エジカ・クロニカ さだめの王と名もなき王笏
雨谷結子
序章 神罰
王と宰相
その王の傍らに常にあった
『ローデンシア王国史下巻』
第十七代国王イニーツィオ・アダマスの
* * *
高嶺颪が、女の絶命にも似た叫びを運んできた。
微睡みに静まり返った城内に揺らめく影は少なく、ただ玉座から伸びた影がちろりちろりと揺れていた。
宰相は車椅子に腰掛けたまま、すっかりと濃く翳をつくった王の貌を見つめた。
もう孫の一人や二人いてもおかしくはない年頃とはいうものの、往年は武勲を世に轟かせたその男は、皺と隈と傷とが無数に刻まれ、本来の齢よりは随分と窶れて見える。
間もなく、王宮が微睡みから覚めれば、宰相は現を追われることになる。
この、孤独な王を一人残して。
十年以上の時を、ともに過ごした。
最初はこの王に当てつけのために選ばれ、自身もまた、ただ生き永らえるためだけに忠誠を誓った。醜い
窓から見える城下はいまだ、寄る辺を失った野草のように、頼りなく揺れていた。疑念と恐れと怒りと憎しみと、そして零れ落ちそうな祈りとが綯交ぜになったような、そんな暗夜。
それをこの王が見逃すはずもなかったが、王は静かに目を逸らした。
「疲れた、と。そう言ったら、お前は俺を見限るか?」
豪気と傍若無人を絵に描いたような、そのような王であった。そのような王から、草臥れ、夜風に掻き消されそうな声が漏れたことに、宰相は無性に泣き出したくなる。
宰相は生まれたときから足がなく、血族からすら嘲笑われる日々だった。母からは殺されかけ、父からはいない者のように扱われ、誰からも愛されたことはなく、そのように無意味な存在のまま死んでいくのだと思っていた。
それが。
この人間のために生きるのだと、それこそが己が生きる理由だと。骨の髄まで刻みつけられて、生を高らかに謳いあげるように生きることになるとは思いもしなかった。
そしてその望みが道半ばで潰え、王をこのように虚ろな器にしてしまうのが他ならぬ己ゆえだとも。
これは、奢った罰だろうか。人の身で、人ならぬ領域に踏み入ろうとした、その報いを受けたのか。
宰相は、努めて穏やかに言った。
「誰が陛下を見限りましょう」
王はその大きな図体にもかかわらず、玉座の上で少しぎょっとした様子で子兎のように震えた。
「誰だ、お前。中に別なの入ってんな」
「……ちょっと、私が一世一代の王様アゲをしてあげてんのに台無しじゃないですか、このクソボケ王」
「あァん? 仮にも俺の右腕なら、一世一代なんてケチくせえ出し惜しみせずに、常に褒めたたえやがれってんだ。小便臭い坊主の頃から、耳にタコができるくらい、クソボケ王だの糞ったれジジイだの、好き勝手に言ってくれたな。『俺が国で一番賢い。せいぜい上手く使いこなしてみせろ』とかタワゴト抜かして売り込んでおきながら、語彙がクソとクソとクソしかなかったじゃねえか。ご近所の悪ガキでももう少しまともな言葉を話しよるわ。今からでも払い戻ししやがれ」
「なっ。もう十年も使っちゃったんですから払い戻しは聞かないんですよっ。庶民でもそれくらい分かってますよ。おばかさんですね。あんたの買い物がへたっぴなのを人のせいにしないでください」
まったく、細かいことをいちいち覚えているケツの穴の小さな男だ。
王なら王らしく、鷹揚に構えてしかるべきだと宰相は常々思ってきた。
だが、と俯いて宰相は力なく笑う。
跪く王は生涯この王ただ一人と決めていた。
「……陛下のつくりあげる国が見たくて、青春全部かなぐり捨てて、こんなところまで付いてきてしまいました」
「俺の王笏にならずとも、お前に青い春なんぞなかったと思うがな。なにせ、その性悪ぶりだ。半時でも話せば、どれほどの人間でも裸足で逃げよるわ」
