第18話 神社の娘と無神論者の娘
「どうぞ」
直実が、鉄製の小さな門を開けてうながす。石畳を進み、飴色の大きな扉を開けて「ちょっと待ってて」と中に入っていく。宮子の家の、ガラガラと鳴る引き戸とは大違いだ。
扉の向こうで、友達を連れて来たんだけど、という声がする。足音が近づいてきて、扉が開き、直実が顔を出した。
「お待たせ。さ、入って入って」
失礼します、と言って中に入る。靴箱の上には、お母さんの手作りらしい、紙粘土の人形が飾ってある。ドレスの細かいフリルまで再現した、本格的なものだ。
廊下の奥から誰かが出てきた。髪は肩までかかる長さで、ジーンズに、ロックバンドのロゴが入ったTシャツを着ている。お母さんかと思ったが、それにしては体ががっしりしているし、粘土細工のイメージとそぐわない。
「お邪魔します、柏木と申します」
宮子が一礼すると、その人は頭を掻きながら近づいてきた。
「や、どうもどうも。うちの娘がお世話になっとります。直実の父です」
直実が愉快そうに言う。
「いい年して長髪だし、こんな格好してるし、ビックリしたでしょ」
直実の父は、自分の髪を両方の手でつまみ、広げるように持ちあげた。
「これは、ポリシーだからな。それに、男性は長髪、女性は短髪が多いのは、良い時代の証拠なんだぞ」
「お父さんは偏屈だから」
そう言って笑う直実からは、親しみと尊敬が感じられる。自慢の父親なのだろう。直実がショートヘアーなのも、父親の影響だろうか。
ごゆっくり、と声をかけられ、宮子は直実について二階へ上がった。
「ごめん、散らかってるけど、入って」
直実がめくれたままの布団やベッド脇の本を片付ける。勉強机の上には、問題集が広げたままになっていた。
「あ、テスト前じゃなくても、ちゃんと勉強してるんだ。えらいね」
「いやぁ、勉強してても、つい本を読んじゃうんだよね。顔をあげた拍子に本棚が目についちゃってさ。ま、どうぞ」
宮子は部屋に入り、勧められた椅子に腰をかけた。スライド式の本棚には、本がみっしり入っている。並べきれない本は、隙間に横挿しされていた。
「本、いっぱいあるね。……マルクスって、こんな難しいのも読むの? すごい」
「それは、お父さんがくれたの。でも、正直難しくて、最初の方しか読んでないんだ」
ギイギイと階段がきしむ音とともに、直実の父の声がした。
「直実、ジュースとお菓子を持ってきたぞ」
直実が反動をつけてベッドから立ち上がり、扉を開ける。
「ありがと、お父さん」「家事もこなす素敵パパだって、自慢しといてくれよ」というやりとりが聞こえる。
「お父さんと仲いいんだね」
宮子が言うと、直実は嬉しそうに、まあね、と答えた。
「平日の夕方なのに家にいるし、長髪だし、変なオヤジだと思うでしょ。あれで、大学の准教授なのよ」
「へえ、すごい。だから、難しい本が並んでるんだ」
直実からジュースを受け取り、口をつける。
「宮ちゃんのお父さんって、神主さんでしょ? それだってすごいじゃない」
やはり、家族のことを褒められると嬉しい。気を良くしていると、直実があっけらかんと言った。
「現実に立ち向かうのを躊躇する人に、神様って幻想を見せて正しい方に導くんだもんね。昔から、大事な役割だったと思うよ」
一瞬、息が詰まった。何か重いものを呑みこんだ気分になるが、この違和感がどこからくるのか、うまく説明できない。
「……直ちゃんは、神様はいないと思うんだ」
やっとのことで、それだけ訊ねる。直実はジュースを飲み干し、うーん、と唸って空のグラスをお盆に置いた。
「一応、法事とかはするんだけど、お父さんが無神論者だからね。神仏なんて犬の餌にでもなっちまえって言う人なのよ。この間も、福沢諭吉みたいなことしたらしいし」
先ほどの気さくな直実の父が、そんなことを言ったのか。自分や自分の大事なものを否定された気分になってくる。
宮子の様子を察してか、直実がフォローし始めた。
「でも、『神様』っていう幻想というか機関は、必要と思うよ。だって、神様がいるって信じてたら、悪いことをしないでおこう、いいことをしようって思えるでしょ」
直実が、得意そうに続ける。
「とはいえ、人間はもっと理性的に生きられるんじゃないかな。神様がいなくても。お父さんは、そういうのを理想にしてるんだ」
何かが違うような気がするのに、論理的に説明できない。宮子はグラスの中の氷が溶けて、オレンジジュースの上に透明な上澄みを作るのを、じっと見つめた。
「ごめんごめん、宮ちゃんや、宮ちゃんのお父さんを否定してるわけじゃないのよ。神主って、人が道徳的に生きられるように心の支えとなるカウンセラー的役割を果たしてきたんだから、すごく立派な職業だと思う」
直実の目はまっすぐで、悪意がないことはわかる。
うん、とだけ答えて、宮子はジュースを口にした。先ほどからの妙な渇きが少し治まる。
「もうそろそろ帰らなきゃ。買い物行って晩御飯作るから」
今日は奇数日だから洗濯をしていないので、取り込む作業がない分、時間に余裕はあった。けれども気まずさから、宮子は急ぐふりをして立ち上がった。
直実が本棚から約束の本を取って、差し出す。宮子は、ありがと、と言って本を受け取った。
階段を下り「お邪魔しました、失礼します」と声をかけると、直実の父が青いエプロンをつけて出てきた。
「あれ、もう帰っちゃうの?」
「宮ちゃん、晩御飯作らなきゃいけないんだって」
直実が言うと、彼女の父は腕組みしてうなずいた。
「お、えらいねぇ。直実も見習えよ。そろそろ晩御飯当番に組み入れるからな。働かざる者、食うべからず」
ちゃんとお手伝いはしてるじゃない、と直実がふくれてみせる。本当に仲の良い親子だ。
「じゃあ、私はこれで」
送って行こうかという直実の申し出を、道はわかるからと断って靴を履く。
「ありがとうございました」
宮子が一礼すると、直実親子が並んで手を振った。
扉を閉めようとしたとき、直実の父の足元がなぜか気になった。妙に暗い感じがするが、スリッパの色は最初から黒だったろうか。
もう一度確かめたかったが、自分で閉めた扉が邪魔をして見えなくなってしまった。
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