第3話 言と書の盾

 果たして、現れたのは細面に胡散臭い笑みを貼りつけたミロ・コッツィだった。


(元隊長閣下?)

 不審な言葉に眉を顰める。

 この男はなにを言っているのだろう。


「ご挨拶だな、コッツィ。この狼藉、陛下のお耳に入ったらどれほどの失望を買うことか」


 ジュストの手は、長剣の柄頭をはっきりと掴んでいる。

 気づけば、コッツィの私兵に辺りをぐるりと取り囲まれていた。

 その円の外に、見知った顔を見つけて声を上げかける。それから周囲を見渡して、アルは思い直して首を左右に振って目配せをした。影は、静かに会釈をすると、その場を去って行く。

 再び手近なところに目線を戻せば、ジュストの騎士たちも、手を縛られて背中を蹴飛ばされて無理やり歩かされている。

 酷い扱いだ。アルは眉を顰めて唇を固く引き結んだ。


「あなたの口から陛下の失望などという言葉を聞くとは、片腹痛いですな」


 ミロの言葉に、コッツィ騎士たちの間に厭な嗤いが伝播する。嘲りと侮蔑。とてもではないが、現宰相の子息に向けられるものとは思えない。


「どういう意味だ」

「まさかご存知ないのですか、お父君の所業を」

「なにが言いたい。父は立派に宰相として陛下をお支えしている。これ以上の侮辱は、父を王笏にお選びになった陛下への侮辱と捉えるぞ!」


 ジュストが気色ばんで吠える。

 その怒りすら、ミロは取るに足りないもののように、背中を震わせて嗤った。


「誰か教えてやれ、この哀れな罪人に」


 ミロが辺りを見回して大儀そうに言った。


(罪人?)

 不穏な言葉だ。

 訳が分からないが、なにか良くないことが起こっている。それだけは確かで、アルは掌がじっとりと濡れるのを感じた。


「――ヴァスコ・ランベルティが異域いいき干渉の疑いで投獄された」

「――嘘だ」


 アルが目を見開くよりも、ジュストがそう口にする方が早かった。

 異域干渉罪はその名のとおり、つ国と関係を持つ罪だ。

 百年前にイシュハが滅び、国交を断ってから制定された大罪で、事の大小によらず、罪人は等しく首切り役人の手に委ねられる。そしてその罪は罪人本人にとどまらず、一族すべてに及ぶのだ。


「証拠はどこにある。これは、父を失脚させるための陰謀だ! 真実が明るみになれば、お前たちもただじゃ済まないぞ!」


 ジュストの怒声に、周囲がまたどっと沸いた。

 辺りには、コッツィの騎士だけでなく、野次馬が詰めかけていた。

 皆、ひそひそと声を潜めてなにか囁き合っている。つい昨日まで、ランベルティ家に媚び諂っていたことなどすっかり忘れてしまったかのように、誰一人ジュストを庇い立てしようとする者はいない。どころか、コッツィの騎士たちに混じって嘲笑を浴びせる者すらいる。

 酷く嫌な空気が流れていた。


「ロ、ローデンシア史上、これほどおめでたい人間はいないだろうぜ、隊長閣下」

 騎士の一人が爆笑のあまり、身体を折りながら言う。

「そんなに父上の醜態を喧伝して広めたいなら教えてやるよ。あろうことか、あんたの父親はこの神聖な金剛宮にイシュハの女を連れ込んだのさ」

「目撃者は大勢いますよ。ちょうど言梯師選について評議会を開こうとしていたところでしてね。ナザリオ殿下も一緒におられた。陛下崩御の《大詩篇》が詠まれ、気を落とされている殿下に、あなたの父君は土人の女と激しくまぐわっているところを見せつけたわけです。とんだ宰相閣下もおられたものだ」


