第39話 玄斎様の遷化
一月最後の日曜日、宮子の受験が終わった。
試験の出来は上々で、合格の手ごたえはある。ようやく肩の荷が下りた宮子は、キャンパス横にある女子寮を外から見て、帰路についた。厭なものはいないことに、ほっとする。ぎりぎり自宅から通学できる距離ではあったが、父の勧めで入寮する予定なのだ。
「毎日二回神殿に礼拝するから、所作や作法をみっちり教えてもらえるし、人脈もできる。厳しいのは規律だけで、結構楽しいぞ」
父もこの大学の卒業生で、寮に入っていた。朝拝の前に当番が太鼓を叩いて寮生を起こすのだが、ロックのようにビートをきかせたり、祭囃のように叩いたりして、お互いを笑わせていたそうだ。酒や個室での食事は禁止だが、カップ麺程度の夜食は可だったので、金曜日の晩はみんなで麺を食べながら遅くまで語り合ったという。今は各地の神社で要職に就いている父の学友から、「また麺会しよう」という年賀状が今でも届く。
人づきあいが得意でない宮子には、始終他人と一緒の寮生活は抵抗があるが、父の話を聞く限りは、悪くなさそうだ。
電車に乗ると、緊張が解けたからか、無性に甘いものが食べたくなった。ケーキか駄菓子か迷っていると、和菓子屋が目に入った。玄斎様のことを思い出し、もう一度見舞いに行こうと考えながら、帰宅する。
振り向いた父の表情を見て、宮子はすべてを了解した。
「玄斎様が……」
「今朝、連絡があった。昨日、亡くなられて、今日がお通夜だそうだ。閉門してから向かうから、宮子も支度しておきなさい。鈴子にはすまないが、留守番をしてもらおう」
父が立ち上がり、座敷を出ようとして振り向いた。
「受験、御苦労だったな」
うなずいて、父を見送る。
宮子は
人はいつか死ぬ。知識として知っていても、自分の身近な人が亡くなると、本当には解っていなかったことに気づく。
「お母さん、玄斎様が亡くなったって。お母さんも昔、お世話になったんでしょ。今頃そっちでお会いしてるの?」
涙が溢れてきて、母の遺影が見えなくなる。玄斎様が亡くなっていたことにも気づかず、受験に必死になっていたことを申し訳なく思う。
──死ぬのが不幸だと思うのは、傲慢というものじゃよ。
玄斎様の言葉がよみがえる。傲慢だとしてもやはり、もっと生きていて欲しかった。神主になった自分を見てもらいたかったのに、叶わないことが寂しくて、涙が止まらない。心を育てなさいと言われていたのに、悲しみを制御できない自分が情けなくて、さらに泣けてくる。
明日の告別式にも参列するため、祖父母の家に泊めてもらう手はずを整え、一泊分の荷物をまとめる。ちょうど帰ってきた鈴子に、留守番を頼む。
「ごめんね、鈴ちゃん。
「私の分まで、お別れしてきて。……寂しくなるね」
鈴子が沈んだ表情でうつむいた。
「宮子、数珠は持ったか。神葬式と違うから必要だぞ」
喪服に着替えた父と、急ぎ足で玄関を出て車に乗る。二人とも終始無言のままだった。
雪でぬかるんだ道路を進み、一時間半ほどで祖父母の家にたどり着く。あいさつもそこそこに祖父母と四人で斎場へ向かった。
高名な僧侶の場合、身内だけで密葬し、日を改めて盛大に本葬をすることが多いが、「葬儀は簡潔に」との故人の遺志だそうだ。
会場には人が溢れており、玄斎様の人柄が偲ばれた。剃髪した修験者や僧侶が列席しているのはもちろん、信者の数も多い。焼香はかなり順番を待つことになった。
写真の中の玄斎様は、肌艶もよく柔和な笑顔で、声さえ聞こえてきそうだった。順番が来たので、焼香して手を合わせる。
──今までありがとうございました。後の世での幸福をお祈りしています。
父と共に、喪主の仁斎に礼をする。寛太は険しい表情のまま、後ろの方に控えていた。視線を合わせることもできないまま、人の流れに沿って立ち去る。
通夜が終わってから弔問に行こうとしたが、人が途切れることはなく、関係者に混じって行くのも気が引けるので帰ることになった。
昨日昼過ぎからうとうととしていた玄斎様は、夕方に目を覚まし、はっきりした口調で「窓を開けてくれんか」と言ったそうだ。何事か察した寛太が「どうかお待ちください」と枕元に駆け寄ったが、玄斎様は彼に何かをささやき、もう一度、窓を開けるよう言った。
どうしても動こうとしない寛太に代わって、仁斎が一礼して窓を開けると、そのまま眠るように息を引き取ったという。
「玄斎様らしい最期だこと」
涙ぐみながら、祖母がつぶやく。宮子は、多くの人に踏みしだかれてぬかるんだ道を、うつむきながら歩いた。
僧侶は既に仏弟子としての戒を受けているので、葬式は残された者の心を整理する意味合いの方が強い。僧侶が亡くなることを特に「遷化」という。生きとし生けるものと喜びも苦しみも分かち合いながら、悟りの世界へ導くために、来世でも僧侶として生まれ変わるからだそうだ。まるで玄斎様のためにあるような言葉だ、と宮子は思った。
祖父母の家に戻り、自宅へ帰る父を見送る。
祖父は十時過ぎに早々と就寝したが、宮子と祖母はこたつでお茶を飲んだ。祖父母の家はかなり古く、柱や天井の木は炭のように黒く変色して、部屋全体が薄暗く感じる。それでいて、不思議と落ち着くのだ。
「玄斎様って、若いころから修行されていたの?」
ミカンを食べながら、祖母に訊ねる。
「いや、あの方が出家されたのは、四十を過ぎてからだよ」
祖母の話によると、事業に失敗して無一文になり、妻にも逃げられた玄斎様は、総本山の寺に流れ着き、用務員として住み込んだそうだ。真面目な働きぶりに目を留めた僧侶の勧めで、経典を学び、得度して修行機関に入った。若い僧に混じって愚直に修行を重ね、数年後には周りから慕われる存在となった。
「苦労を知っていたからこそ、私ら衆生と苦楽を共にしてくれたんだろうね」
何年も接していたのに、初めて聞いた話だ。玄斎様は昔から、宮子が知る「玄斎様」だったように錯覚していたが、みんなと同じように悩み苦しんだ時期があったのだ。至極当たり前のことなのに、目の前の姿しか見ず、その背景を想像もしなかったことに気づく。
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