第2話 心を捧ぐは

 ぼやけた薄明が、東の昊にもえていた。

 辺りはまだ夢寐に微睡んでいる。青ぐろい光につつまれて、己の長靴と早起きな一番鳥の鳴き声だけが秘めやかに響いていた。

 イニーツィオは足を止め、目に留まった楢の木の根元にずるずると座り込んだ。

 拳をそっと押し開く。

 怜悧な眼差しをした銀の梟が、物言わずこちらを見返していた。

 アルがグリエルモから託された徽章だ。智慧の象徴たる、スクリーバ家の紋章。朝起きたときには冷たくなっていたのに、握りしめすぎてもう仄かに熱を持っていた。


 昨日の別れ際、アルはイニーツィオの手を取って、その徽章を握らせた。

 そしてあのとき彼女は、イニーツィオに無事を約束させた。そうでなければ赦さないと、琥珀の眼差しが強く強くイニーツィオを糾弾していた。

 おそらくアルは気がついたのだ。

 イニーツィオが死んで、ナザリオに玉座を譲ろうとしていることに。


「俺の言梯師さんは、やっぱり優秀だな」


 ぽつりと、戯れを口にする。

 だから近づけたくなかった。

 初めて逢ったとき、彼女はイニーツィオの嘘を見抜いたから。いや、本当は彼女の聡明さゆえではない。

 あのときアルは、イニーツィオに大丈夫かと尋ねた。初対面の得体の知れない相手の世話をあれこれ焼いて、罪に塗れたイニーツィオを“いい人”だなんて言ってみせた。

 かつてはイニーツィオも、ただ息をしている獣ではなく、異母兄あにやクラヴィスやグリエルモのような人間になりたくて、必死で彼らに追いつこうとした。“いい人”になりたかった。彼らのやることなすことすべてが格好良く見えて、眩しかった。でもすぐに、みずからそう、、なることを手放した。

 

 あのときすでにイニーツィオの心は決まっていた。なのに、彼女はそうやってイニーツィオが地中深くに埋めたはずのものを掘り出して、まるで大切な宝物かなにかのように扱った。

 まだ生きていたいという願いが芽ぐんだ。それを乱暴に踏み散らした。


 ドクトゥス城で再会したときには、肝が冷えた。

 イニーツィオにはまだ死ねない理由があり、どうしても彼女の力が必要だった。

 でも情の深い彼女は、イニーツィオがどれほど下種極まりない行動を取ったところで心を移してくれる。そのような少女だと気がついていた。

 だからかならず傷つけるということも分かっていた。

 そしてどうしようもなく、アルを突き離せない自分を何度だって思い知らされることも。

 彼女の魂はきっと、イニーツィオに限りなく近い色をしている。それでいて前を向くことをやめない。だから焦がれる。

 からからと車輪が回る音に、はっと顔を上げる。


「ご機嫌はいかがですか、王太子殿下。いつぞやのぴよぴよしたガキのころみたいにしょげ返った顔をしてらっしゃいますが」


 クラヴィスが揶揄うような眼差しを向けてくる。彼はひとりで、付き添いの騎士はいなかった。

 昨晩彼は、レラとひとりの騎士とともにキァーヴェのイニーツィオの元を訪ねてきた。ここに至っては南部で起こっている騒動のことを話さないわけにはいかず、イニーツィオは元宰相に事態を詳しく話して聞かせた。

 南部の動向については、さすがにクラヴィスも東の最果てからは察知していなかったようで、アルからの書簡を読んですっ飛んできたらしい。昨夜、「お前、最初から全部知ってたな」と散々嫌味を言われた。


「……もうその意味のない敬語やめてくれない? 逆にうざいよ」


 そう言って、泥濘に嵌まりかけていた車椅子を軽く引いてやる。

 宰相とグリエルモには愚かでどうしようもない王太子と見限られなくてはならなかったので、まともに話すのはイニーツィオ即位の《大詩篇マグナ・クロニカ》を聞いた日以来だ。約九年ぶりのことになる。


