


「もしかして、あなたも言梯師になりたい……とか?」

「……それは、君の自己紹介?」

 アルはうっかり口を滑らせたことに気づいて、青ざめた。


 グリエルモ以外に言ったことはないが、アルは言梯師に憧れている。

 なかでも、今の世では忌み嫌われているローデンシア史上、ただ一人の女性の王笏ルーナ=プレナに。

 そんなことを漏らせば、よほどの変人だと思われる――くらいで済めばましな方で、白い目で見られるのが大勢だった。


 国交が断絶した今、五言語を操る言梯師は必要ないとまことしやかに囁かれる。イシュハを滅ぼした外つ国の言葉に関心を持つなど、王国に禍をもたらすとして、過激派にひっ捕らえられでもしかねなかった。

 もしそんなことになって、そこでアルが実は女だったと露見すれば、自分だけでなくグリエルモまで罪に問われる。

 だから人前では絶対に自分の本心は明かさないようにしていた。


(なのに……)


 ルーナ=プレナの墓参りに来る人なんてグリエルモを除けば初めてだった。それで思わず気が緩んだ。


「取って食いやしない。そんなに怖い顔しないでよ」


 イオは微苦笑しながら、アルに近づいた。反射的に後退ったアルの腕を掴んで、引き寄せる。

 ますます身を固くしたアルに「ごめん」と囁いて、彼は緋衣草の花を一輪抜き取った。

 イオはそのまま、墓碑の前に跪く。身綺麗な衣装が土に汚れるのも構わず、青い花を手向けると、深く頭を垂れた。

 アルは目を見開いた。

 ルーナ=プレナを蔑んでいたりしたら、絶対にできない行為だ。演技だろうか。それとも――。


 どれくらいそうしていただろう。

 彼はようやく立ち上がってアルを振り向く。

 その表情に嘘偽りは感じられなかった。


「俺の場合は、言梯師になりたかったわけじゃない。だけど、この人が――ルーナ=プレナがもし俺の言梯師になってくれていたなら、なにかちがっただろうか――よく、そう考える」


 イオは、一輪の花ごしに墓に触れる。

 言梯師の本質は、五言語を操ることではない。人と人をつなげることだ。

 だからアルも、ルーナ=プレナに焦がれた。女の身で、宮廷に潜り込むほどに。

 イオもそうやって焼けつくように、誰かとつながりたいと思ったことがあるのだろうか。


「青い緋衣草の花言葉は、尊敬と知恵。君はとても――ルーナ=プレナを敬愛しているんだな」


 まさか花に託した思いまで見抜かれていたとは思わず、アルは目を見開く。


「大丈夫、君の秘密は死んでも守るよ。……どうやら君は、隠し通さなければならないことが沢山あるようだし」


 その言葉に、アルは今度こそ身体を硬直させた。


(まさか、女だってバレた?)


 しかし男だと偽って働き出してからもうすぐで三年を迎える。こんな今日出会ったばかりの青年に露見するとは思えない。それほど大きなヘマはしなかったはずだ。身体にもほとんど触られていないし、着ているのもいつものだぼだぼの寛衣だった。


「大丈夫。その嘘には刻限はあるけど、俺以外にはまだきっとバレないよ」

「……なんのことか」


 アルはあくまでしらを切ったが、内心は真っ青だった。

 おそらく彼はアルの嘘に気がついている。

 無理に低く絞り出した声とか、膨らみつつある胸を毎朝必死でぐるぐる巻きにしていることとか、お手洗いのたびに肝の冷える思いをしていることに。


「俺も嘘つきだから、嘘には敏感なんだ」

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