第42話 形見

 それじゃあ、と宮子は会釈をした。言えなかったことや訊けなかったことを、すべて視線に織りこんで、寛太を見つめる。何もかもがもどかしくて、胸が苦しい。

 鈴子の手前、諦めて後ろを向き、階段を下り始める。背中にずっと視線を感じる。最後の段を下りて振り向くと、門の前に立つ寛太の白衣が、薄闇にぼんやりと浮かび上がっていた。


 車で帰路につく。ヘッドライトを頼りに、曲がりくねった山道を下りる。鈴子は相変わらず、助手席でキャーキャー叫んでいる。坂が終わり、吉野川にかかる長い橋を渡って国道に入る。ここからは、平坦な広い道路だ。

 赤信号で停まると、宮子はため息をつき、背もたれに体重を預けた。


「ねえねえ、お姉ちゃん。その数珠さ」

 ハンドルを持つ宮子の左手を指さして、鈴子が言う。

「婚約指輪の代わりなんじゃない?」

 思いがけない言葉に、「は?」と間の抜けた声が出た。

「仏教では、結婚式のとき、指輪の代わりに数珠を交換するんだよ。だから、女性に数珠を贈るってのは、指輪を贈るのと同じ意味なんじゃないの」

 鈴子がにやにやする。


 青信号になったのを幸いに、宮子は視線を逸らして車を発進させた。暖房のせいか、頬がやたらとほてる。動揺を見透かされないよう、平静を装う。

「それは、ないと思うよ。だって、まだ清僧になるのを諦めてなかったもん。物の受け渡しも、畳に置いてからだったし」

「んー、まあ、そうだね。でも、明日には里へ下りるんだから、時間の問題だよ。女性に一切触れずに日常生活なんて、不可能だし。……そこさえクリアすれば、寛斎兄ちゃんは、お姉ちゃんに気があると思うな」


 心臓の鼓動が治まらない。宮子は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「ううん、それも、ない。だって、鈴ちゃんのことは『鈴子ちゃん』って呼ぶけど、私のことは『お前』としか言わないもん」

 一拍置いて、鈴子が笑いだす。

「それは、お姉ちゃんが寛斎兄ちゃんのことを名前で呼べないのと、同じ理由じゃない」

 再び赤信号につかまり、ブレーキをかける。時計を見るふりをして、左腕の念珠を見つめる。本当はいつだって、彼の名を呼びたいのだ。


 帰宅して食事を終えると、疲れのあまり居間でうとうととした。二階の自分の部屋に上がる気力もないので、そのまま横になる。あっという間に睡魔にさらわれ、眠りに落ちた。


 夢の中でも、宮子はうとうとしていた。背後に誰かの気配を感じる。振り向こうとするのだが、どうしても体が動かない。この気配は、よく知っている。これは。

 ──元気でな。

 寛太の声がした。

「待って!」


 自分の声で目が覚めた。

 体を起こし、辺りを見回す。見慣れた自宅の居間には、他に誰もいない。時計は十時半を指している。お湯を流す音がかすかに聞こえてくる。父が風呂に入っているらしい。


 妙に生々しい夢だった。嫌な予感がする。


 宮子は固定電話に走り寄り、指が覚えている庵の番号にかけた。呼び出し音は鳴るのに、誰も出ない。かけ間違えたのかと思い、いったん切って、もう一度慎重にダイヤルする。しかし、やはり彼は出ない。


「お姉ちゃん」

 振り向くと、鈴子が居間に入ってきた。

「自分の部屋でうたた寝してたら、夢の中に寛斎兄ちゃんが出てきた。……お姉ちゃんを頼むって」


 手から受話器が滑り落ちた。

 慌てて拾い上げ、本体に戻す。左腕の念珠が目に入る。


 これは、指輪の代わりなんかじゃない。形見のつもりだったのだ──。


 居間に置きっぱなしにしていたコートとバッグをつかみ、玄関から靴を取ってくる。父に気づかれないよう、勝手口から出るつもりだった。

「お姉ちゃん」

 鈴子が深刻な顔でこちらを見ている。


「鈴ちゃん。……私、行かなきゃ」

 強い口調で言うと、鈴子は鍵かけにかかっていた車のキーを黙って差し出した。受け取って、勝手口へと向かう。

「お姉ちゃん、しっかりね!」

 小声で見送る鈴子にうなずいて見せ、宮子は駐車場へと走った。


 鳥居を出ると、神殿に一礼して再び走る。車に乗り込んだ宮子は、夜の国道へと飛び出した。

 焦る気持ちをなだめながら、吉野に向かって南下する。

 空には妙に大きな満月が出ていた。

 月が満ちる。力が満ちる。

 庵で過ごす最後の夜、寛太は恐らく、禁じられた行法を行うつもりなのだ。


 ──俺にも、呪い殺したい奴がいてな。


 以前、寛太はハッタリだと言っていたが、いつかやってしまうのではないかと、宮子はずっと恐れていた。だから、折に触れて調伏法ちょうぶくほうのことを調べた。


 通常、加持かじで修される法は、病気平癒の「息災法そくさいほう」か、開運成就の「増益法ぞうえきほう」がほとんどだ。

 が、敵を呪うための「調伏法ちょうぶくほう」も古来より修されており、源頼朝や徳川家康なども、戦の前に僧侶に行わせていたという。現代でも、公害病を引き起こした企業主を呪殺する目的で、密教僧団が結成された。

 調伏された相手は、運を失い、病気になったり事故に遭ったりして、悲惨な末路をたどると言われている。


 一般的な加持の本尊である不動明王は、私利私欲のための調伏を聞き届けることはない。しかし、天部と呼ばれる神々の中には、代償次第でどんな願いも叶え、しかもその効果は絶大、という御方もいる。

 人を呪わば穴二つ、という諺にもある通り、犯人を呪殺するなら、寛太もまた無事ではいられない。


 それに、玄斎様から調伏法を正式に伝授されていなかったとしたら、勝手に修すると無間地獄行きの越法罪おっぽうざいだ。

 永遠の闇へと堕ちていく寛太の姿を想像して、身震いする。


 なんとしても、止めなければ。

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