「そんなの誰が――……」


 ジュストの言葉はそれきり続かなかった。

 顔は血の気を失って、真っ白だった。

 アルは静かにミロを見つめた。背筋を伸ばして、ぐっと胸を反らす。息を大きく吸って、飲み下す。冬の息吹が、寒々しく喉を通っていく。


「――待ってください。ナザリオ殿下のお話を聞かせていただけますか。今は言梯師選を控えて、各派閥が陣取り合戦をしているさなか。ミロ公のお言葉を疑うわけではありませんが、先ほど隊長閣下の仰ったとおり、謀である可能性も否めません」


 ミロの蛇のような目が動いた。初めてミロの目にアルの姿が映し出される。

 アルはその視線を真っ向から受け止めると、ジュストを庇うように進み出た。


「申し遅れました。秘書局禁書室のアル・スブ=ロサです」

 礼を取れば、ミロと騎士が失笑した。


「なにかと思えば、“骨董品”が過ぎた真似を。しかもたしかお前は、金鏡官吏だったな」

 アルたち禁書室の役人は、しばしば“骨董品”と揶揄される。もはや必要ない言語や書物に齧りつく様が、役に立たない時代遅れなものだというのだ。


「金鏡官吏とて官吏です。わたしの質問に答えてはいただけませんか。それともナザリオ殿下に直接お話を伺えない後ろ暗い理由でも?」

「無礼な!」


 金属の触れ合う音がして、目の前に鋭い切っ先が迫る。

 あ、死ぬ、と思った瞬間、襟首を思いきり引かれた。

 ぐえ、と蛙の潰れたような声を上げて、鼻っ柱をなにかにぶつける。

 目を開くと、見知った背中に庇われていた。ジュストだ。彼もすでに長剣を構えている。

 アルは目を剥いて、小声でジュストに叫んだ。


「剣下ろして!」

「馬鹿、死ぬぞ!? というか助けてやったのになんて言い草だ。しかも僕にタメ口で話しかけるな!」

「この期に及んでみみっちいこと言ってんじゃないですよ! よく前見てください、前っ」


 みみっちいと吐き捨てられ、ジュストはあからさまに衝撃を受けた顔をした。ガーン、という心の声でも聞こえてきそうである。

 だが、そんな彼の内心を慮ってあげる余裕も謂れもない。

 アルは周りを囲んでいるコッツィの私兵を指差した。


「――多勢に無勢です。ジュスト隊長がどれほどの使い手でも、この数と戦ったら棺桶行きですよ。それよりは、話をつけた方がマシです。少なくとも、今この瞬間には死にません」

「……話をつけろだなんて簡単に言ってくれるな」


 そう引き攣った笑いを浮かべながらも、ジュストはゆっくりと細心の注意を払って長剣の切っ先を下ろしていく。

 そのすぐ脇を通って、アルは前に進み出た。


「お前――!」

 その抗議の声に聞こえなかった振りをして、アルは真っ向からミロを見据えた。


「ナザリオ殿下にお目通りかないませんか。ミロ公」

 アルはつとめて静かに尋ねた。


 元々ミロはリチェルカーレ家の重臣でもなんでもなく、昨今の西部総督家の復権の兆しを嗅ぎつけて、そのおこぼれに与かろうと群がっている新興貴族に過ぎない。諸名家に詳しくないアルも、同じ秘書局の関わり合いになりたくない高官ということで、ミロのことは多少は知っている。

