第3話 銀鷲は告げる
意味深な言葉に、アルはその場から逃げだしたくなるのをこらえて真っ直ぐに彼を見た。
たしかに、不思議と敵意は感じられない。
イオのことなんてその偽名ひとつしか知らないのに、きっとなにがあっても彼はアルを売り渡したりしないだろうと確信できる。
しかし彼はまだ足りないと思ったのか、さらに言葉を重ねた。
「――それに、」
一瞬、躊躇うように言い淀む。
沈黙は束の間だったが、アルにはそれが途方もなく長い時間のように感じられた。
「もう会うことはないから、安心していい」
その完璧すぎるほどに完璧な微笑に、なぜだか無性に胸が掻きむしられるように痛んだ。
「じゃあね、言梯師の卵さん」
イオはひらりと手を振って踵を返す。
「待って」
気づけばアルは、彼の腕を掴んで引き留めていた。
「ねえ、あなた、大丈夫?」
両手を握って、こちらを向かせる。その手は、優美な立ち姿とは裏腹に存外硬く、肉刺だらけだった。
この宮廷で、男性相手にこんなふうに接触したことはなかったが、今さら彼に取り繕ったところで後の祭りだ。
アルの手もイオの手も、外気にさらされて冷えていた。触れ合ったところから仄かな熱が立ちのぼる。
柘榴石の眸が、驚きを湛えてアルを映し込んだ。
たまゆら、くしゃりとイオの顔が歪む。眸が引き絞られる。
「――大丈夫じゃない」
その声は、ともすれば梢の葉擦れの音に掻き消されてしまいそうだった。
薄い唇に、綺麗な弧が描かれる。
「……なんて。嘘だよ。だいじょーぶ」
アルは両手に力を込めた。
アルを見ているようで見ていない眼に切り込むように、至近距離で見上げる。
「それが嘘でしょ。わたしも嘘つきだから、他人の嘘には鼻が利くの」
そう言って、アルは懐から
「これ、食べときなさい」
イオの目が、ぱちくりと瞬く。
「破滅的な気分のときって、たいていお腹が空いているものよ。そういうときはご飯食べてぐーすか寝て、話を聞いてもらえば少しは元気になる。……それもできないほどくたびれちゃったっていうなら、もうしばらく一緒にいてあげるわ」
イオは、しげしげとアルお手製の
「あ、毒なんて入ってないからね。あなた、こんな貧乏ご飯なんて食べたことないでしょうけど、これで結構いけるんだから」
そう言って、アルは毒が入っていない証明がてら、麺麭をちぎって食べようとする。その手を掴まれ、身体がぐっと寄せられた。
口腔から、赤い舌が覗く。呆けたように立ち尽くしていると、手のなかの麺麭が半分ほど食いちぎられていた。
イオは口の中のものを咀嚼し終えると、性懲りもなくまた近づいてくる。
爪の先を啄むように唇が触れたところで、我に返った。
「ちょっっっと!?」
「……怒るなよ。君が食べていいって言った」
「わ、わたしはあなたを餌づけしているわけじゃないの。自分で食べて!」
そう言って、アルは半ば放り投げるようにイオに麺麭を入れた袋ごと押しつける。
それから後ろを向いて頬に手を押し当てた。
熱い。きっと耳まで真っ赤だ。
アルは心を落ちつけるように、ルーナ=プレナの墓碑の前に跪いた。
(ルーナ=プレナ様。墓前をお騒がせしてごめんなさい。初めてあなたを慕う人に出逢えたのは嬉しいけど、できればもうちょっと常識のある人がよかったです)
詮無いことをルーナ=プレナに愚痴ると、アルは深呼吸をしてイオを振り向いた。
すっかり麺麭を平らげた表情は、先ほどよりは少しすっきりしているように見える。
(……まあ、いっか)
先ほどの心臓に悪い出来事も、その顔が見られただけで帳消しだ。
「旨かった。ありがとう」
「……どういたしまして」
「……余計なお世話かもしれないけど、誰でも彼でもそうやって親切にしていると、足元を掬われるよ。君は特に、気をつけたほうがいい」
「ご忠告どうもありがとう。でも、ちゃんと人は選んでいるもの」
アルのいらえに、イオは不可解そうな顔をした。
「俺は見るからに怪しいでしょ」
「怪しいけど、いい人よ」
断言すると、イオは何度か何ごとかを言おうとして口をぱくぱくさせた。
しかしそのどれも言葉にはならずに、やがて拗ねたような一言が落ちる。
「……君は、見る目がない」
「失礼ね。あなたがどう思っていようが関係ない。わたしはあなたがいい人だと思ったの。あなたにもその考えを曲げさせることはできないわ。それともなに、イオは悪い人だって思われたいの? 人の趣味にとやかく言うつもりはないけど、……ヘンな人ね」
アルの言葉に、イオはついには噴き出した。目尻から、透明な滴までも零れ落ちる。
それほど可笑しなことを言っただろうか。
「そろそろ行かないと。……俺は、君みたいな人に、次の王の王笏になってほしいな」
脈絡なく発せられた言葉の意味を問う間もなく、今度こそイオは歩み去る。
彼が残した意味深な預言通り、それからアルが金剛宮でイオの姿を見かけることは一度もなかった。
* * *
禁書室に来る客といえば、本にはまるで興味のないジュストとその腰巾着がほとんどだったが、時たま禁書の閲覧申請をして禁書室に日がな一日入り浸る変わり者もいた。
バルトロ国王が一子、ナザリオ・アダマス第二王子殿下もその一人だった。
今日読んでいるのはどうやら医学書らしい。
傍らの羊皮紙には、流麗なハラ文字で覚書が記されている。相も変わらず美しい筆蹟だ。
