第2話 破砕
その日の晩餐の途中で父王は宴の席を抜け出し、またもやイニーツィオをしょげ返らせた。宴が終わって眠い目を擦りながら大広間を出たところで、異母兄がイニーツィオの手を引いた。
「夜の王城探検だ」
その胸を弾ませる響きに、イニーツィオは目を輝かせた。
ナザリオはぞろぞろ付いてこようとする護衛たちに面倒そうに手を振って、滑るように歩き出した。異母兄の一歩はイニーツィオの何倍もあったが、彼は弟をつんのめらせることなく、やがて寂れた糸杉の森に彼を招き入れた。
ルーナ=プレナの墓には、異母兄と連れ立って何度か墓参りをしに来ていた。
「陛下からだ。口止めされたが、まあこの場にいない父上が悪い」
にや、と少し悪い顔をして言って、ナザリオは月光にその透き通った石を透かせてみせた。掌の上で角度を変えてみれば、そのたびに色合いを揺らめかせる。光をこごらせたみたいな石だった。
よくよく見れば、それは耳環だった。異母兄の王妃譲りの夕焼け色の髪の影に隠れて、同じものが嵌まっているのを何度も見たことがある。
「アダマス王家の標語を知っているか?」
ふるふると首を振れば、ナザリオはその場に跪いた。「少し痛むぞ」と言って、イニーツィオの髪をかき上げる。ナザリオの手には、針が握られていて、イニーツィオはぎゅっと目を瞑った。涙目にはなったが、泣き喚きはしなかった。そうすれば異母兄が「えらいな」と微かに微笑んでくれるのを、イニーツィオはよく知っていた。
「かつてシリウス王はいたずらに無辜の民を虐殺した最期のカントゥス女王に抗った。先王は忌まわしい因習に抗い、法をあまねく王土に示した。そして父上は――父上も、抗っていらっしゃる」
なにに、と問うたイニーツィオにナザリオは少し困ったように笑って、イニーツィオの頭を撫でた。
「アダマス王家の標語は、“不屈”だ。お前はまあ……まだちょっとぴよぴよしているが、今にこの石にふさわしい男になる。生誕日おめでとう、イニーツィオ。口さがない者もいるが、お前はこの先ずっと私の大事な弟だ」
* * *
イニーツィオは貪欲に学び、剣の鍛錬もこなすようになった。
「早く兄上の役に立ちたい」
それがイニーツィオの口癖になった。
王太子殿下、とはじめはつむじを見せていたイニーツィオも、やがて異母兄上異母兄上とひよこのようにナザリオの後をついて回るようになった。宰相と側近は顔を見合わせて、「これは間違いなく兄弟だな」と忍び笑いを漏らした。
その頃にはナザリオはイニーツィオのことをイオと愛称で呼ぶようになっていた。イニーツィオはその特別な響きをいたく気に入って、異母兄に呼ばれるたびににんまりしては彼を呆れさせた。
異母兄を兄と慕ってくっついて歩いて回ったのは、たった二年にも満たない時の間のことだ。
それまでイニーツィオについての《詩篇》を詠むことを怠けていたカントゥス家が突然やる気を出して《
“金剛暦元年 新王戴冠す
鷲便がもたらしたその報を、奇しくもイニーツィオとナザリオは同じ部屋で耳にすることになる。宰相の執務室にはたまたま二人の王子と宰相が同席していて、動転した侍従は声を張り上げてその《大詩篇》を読み上げた。
不具者は絶句して、イニーツィオはなにか意味の通らないことを喚き散らしたのを覚えている。ナザリオはただ静かに、「アダマスの名に恥じぬ王になれ」と告げてイニーツィオに背を向けた。
その日以来、異母兄がイニーツィオを愛称で呼んだことは、一度として、ない。
* * *
それからというものの、イニーツィオは異母兄や不具者やその側近の教えに逆行した振る舞いをするようになったが、彼を持ち上げる貴族や高官は次第に増えていった。異母兄の取り巻きは蜘蛛の子を散らしたようにいなくなり、時たま王宮の片隅で王妃がナザリオを口汚く罵る声が聞こえた。そのうち王妃は、イニーツィオのことを実の子だと錯覚するようになった。
宰相と側近はイニーツィオに寄り添おうとしたが、彼は二人を寄せつけなかった。《大詩篇》が詠まれてからようやく揉み手をして頭を垂れた、かつてイニーツィオを蔑んでいた者たちと馬鹿みたいに騒いで回った。