「失敬な。あんたにゃ言われたくありませんよ。あんたなんかクソをクソで煮詰めたみたいな性格してるじゃないですか。――でもまあ、この姿を一目見れば、半時経たずとも誰も彼も逃げてしまうでしょうよ。十年も引きずり回した物好きは、あんたとあの腹黒にっこり仮面の嘘つきジジイくらい」
宰相は自嘲気味に、
宰相が生まれたのは、この国でも有数の名家であったが、肢体不自由かつ顔に酷い火傷の痕があったので、家名はさほど宰相に栄華をもたらしはしなかった。
それでも、貧農にでも生まれ落ちていたなら臍の緒を切られた時点で棄てられていたであろう命だ。家名のおかげで生きているのだから、今は感謝してすらいる。
「――おい」
冷えた、氷の刃のごとき王の声が落ちる。
炎に譬えられるこの王が真に激怒したとき、その実冷えるのだと知る者は少ない。
「俺の王笏を軽んじる発言は赦さんぞ」
「……馬鹿ですね。あんたが言い出したんでしょうが。しかも政敵じゃなくて、他ならぬあんたの王笏が言ってんですよ。……まったく」
呆れたようにぶつくさ言いながら、宰相は無い脚を握りしめた。
王宮で宰相が心無い言葉を浴びせられるたび、いつだってこの王はこうやって激怒した。
宰相にとってはもう慣れたことで、それこそ赤ん坊のころから繰り返し繰り返し聞かされてきたせいで、いちいち気に病んだりしない。だがこの王は、そのたびにその口髭をたっぷりと蓄えた顔に怒気を閃かせるのだった。
しかも、他でもない王自身が、自らの王笏の悪口をこれでもかと振り撒いているくせに。
だが幾年もともに時を過ごせば、その天邪鬼に隠された意味くらいは宰相にも理解ができた。
王は沢山のものを宰相に与えたが、宰相は王の望むものを与えてやることはできなかった。
今まで受けてきた無数の屈辱を晴らせず死ぬことよりも、そのことこそが赦せなかった。
(俺は、この王の王笏に値しなかった)
それを認めることは、心をずたずたに引き裂かれる思いがした。
もう少し早く、己の身のほどを知って退いていたならば、この王をこれほどまでに蝕ませることはなかっただろうか。己の浅はかさが、この王から光を奪ったのだろうか。
己を呪う声は尽きない。
ただ寒かった。
この残炎の時節に相応しくない凍えるような寒さが、身体にはりついていた。
「休暇をやる」
朗々とした王の声が微かに震えた。
明日にでも、宰相は投獄され、そののち首切り役人の待つ処刑台に連れて行かれる。
休暇とは、言いえて妙だった。
王のために命を削って働くのは歓びであったが、王同様に宰相もまた、疲れ果てていた。王笏に任じられた十七のときから今まで、休暇らしい休暇なんてまるでなかった。
だからこれは休暇だ。長い長い、休暇。
だが王は、この期に及んで、玉座を離れない。疲れたなどと嘯きながら、その血みどろの椅子に腰掛けるのだ。
「民草も、野良仕事に疲れたら、そこらの軒先で休むのです。陛下も少し、お休みください」
もし足があったなら、王の足元に跪いてその手を取りたかった。
王がすべてを諦めてしまっても、宰相を喪ってなお足掻き続けることを選んだとしても、どちらにせよ自分だけは王の味方であるとそう伝えたかった。
だが潰える命に価値はなく、そもそもの始まりからしてこの王に相応しくなかった王笏一人味方につけたところで、意味はなかった。
「では、私は一足早く、御前を辞します。陛下を差し置き、長い休暇を賜ること、どうかお許しください」
「…………赦す」
影の落ちたその顔は、見えない。
老いてなお、冴え渡る
兄弟すべてを皆殺しにして王位を得た、覇道の王だった。叡智による調和を重んじる宰相がもっとも嫌いな類の王のはずだった。
王の影を瞼裏に焼きうつすように、宰相は玉座を見上げる。
そうして、完璧な礼を取ると、宰相は静かに玉座の間を辞した。
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