見入っていると、端正な面が上向き、バルトロ国王譲りの
王太子イニーツィオとちがって、年中各地を飛び回って政務に励んでいるナザリオは、禁書室にもなかなか寄りつかない。
半年ほど前に、バルトロ国王が病で臥せってからは、姿を見かけることもほとんどなくなった。
しかし今日は、忙しい合間を縫ってまで、書物の知恵を借りに来たようだ。
「アルか。背が伸びたな」
その重圧からか、厳めしい顔つきをしていることも多いナザリオだったが、こうして口の端に笑みを乗せると気品のなかに親しみやすさが覗く。
もう三十も手前で、一回り以上年上だったが、色恋沙汰に興味を持てないアルも彼には少し、どぎまぎさせられていた。
(ほっんと、見れば見るほど、カンペキな王子様よねえ)
国の行く末を誰より憂え、勉強熱心で武芸にも秀で、下々の者の話にも耳を傾ける。まさに非の打ちどころのない貴公子で、貴族の子女からも絶大な人気を誇っている。
イニーツィオを王太子と定める詩篇が詠まれた以上、なかなか表立って口にはできないが、誰もがナザリオの方が王位にふさわしいと思っていた。
少なくとも、アルはその一人だ。
そもそも、イニーツィオ即位の《大詩篇》――《詩篇》のなかでも歴史を動かす重大なものをそう呼ぶ――は青天の霹靂だった。
イニーツィオはバルトロが戦時によそでつくった庶子で、ナザリオは今は亡き王妃の産んだ唯一の子だった。血筋の正統性だけでなく、ナザリオは幼い頃から聡明で、剣術も馬術も人一倍の腕前だったし、何より人望があった。
これまでも王位と詩篇を巡り血で血を洗う争いは起きてきたが、たいていは正妃の嫡男が王位を継いできた。もっとも現王バルトロは末子ではあったが、少なくとも正妃が産んだことは疑いない。だから次期国王はナザリオだと誰もが信じて疑わなかった。
血筋だけがナザリオの取り柄だったら、アルもイニーツィオが次期国王であることに文句はない。貴族の血統主義には辟易していた。
だがこれほど国のために心を砕いているナザリオとは対照的に、王太子は色恋に現を抜かしているか、遊び呆けている話しか聞かない。国の成り立ちからして、言語が重要なことは明らかなのに、アルが務めだしてからイニーツィオが禁書室に寄りつく気配は一向になかった。
どちらが王位に相応しいか分かろうと言うものだ。
「お前は、閉架図書も読んだことがあるのか?」
「いいえ、まさか。閉架書庫の鍵はグリエルモ様とジュスト隊長閣下が持っていらっしゃる二つの鍵を使わないと開きませんから。……読んでみたいのは山々なんですけどね」
禁書室には、閲覧申請さえすれば貴族ならば誰でも読める開架図書と、読むことそのものを禁じられた閉架図書がある。
アルも閉架図書を読みたいと思い続けていたが、あいにくそれが叶ったためしはなかった。
ナザリオは医学書を捲りながら、小さく溜め息を吐く。
「本棚の肥やしにしても仕方なかろうに。よほど、知られたくないことがあると見える」
その言葉に、アルは我知らずどきりとした。
しかし、ナザリオの言葉のなにがそんなに引っかかったのかは分からない。
「まあいい。ところで、まだ虐められているのか?」
「……やっぱり、平民が宮廷を我が物顔で歩いているのは気に食わないみたいです」
「私にその狼藉者の名を耳打ちしてくれれば、その顔を明日から見なくて済むようにできるのだが」
ナザリオは冗談めかして言った。
「いよいよどうしようもなくなったら、助けを求めるかもしれません。でも、今はまだ頑張らせてください。わたしがわたしの力で出世したら、また金鏡官吏の前例ができますから。平民だってこんなにやれるんだって、思い知らせてやりますよ!」
固く拳を握って熱を込めれば、ナザリオは相好を崩した。
「お前には、いつも励まされるな」
「殿下を少しでも元気づけられているのなら、わたしのこのド根性もまだまだ捨てたもんじゃありませんね」
おどけたように言えば、ナザリオはじっとアルを見つめた。彼にしては珍しく、しばし逡巡するような奇妙な間が生まれる。
「……ナザリオ殿下?」
小首を傾げると、ナザリオは羽根ペンを置いて立ち上がった。反射的に後ずさると、書架に背が当たる。
きょとんと目を瞬いた顔に影が落ちる。アルの身体を預かった書架が軋み、ナザリオの腕がアルの頭上の棚に掛かる。
「――近く、宮廷が荒れる」
囁きが、鼓膜を掠める。
目線だけ動かせば、夜色の眸がすぐそばにあった。
びっくりして固まっていると、ナザリオはますます声を潜めて続けた。
「死ぬな。そして私の傍まで来い」
「殿下、どういう……?」
「いずれ分かる」
言うだけ言うと、ナザリオは禁書室を出て行ってしまう。
さっぱり意味が分からなかったが、果たしてアルはその日すぐに彼の言葉の意味の半分ほどを理解することになる。
地平線に太陽が沈むころ、王宮に書簡を抱えた一羽の鷲が降り立つ。
鷲便はローデンシアの王侯貴族が広く用いているものだが、白銀の体毛をした鷲は、カントゥス家だけが飼い馴らしている特別な鷲だった。
その白銀の鷲が運んだ一報は金剛宮に激震をもたらした。
――
それは、病に臥せっていたバルトロ国王が近く崩御し、悪名高い王太子イニーツィオ・アダマスが王位を継承するということだった。
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