「おいクソガキ。どういう意味だか分かるか?」


 クラヴィスは遠慮なくイニーツィオをクソガキ呼ばわりしたかと思うと、顎をしゃくった。

 イニーツィオは手のなかの梟を咄嗟に握り込んだが、もう遅い。

 アルが、イニーツィオに大事なグリエルモからの預かり物を託した理由。

 考えなかったわけではない。

 だが、何度も頭を振って、ありえないと自分に言い聞かせた。


「なに、怪物公は分かるっていうの」

 クラヴィスは真顔になった。


「そりゃ、わたしはあなたのものってことだろ」

「……は、はあ?」


 イニーツィオは長閑な山村の朝に素っ頓狂な声を響きわたらせて、顔を赤らめた。


「やらしい意味にとるな。もっとふかーい真面目な話をしてるんだ。これだからケツの青いガキは。ハー、ヤダヤダ」

「う、うるさい」

「かわいげのないクソガキにすくすくすくすく育ちやがって。昔はぴよぴよぴよぴよ俺の後をくっついてきて、それはそれはかわいかったのになあ」

「……今さら俺がまたぴよぴよついて行ったら、逆にヤじゃないの?」


 クラヴィスは顔を青ざめさせた。


「気色悪いな」


 しみじみと放たれた言葉に、イニーツィオは胡乱げにクラヴィスを見下ろす。

 このおっさんが天才とか褒めそやしている連中は絶対に現実が見えていない。ただの傍若無人大王だ。


「あー、今度絶対ぴよぴよついて行ってやろ」

「やるな、頼む。俺が悪かった」


 クラヴィスが縋りついてくる。

 イニーツィオはわずかに口元を綻ばせかけて、その唇をきゅっと結んだ。


「で、話を戻すが」

 そう言って、クラヴィスは仰向いた。


「言梯師にとって、智慧は剣であり盾であり信念を形づくるものであり、心そのものだ。小娘はそれをお前にやるってさ」


 イニーツィオは息を呑んだ。視界が融けおちかける。

 ほどけた心の欠片を掻き集めて、凶暴な笑みを形づくった。


「……俺がそんなもの、望んでいるって?」


 声がみっともなく震えた。どうか気づいてくれるなと、ただ願う。

 クラヴィスの手が、イニーツィオのそれを掴んだ。思いがけず、真摯な色をした眸に縫いとめられる。


「お前、もうそれやめろ」

「なに――」

「必要ないって言ってんだよ。まだ自分が死ねばとか、頭の腐ったこと抜かすつもりか?」


 イニーツィオは言葉を捻り出そうとした。だが、なにひとつ意味のある連なりにはならずに掻き消えた。

 クラヴィスは呆れたように溜め息を吐く。


「あれだけ兄上兄上うるさかったガキが考えそうなことくらい、想像がつくわ。ばーか」

「でも……そうすれば、あなたと父上の望みだって――」


 イニーツィオは、クラヴィスとバルトロの悲願を知っていた。イニーツィオが死ねば、誰よりも王に相応しい兄が報われるばかりではなく、彼らの願いも叶う。

 不意に、眉間に衝撃がきた。思わず額を押さえて蹲ると、足元に胡桃が転がっている。


「見縊るなよ、小童。俺も、俺の王も目的と手段を履き違えたりしない」


 低く唸るように言って、クラヴィスはイニーツィオを睨み上げる。

 しかしその眼差しは、寸分も持たずにほつれて、眉間に深い皺が刻まれた。


「だが、お前を王宮に入れたのは俺だ。……あれがエジカの意志だったとかほざいたらぶっ飛ばすぞ。あれはたしかに、俺の選択だった。そのせいで、お前やお前たち兄弟をいたずらに苦しめた。年端も行かないガキどもを政治の道具に使った。……俺の罪だ。お前が自死以外を選ぶなら、なんだって協力してやる」


 イニーツィオは顔をくしゃくしゃに歪めた。

 だから来たのか。

 己の唯一と慕った、王の死の間際に。わざわざこの元宰相は、十年以上前の過去の清算をしにきたという。


 ふと、大地を轟かす振動音が聞こえて顔を上げる。

 クラヴィスが「やっと来たか」とぼやいて、呆然と丘を見上げたイニーツィオに傲岸な笑みを向ける。

 小高い丘の上に、燦々と降りそそぐ朝陽を浴びて、クラヴィスの騎士たちが整然と一列に並んでいた。


「手土産だ。あの医者の女に仕込ませろ。医学大学には通ってないが、その辺の医者よりは役に立つ」


 クラヴィスが城砦の騎士に読み書きを教え、一通りの教養を仕込み、図書室を解放しているのは知っていた。


「クラヴィス」

 久方ぶりに、その名を舌に乗せた。


「――あなたは、父の誉れだ」


 クラヴィスの唇が噛みしめられる。

 だが次の瞬間には。


「ああ、そうだとも。……だがその言葉を言わせたいのは、お前じゃない」


 彼らしい不遜な言葉が、すがすがしい朝の陽気に弾けてとけた。



 * * *



 ナザリオら一行は、夜通し馬を走らせ、明くる日には港湾都市ルモーレに到着した。なんでも、ローデンシアの南部の玄関口であるこの街にはまだ、イシュハ難民が潜伏していると見られているらしい。中には黒字病に罹患している者もいるという。その炙り出しを手伝うよう、ナザリオはアルに要求した。

 アルはなびく髪を押さえて、曇天から覗いた弱弱しい陽光を仰ぐ。

 湿気った潮の香りが身体中に纏わりつくようだ。

 波止場にはいくつもの漁船や連絡船が停泊し、船乗りたちの荒々しい掛け声が響き渡っている。しかし、どれほど耳を澄ませても、そこに異国の響きが混じることはない。

 盛り場には酒瓶を転がして賭博に興じる男たちと、派手な化粧に肌を大胆に露出させた女たちがたむろしている。奥の路地では、上裸の女が酒樽の上に座った男の上にしなだれかかっていて、男の指が彼女の内腿の辺りをうぞうぞと青虫のように這っていた。

