第6話 誰がための嘘(2)

「カリタの神罰」


 静かに、イニーツィオの声がアルの言葉を継ぐ。

 オース岳噴火に伴う、王都近郊の地域に夥しい被害をもたらした震災。灰と化した集落の数は片手では数えきれず、いまだ見つかっていない遺体も多くある。


「クラヴィスが災害対応の陣頭指揮をとり、父う――陛下も被災地に赴いた」


 クラヴィスの初動は類稀なほどに迅速だった。彼の指揮のおかげで、震災直後の混乱は最小限に抑えられたと言っても過言ではない。


「そこまでだったら、あの震災はただ、オース岳噴火とでも呼ばれていたでしょうにね」


 あの震災が神罰などと仰々しく呼ばれるようになったのは、被災後に当時の権力者たちの罪が明らかになったからだった。

 災害の救援活動が落ち着いてきたころ、災いの原因は宰相クラヴィスにあるという触れが、《教会》の急進派よりもたらされたのだ。

 《教会》の主張はこうだった。


 クラヴィスは、《大詩篇》――それも一般には公開されない重大な《禁詩篇アルカナ・クロニカ》を、私利私欲のために覆そうとした。そのせいで、エジカによる正しき標が狂い、災いがもたらされた。クラヴィスを宰相位から引きずり下ろし、処刑せよ。

 史上《詩篇》を覆したと記録されているのは、六十年前のイシュハの狂女王が暴走した一度きりだ。迷える人々を正しく導いてくれる《詩篇》に叛逆すれば、彼の廃滅の国の二の舞となる。

 当然、民衆は怒り狂い、それに乗じて貴族たちもクラヴィスの排除に動いた。だが、クラヴィスが処刑台に送られる前に、バルトロ国王は彼を更迭し、彼の生家であるリチェルカーレ家に引き渡した。

 リチェルカーレ家も、生家の力を削ぐような政策ばかりを打ち出してきたクラヴィスの排除を目論んでいた。だが、リチェルカーレから大逆人を輩出すれば道連れになるのは明白であったので、証拠がないとして彼を廃墟城送りにするに留めた。


 アルには、この一連の事件のどこからどこまでが真実なのかは分からない。

 クラヴィス本人に会って、ますます分からなくなった。あの偏屈な男は口こそ悪いが、国や民草を滅亡に追いやろうとする人物には見えない。クラヴィスが本当に災いを招いたのか、はたまた《教会》や貴族連中の陰謀だったのか。すべては闇のなかだ。


「君の名前を知ったときは、正直驚いた」

「“悲劇の歌姫”アルティマ・カントゥスの名は、一時期戯曲家に持て囃されましたからね」


 イニーツィオの言葉に、アルは皮肉交じりに笑う。

 事件は政事の中心である金剛宮だけでなく、祭事の中心であるカントゥス家でも起こった。

 罪人の名は、アルチーナ・カントゥス。他でもないアルの母だった。

 イニーツィオの物問いたげな眼差しにかち合う。


「脚色こそされていますが、あなたが知っていることは、だいたい事実だと思います」


 イニーツィオが疑問を抱くのも、そしてそれをアル自身に問うことを躊躇うのも無理はない。

 母はなにをとち狂ったのか、娘に――アルにいにしえの言葉でもって呪いをかけた。エジカの《詩篇》を詠む力を奪う呪いだった。アルはその当時のことをなぜか全く覚えていない。

 唯一《詩篇》を詠むことのできるカントゥスの娘は神聖不可侵の存在で、何者にも害されてはならない。それは、たとえカントゥスの当主であっても例外ではなかった。

 アルの母が彼女にしてみれば不運だったことには、クラヴィスの場合とちがって証言者がいた。

 その証言者こそが、アルの養父ちちだった。


 “原初返り”と呼ばれるほどに力の強い歌姫は、エジカの《詩篇》を読みとくたびに心を喪っていくと言われる。その真偽はアルには分からない。あの日、アルに呪いをかけるまでは、母はいつもと変わらぬ様子だった。

 気性が激しく、情の深い女のまま。

 ただ、娘の未来を奪った、心を喪ったおぞましいカントゥスの怪物として、母は“白銀の髑髏”などというありがたくない名前を戴くことになった。


 家族の肖像は脆くも崩れ去った。

 養父はなにも、母とアルと家族ごっこをするために、わざわざオムファロス孤島から海を渡ってこの国に来たわけではない。

 そんなことは幼いアルにも分かっていた。

 養父はあくまで母の監視役に過ぎなかった。そして罪を犯したのは母だ。


(でも、わたし――養父さまに母さまを守ってほしかった)


 それがたとえ間違いだとしても、首切り役人の前に連れ出された母を救い出してほしかった。

 自分がもう《詩篇》を詠めないことなど些細なことだった。

 ただ、信じていたものが虚構であったことを受け容れることができなかった。この世界の道行きを正しく示してくれる《詩篇》などではなく、あのときのアルの世界の中心には母と養父がいるだけだった。


