第七章 祈りと呪い
第1話 離別と再会
南部に不似合いな雪が、鉛灰色の重たい空からちらちらと降り始めていた。吐く息が白く立ちのぼり、きんと冷えた大気のなかを束の間泳いで消える。
夕日はすっかり厚い雲に覆われ、宵の帳が今にも引き下ろされようとしていた。
見覚えのある
アルとイニーツィオの足音に気がつくと、その人は馬首を巡らせてゆったりと振り返った。
「久しいな、イニーツィオ。どこぞで野垂れ死んでいるかと心配したぞ」
滑らかなハラ語。
「兄上こそ、ご息災でなによりです」
「そちらのご令嬢は? お前が女を連れているなど珍しいこともあるものだな」
そう言ってナザリオはアルを見やり、目を瞠った。
「アル……か?」
覚悟を決めて、頭を垂れる。
すぐそばで、イニーツィオがひゅっと息を呑む気配がした。
「ナザリオ殿下、申し訳ありません。今まで殿下をたばかっていたこと、伏してお詫び申し上げます」
ナザリオは馬から降りてアルの元に歩み寄った。手袋を脱いで、頬を引き上げられる。
「男に見えぬとは思っていた。安心しろ。口外はしない。私にとっては些細なことだ」
意外な答えではなかった。ナザリオは性の別で個人の能力を測ったりしない。
しかしアルは、曖昧に笑うことしかできなかった。
「……お聞き及びかと思いますが、王都で宰相閣下とグリエルモ様がイシュハ絡みの事件に巻き込まれました。それでミロ公が暴走して……」
「お前も巻き込まれたのだったな。悪かった。庇ってやりたかったが、手が足りなくてな。だが、見事お前はここまで辿りついた」
アルは小さく頭を振った。
ここまで来られたのは、アル一人の力などでは決してない。グリエルモとクラヴィス、そしてイニーツィオがいなければ、アルは早々に命を落としていただろう。
「それにしても奇妙な取り合わせだ。
「兄上、それは――」
イニーツィオが割って入る。
しかしアルはあえて彼の言葉を遮った。
「たまたま逃亡中にお会いしたんです。王太子殿下なら、ナザリオ殿下の居場所もご存知なんじゃないかって。グリエルモ様の処刑を止めていただきたかったんです。ナザリオ殿下なら真相もご存知だと思って……わたしが無理に王太子殿下にお願いをしました」
イニーツィオがアルを見た。
驚きに混じって、まさかという表情が過ぎる。
「それは苦労を掛けた。愚弟に振り回されなかったならよかったが」
アルの嘘八百を、ナザリオはあっさりと信じた。
「殿下はなぜこちらに?」
「……イシュハ人の難民の子どもと女の医者を探している。実は南部でイシュハ難民の間にとある病が流行っていてな。子どもは病に感染していたが、二人揃って姿を消した。放っておけば、南部の民も危ない。この辺りの地域で、黒い肌の娘を見かけたという情報も掴んでいる。心当たりはないか?」
アルはナザリオを見上げた。聡明さを湛える抑制された
少し迷って、しかしアルは「いいえ」と囁いた。
「ここでもないか。……念のため、屋内を調べろ」
ナザリオが兵たちに命じる。
アルは肝を冷やしたが、サダクビアたちの潜伏している古民家からは細い明かりも洩れていない。異変を察して、息を潜めているのかもしれなかった。
「アル。悪いがそういうわけで、グリエルモのことは助けに戻れない。事は一刻を争う。……お前さえよければ、私と一緒に来ないか? 感染者を見つけ出さねばならないが、言葉も通じず難航している」
アルはイニーツィオを振り返りかけて、ぐっと両の足の裏に力を込めた。
淡く微笑む。
「ええ、殿下がお望みならば」
アルのいらえに、ナザリオは吐息まじりに「そうか」とささめく。イニーツィオと同じ、今にもぷつりと張りつめられた糸が切れてしまいそうな、そんな目をしていた。
アルは今度こそイニーツィオを振り返った。
柘榴石の眸は、ありとあらゆる感情で混沌としていた。困惑と、期待と、そして今、脅えが萌芽する。
アルはイニーツィオの手を取った。その冷え切った手を、両手で握り込む。
「王太子殿下。ここまで連れてきてくださって、ありがとうございました。どうかご無事で。……いいえ、かならずとお約束してくださいね。そうでなきゃ、ゆるしません」
射るように強く、イニーツィオを見上げる。
彼の唇が薄く開く。喉に、引き攣れた音が引っかかっていた。
視線が混じり合う。イニーツィオの睫毛に雪花が舞い降り、すぐにとけて頬を透明な滴が伝い落ちた。
余計なことを口走りそうになったので、アルはぱっとその手を離す。
刹那、人差し指に彼の指先が引っかかった。イニーツィオは自分の振る舞いにぎょっとしたように、その手を引っ込める。
アルは唇を噛んで、ひどく下手くそな笑みを浮かべて踵を返した。そのままナザリオの馬に引き上げられる。
遠く山裾に、陽が落ちた。
ナザリオと彼が率いる兵の半分が、松明を掲げてキァーヴェの村を後にする。