 際限のない欲望の渦巻く街、ルモーレ。そのまたの名を、享楽の都と人は呼ぶ。


「イシュハの民を集めてどうなさるんですか?」


 アルは埠頭近くの倉庫の戸をくぐって外に出ると、ナザリオを振り仰いだ。


「ここから馬で一刻ほど北上したところに、小さな町があったのを覚えているか? あの町に医師を待機させている。そこに連れて行く。このような都市部では騒ぎになるからな」


 そのいらえに、アルは正直拍子抜けした。

 ほっと息を吐く。


(なんだ、わたしてっきり――)


 南部のローデンシアの民を守るという名目で、イシュハの黒字病患者を殺して回るつもりなのかとでも思っていた。だがそれは、あまりに飛躍した考えだったらしい。

 アルはサダクビアたちの潜伏するキァーヴェから目を逸らさせるために、イニーツィオの元を離れた。その理由は、ナザリオがランベルティ家とグリエルモ失脚の企てに関わっている可能性があると踏んだからだ。

 すなわち、サダクビアを権力争いの火種とした人物こそ、ナザリオなのではないかと疑っていた。だからサダクビアたちをナザリオに引き渡すことは考えられなかった。

 そう思うに至った理由は、ふたつある。ひとつはイシュハ人の検問を指揮していたのがナザリオだったこと。そしてもうひとつは、あの事件が起きる前に、わざわざアルに事件を預言するような意味深な言葉を残したこと。


 ――近く宮廷が荒れる。


 事件が起きると知っていなければ、あのような台詞を吐く理由がない。


(ジュスト隊長に本を盗ませたのも、殿下なら納得できる)


 第一にナザリオは書物の価値を知っている。第二に、当時言梯師選の行方はカルディア・リチェルカーレにほぼ傾きかけていた。ナザリオならば、リチェルカーレ家に取りなしてやるなどと甘い言葉を囁き、ジュストを釣り上げることができたはずだ。

 ナザリオの母である亡き王妃は、リチェルカーレ家出身。甘言を囁くのに、これほど的確な人物はいない。

 そしてもうひとつ。


(イオは、死を望むなんて馬鹿な真似をし続けていたのに、事件に関わり続けていた)

 つまりイニーツィオには、今すぐに死ねない理由があったということだ。


(ナザリオ殿下がとんでもない悪事を企んでいるから、なのかと思ってたけど……分からなくなっちゃった)


 今のところ、ナザリオの対処に不審な点はない。

 そもそもナザリオは理性的で思慮深い人物だ。


(病が爆発的に流行し始めたとかいうならさておき、この街も今は落ち着いている。……わたしが早とちりしちゃったのかも)


 アルのナザリオ真犯人説だって、なにか物的証拠や誰かの証言があるわけではない。言梯師選前のアルへの警告は、よくよく考えてみれば権力争いで宮廷が荒れることなんて日常茶飯事だし、そこにはどうしたって不審死が付き纏う。

 ナザリオの言葉は、金剛宮という特殊な空間ではさほど可笑しな忠告ではなかった。


(ナザリオ殿下は、わたしが金鏡官吏だって言っても一度も蔑んだりしなかった。女だって告げても、些細なことだと関係ないと言ってくれた)


 残念ながら、金剛宮にそのような人物は多くはいない。

 それにイニーツィオが自分の身を捧げてまで王位を与えたいと願うような人物が、残酷な人間であるだろうか。アルも金鏡官吏時代から、ナザリオのことを慕っていた。

 もしイニーツィオに出逢わなかったら、この人の言梯師になりたかったと思うくらいには。


(でもわたし、もうイオ以外は考えられない)


 彼は嘘つきだし、次期国王らしくないし、いくら愚か者に見せかけるためとはいえ、夜の生活は乱れまくっていたし、困った人なのに。

 なぜか、この人に全部あげたいと思った。


(なんでわたし、グリエルモ様の梟まで預けちゃったんだろう。恥ずかしくなってきちゃった。でも、イオはきっと意味までわかってないはずだから、大丈夫よね)


 信頼の証、くらいに思っているはずだ。

 クラヴィスがご丁寧にも過剰なほどの解説役を務めてくれてしまったことなど知らないアルは、そうやって自分を納得させた。


「どうした?」


 百面相をするアルに、ナザリオが微笑いかける。アルは慌てて表情を引き締めた。


「いえ。かならず、病を収束させましょうね。あ、そうだ。思ったんですけど、王太子殿下とも協力してはどうでしょうか? 一緒に旅して思ったんですけど、あの方巷で言われているほど、おばかさんじゃないっていうか……」


 瞬間、ナザリオの顔が引き攣ったような気がした。

 しかしそれは、海風が勢いよく髪を巻き上げて見えなくなる。咄嗟に瞑った目をそっと押し開くと、ナザリオの黒瞳がここではないどこかをじっと見つめていた。

 海の果ての、水平線のそのまた向こう。まるで人の目には視えないなにかを捉えようとでもするかのように。

 そして声が、昏く澱んだ声が静かに落ちる。


「あれの存在は、呪いそのものだ」


 潮騒のなかでその声はしかし、アルの耳を侵蝕するようにはっきりと響いた。

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