 アルは、首を落とされる母の姿をただ見ていた。養父ならもしかしたら母を救えたかもしれないのに、母を断罪したのは他でもない養父だった。


「――君は歌を奪われたから言梯師に?」


 アルは頭を振った。もちろんそれがきっかけであることは間違いない。歌を奪われていなかったのなら、アルは歌姫としての使命に燃え、家や《教会》の命じる通りの男と結婚して子を生していただろう。


「カントゥスの娘のままでは、できないことがあると思ったんです」


 アルは押し開いた両の掌を見つめた。


「全てが終わって、母の監視をする必要のなくなった養父が城を出て行くときに、尋ねたんです。『どうして』って」


 あの冬、何度その問いを繰り返しただろう。

 民を導くカントゥス家の当主でありながら、その役目を放棄した母。母を告発した養父。母を殺せと叫んだ街の人々。助けてと泣き叫んでも動いてくれなかった国王、《教会》、貴族たち。

 アルの言葉はなんら意味を持たなかった。ただ真白い雪と煤けた灰が降り積もる街のその、いっそ凶暴なほどに美しい光景を前にして、ただ立ち竦んでいた。

 身体のなかが虚ろな空洞にでもなったかのように、なにも感じなかった。

 七年前、アルティマ・カントゥスは一度死んだのだ。


「養父さまがなんて答えたのかも、よく覚えていません。今やもう、養父さまの顔も思いだせない。だけど不思議と、養父さまの口癖は覚えています」


 春に舞い落ちる花弁のように静かに柔らかく、養父はしきりとその言葉を繰り返した。


「『言葉は、人と人をつなぐものだから』」


 それは、ルーナ=プレナの信念そのものだ。

 言葉はときに憎悪を孕み、人と人を分断しもする。だが、ルーナ=プレナがそうしたように、戦火のなかで人と人を結びもする。

 アルは、地面にできた泥まみれの水たまりを覗き込んだ。そこに映っているのは十六の娘に他ならなかったが、七年前とそう変わらない顔をしているようにも思えた。

 今にも風に吹き消されそうな、頼りなげに揺れるか細い火のよう。


 あれから季節は何度もめぐり、今また忌まわしい冬が訪れようとしている。

 でもアルはもう、七年前に立ち竦んでいた小さな女の子ではいたくないし、いられないのだ。そんなのはもう嫌だと心が叫んでいる。

 アルティマ・カントゥスであったことを葬り去れたらと思う夜もあった。だけど、アルはその過去を引きずって歩いていくしかない。あのとき無力感のなかで灯した焔が、アルをここまで連れてきてくれた。身のうちに明々と燃えるそれを、あの白と灰の街から、ずっとずっと守り通して、掲げて、標としてきた。


「わたし、言葉を信じています。起きてしまったことはもう、変えられない。だけどこれからのことは、変えてゆける。……そう信じていたい。だからわたし、言梯師になりたい。なってやるって心に決めたんです」


 イニーツィオの顔が、泣き出しそうに歪む。

 糸杉の森で邂逅してから、折に触れて見てきた表情。

 その渇きと孤独に触れたいと願う。


「あなたの傍でなら、わたしはそれを信じ続けることができる。そう思いました。根拠は正直ありません。でも、初めて逢ったとき、イオはルーナ=プレナ様にお花を手向け続けるわたしに、『逢えてよかった』と言ってくれましたね。わたしにとっては、それが、すべて」


 吐息のように、言葉が滑り落ちる。

 アルは凭れていた柱から背を離し、イニーツィオの腰掛ける露台の前に跪いた。

 西日に照らされて、柘榴石の眸がひと際澄んだ光を放つ。その眸を、アルはなぜだかもう、血に濡れたようだとは思えない。


「――あなたはわたしを望んでくれたのに、どうして今度は手放そうとするの?」


 イニーツィオのきつく噛みしめられた唇が、薄く開く。

 アルを見下ろす視線に、縋るような切実ななにかが絡む。


「俺は、」


 罅割れた声が漏れ出る。

 馬の嘶きが聞こえたのは、そのときだった。

 アルとイニーツィオは弾かれたように立ち上がる。サダクビアが業を煮やしたのだろうか。

 廃殿をまろぶように駆けずり出れば、崖っぺりの村に何頭もの馬と甲冑の群れが見えた。


「――あにうえ、」


 イニーツィオのものとも知れない、ひどく頼りない幼子のような声がした。

 驚いて振り仰げば、その眸は今にも涙がこぼれ落ちそうなくらいに張りつめられている。

 そうしてアルは唐突に理解した。


 彼が自らを偽り続ける理由。彼の望み。そしてアルを求めながらも拒んだそのわけを。

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