 そういうわけでミロのことは正直全く信用ならなかったが、ナザリオはちがう。彼ならきっと、リチェルカーレに肩入れなどせずに真実を述べてくれるはずだった。


 私兵たちが「公を疑うなど!」と吠えたてる。ミロは手を挙げてその声を制すと、ゆるりと微笑んだ。


「ナザリオ殿下は先刻、金剛宮を発たれたのだよ」

 アルは拳を握りしめた。

「そんな都合のいいことが――」

「金鏡官吏殿は納得がいっていないようだが、元宰相閣下の罪については、隊長閣下の方が私などよりよほど、心当たりがあるのではないかね?」

 下卑た嗤いが渦のように広がっていく。


 アルはジュストを振り返った。

 ジュストがぴくりと震える。顔は先ほどとは比べ物にならないくらい真っ白で、もはやミロに視線を合わせることもできないのか、地面ばかりを見つめていた。

 ミロは、まるで手負いの獣でもいたぶるような凶悪な顔つきで、ジュストに畳みかけた。


「なにしろ隊長閣下も実のところ、娼婦に産ませた子だというではないか。そもそも、元宰相閣下の女狂いは隠しきれたものでもなかった。夜ごと違う毛色の変わった売女を寝室に招いていたとか。土人の女を抱きたくなっても不思議はないがね」

「いやはや、いくら歴史あるランベルティ家の庶子とはいえ、こうして金鏡官吏なんぞと群れている時点で、毛並みが知れますなあ。お似合いという言葉はまさにこのためにあるのではないか」


 勝ち誇ったような哄笑が耳にうるさい。

 まるで彫像のように微動だにしないジュストのつむじを眺める。


(この人がやたらと貴族たらんとわたしを馬鹿にしまくったのは……)


 ただの庶民でしかないアルよりはましだと確かめたかったのかもしれない。

 彼自身にすら、そんな真意は理解できていなかったかもしれないけれど。

 どんな事情があれ、ジュストの振る舞いは見下げ果てるしかないものだ。とはいえ、その裏に隠された思いが汲みとれるようになってしまえば、彼を軽蔑してばかりもいられなくなる。


(……ばかね。わたしを傷つけているつもりで、その言葉はあなた自身をも傷つけていたでしょうに)


 アルはジュストの隣に並ぶと、その背に軽く手を触れた。ぴくりと背が震える。払いのけられるかと思ったが、肩の辺りまで上がった彼の掌は結局そのまま握り込められた。


「顔を上げてください。大丈夫、あなたが宰相閣下のご子息であることに偽りはありません。堂々として。あなたを害そうとする者につけ入る隙を与えてはダメです」

「……どちらにせよ、死罪だ」

「それはまだ、分かりませんよ」

 微かに仰向いたジュストの綺麗な蒼い瞳に微笑む。

 アルは大きく息を吸いこんで、再びミロの方に進み出た。


「そもそものお話をいたしましょう」


 金属の擦れ合う音がして、剣が構えられる。


(いくら言葉と書物の知恵を尽くしたところで、相手に対話する意志がなければ無意味。前にグリエルモ様が言っていたけど、本当ね)


 だがここで尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかなかった。アルに武勇の覚えはなく、この先使っていくのも言と書の盾だけだと決めていた。


「なぜミロ公が隊長閣下を今この場で断罪なさっているのですか。裁判は高等法院で行われるものです。仮に公が仰ることがすべて事実だとしても、この場でミロ公がしゃしゃり出てくる道理はどこにもありません」

「黙れ、平民風情が!!」


 甲冑の擦れ合う音が、喧噪のなかでいやに大きく響いた。


「ご無礼は百も承知です。ですが、今この瞬間に王家の法を踏みにじっているのはどちらですか? なんの権限があって、コッツィ家が独断で隊長閣下を公衆の面前で捕縛するのです」


 そうまでしてリチェルカーレ家の寵を得たいかと暗に含ませれば、野次馬のなかの数人がコッツィどもを嘲笑うように見つめた。

 私兵たちも顔を見合わせる。

 ミロは血走った眼でアルを睨みつけた。


「陛下の御為にしたことだ! 今や陛下は生死の境を彷徨い、他ならぬ王笏が陛下を裏切った! 宮廷の腰抜けどもの代わりに、私が陛下の盾となったのだ!!」


「――陛下の盾を名乗ってよいのは、金剛騎士団だけでしょう」


 場違いなほどに穏やかな声が聞こえたのはそのときだった。

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