アルは
宵闇に埋もれてしかし、長く伸びたイニーツィオの影がゆらりゆらりと揺らめいていた。
* * *
軍馬で踏み荒らされた村に、静寂が訪れたのは夜も更けてからだった。
結論から言って、サダクビアとリゲルとルスキニアは兵らに見つからなかった。咄嗟に痕跡を消して地下に逃れたようだった。
「で、アル嬢を連れて行かれたってオチですか、王子様。恐れながら、情けなくって涙が出てしまいますよ」
ルスキニアはイニーツィオに容赦なかった。
一応仮にもこの国の王太子なんだから、もうちょっと優しい言葉を掛けてほしい。
「 」
サダクビアが何ごとかを口走る。
困ったことに、なにを言っているのか全然分からない。
ルスキニアが絵を描いて、なんとか事情を説明しようとする。しかしあれだけ治療は細やかなのに、絵は絶望的なほどド下手くそだった。おそらくアルとナザリオとその兵の姿を描いたつもりなのだろうが、なにか歪んだ木みたいなのがいっぱい生えているようにしか見えない。今にも呪いの儀式でも始まりそうなおどろおどろしい絵だった。歩けるようになったリゲルが、ドン引きして絵を遠巻きに眺めている。
ルスキニアは万能そうに見えたが、この局面においてはポンコツ同然だった。
ここでなんとか踏みとどまれるのは、イニーツィオしかいない。拳を握って一歩前に進み出る。
「あー……、アル」
そう言って、イニーツィオはルスキニアを指差した。今度は自分を指差して、ハラ語で「男」と発音する。アルがサダクビアへのハラ語講座でその単語を教えていたのを覚えていたのだ。
イニーツィオは、ルスキニアの腕を取って部屋の中を走る。サダクビアは渋面をつくっていたが、なんとなく意味を理解したのか半分首を傾げながらも頷いた。
しかしサダクビアの刃物のような眼差しはいまだ消えない。
イニーツィオは笑みを掻き消して、彼女に向きなおった。
「俺は」
そう言って、自分を指差す。
「君たちを」
サダクビアとリゲルに向かって手を広げる。
「守る」
胸の前で拳をもう片方の手で包みこむ。
通じたのかはわからないが、サダクビアの眼差しがわずかにたわんだような気がした。
イニーツィオは微かに口の端に笑みを乗せてから、たまらず俯いた。本心だったが、「守る」などとよくも言えたものだと思う。イニーツィオがふらふらしているから、彼らは王位継承を巡る企てに巻き込まれ、その命も体も心も弄ばれた。
彼らの存在は、イニーツィオの罪そのものだった。
「それでどうしますか、王子様。どうせあなたはイシュハの民を助けに行くつもりでしょう」
イニーツィオは弾かれたようにルスキニアを見つめた。
「……これ以上は巻き込めない。あなたも命の危険がある。名を変え、北部か東部に身を寄せれば……」
「今さらですね。それに、おそらく
イニーツィオとさほど変わらない高さで、榛色の眸が自信満々に細められる。これが自惚れなどではないところが始末に負えない。
「じゃあ、サダクビアとリゲルはひとまずここに隠れて……」
イニーツィオの言葉に、サダクビアが顔を上げた。
「イシュハ、ローデンシア、信じる、ない。あたし、行く」
ハラ語だった。
おそらく、イシュハ人はローデンシア人を信用しないから、一緒について行くと言ってくれている。たしかに、同じイシュハ人が治療について説得してくれたら、話はずっと早い。
だが、イニーツィオは首を振った。あまりにも危険すぎる。サダクビアはイシュハの民であるばかりか、ヴァスコ・ランベルティの失脚に纏わる陰謀に使われた。今、陰謀に与した者たちが血眼になって彼女を探している。
「リゲルはどうするの。君、弟くんを置いてく気?」
リゲルを指差して、身振り手振りで問う。いまいち意味が通じなかったようだが、病み上がりのリゲルを置いていけないことには気がついたらしく、サダクビアは唇を噛みしめつつもそれ以上食い下がるのはやめた。
そのとき、不意にゴ、という物音が玄関扉から聞こえた。イニーツィオは腰に佩いた剣に手を掛け、サダクビアたちを部屋の奥に促す。
またゴ、という音ともにカッカッという鳴き声が聞こえた。
「……レラ?」
慎重に扉を押し開けば、思ったとおり闇夜を背にして美しい大鷲が飼い主に似た尊大さでイニーツィオを見上げている。
クラヴィスから便りだろうか。しかし思わぬ音が続けて響いた。
車輪が、泥を跳ね上げる音。
まさかとレラの背後を見やれば、糸繰草の色をした眸がイニーツィオを小馬鹿にしたように仰向いた。
「頭脳も人手も足りないようだな」
クラヴィスはそう言ってひらひらと右手を振って、にや、と口の端を吊り上げる。
「まあ一本しかないが、ないよりはましだろう」
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