間もなく、宰相の片翼が捥がれた。
梟の徽章を掲げていた男は、老夫婦になってもしょっちゅう惚気話を周囲に垂れ流していた妻と離縁し、息子に当主の座を譲り渡し、書の城の番人になった。
表向きは、宰相と側近が決裂したためとされている。だが本当はそうでなかったらしいことは、彼らを失望させ、彼らのいる場所には顔を出さなくなったイニーツィオにも理解できた。
不具者のイニーツィオへの追撃は厳しかったが、やがて彼は愚かな王太子の相手をしている暇はなくなった。度重なる天災が、ローデンシアの各地を襲った。
そして七年前。
イニーツィオが十一になる少し前、カリタの神罰の咎で宰相が王宮を去った。
骸のように生気を失った父にたかる貴族たちは、さながら腐肉に群がる鴉のようだった。
言梯師を選べと側近たちから耳に胼胝ができるくらい聞かされたが、尻尾を巻いて逃げ続けた。
十三を数えるころに王宮をはじめて抜け出し、十四のころには侍従や側近と寝た。たびたび寝所に女を送り込まれたが、すべて突っ返した。イニーツィオとの間にできた子だと主張してくる女とその家族もいたが、彼が男しか抱けぬことは宮廷の暗黙の了解になっていて、大事に至ることはなかった。
そして十五を数えるころ、北部に旅に出た。何度も王都を抜け出すうち、側近たちを撒くのは上手くなっていった。
その頃には国中に今度の王太子は救いようのない屑だという評判が広がっていた。
仄暗い悦びが頭をもたげた。
そして十六のとき、ルーナ=プレナの墓碑で
初代アダマス国王シリウスが粛清を繰り返していたころ、ルーナ=プレナは王の麗しい
「こんの馬鹿もんが。戦上手しか取り柄のないスットコドッコイ! ほんにわたくしはそなたが嫌いじゃ。一番楽な道を選びよる能無しの小童め。そなたも
カントゥス家最期の女王にしてローデンシア史上最悪の暴君と大差ないと言われた初代は激怒したというが、彼はなぜかその後、ルーナ=プレナをみずからの傍近くに置いた。
イニーツィオは、シリウスが血塗れの剣をおさめ、どこに行くにもルーナ=プレナを伴うようになってからの彼の治世がいっとう好きだ。
きっと異母兄はそんな王になると信じていた。それゆえに。
だから、何度もナザリオに訴えに行った。王位は要らぬと。己の望みは国王となったナザリオを傍近くで支えることだけだと。
彼の父譲りの
でも、踏みとどまってナザリオに目を合わせた。きっと異母兄はイニーツィオの案を容れてくれると信じていた。
しかし危うくナザリオが王太子を惑わせたとして牢に放り込まれそうになり、イニーツィオは口を噤んだ。
ナザリオはただ、「愚かなことを」と嘯いた。
イニーツィオがどれほど言葉を尽くしても、もっとも届いてほしいひとに届くことはなかった。
墓碑の花束は、枯れたかと思えばまた新しいものに変わっていた。
逢いたいとただ思った。
彼ならば、壊れた兄弟をふたたびつないでくれると思った。縋ってさえいたのかもしれない。
王位など、望んだことは一度もない。
異母兄が呆れたように笑う顔が好きだった。
彼のおかげで息をしているだけの獣から人間になったのに、彼なしではもうどうやって歩いていいかもわからない。そのような子どもに玉座など過ぎたるものだった。
南部でなにやら検問が始まったらしいと知ったのは、父の死の《大詩篇》が詠まれる少し前だった。
イニーツィオはついに心を決めた。
己が命を断てば、イニーツィオ即位の《大詩篇》は覆される。
もうそれしか、彼に取れる道はなかった。
でもその前にと少し欲を出した。糸杉の森で、その少女に出逢った。
魑魅魍魎の巣窟たる金剛宮には笑ってしまうくらいに不似合いの、きよらでしなやかな娘だった。イニーツィオが異母兄と訣別する前に抱えていたもの全部抱きしめて、歯を食いしばっているような愚直で諦めの悪そうな娘でもあった。
たまゆら、この少女が欲しいと身のうちが灼けるように強く思った。そして己の考えに青ざめた。
――わずかに走った胸の痛みには、気づかないふりをして。
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