第33話 清僧宣言
話というのは何だろう、と想像する。回峰行に出るから長期間下山しないのだろうか。しかし、彼はまだ義務教育を終えていないから、考えにくい。
廊下から足音が聞こえた。世間話をしていた参加者が静かになり、姿勢を正す。
襖が開き、玄斎様が入ってきた。後ろから、水差しとコップをお盆に載せて、寛太もついてくる。玄斎様が、床の間前の座布団に座り、衣の裾を正す。その間に寛太が、マイクの用意をして後ろに下がった。
「まだまだ寒いですが、みなさんお変わりありませんかな」
にこやかに語りかける玄斎様に、参加者が頭を下げたり合掌したりして応える。
「法話の前に、今日はひとつ、お願いがありましてな」
玄斎様が、会場をゆっくりと見回す。宮子とも視線が合う。
「内弟子の寛斎は、みなさんにもお馴染みでしょう。まだ中学生ですが、懸命に修行をしております」
ちらりと寛太の方を向いてから、玄斎様が続ける。
「より厳しい戒を自らに課し、自己を律したいと、寛斎本人から希望がありました。これは、修行者として尊いことなので、周りにも協力をお願いします」
嫌な予感で、心臓の鼓動が速くなる。宮子は寛太の方を盗み見た。背筋を伸ばし、やや伏し目がちに座っている。再び玄斎様の方へ向き直ると、また視線が合った。
一拍の間の後、凛とした声が響き渡る。
「寛斎は、これより女人との身体接触を一切断ち、清僧となる」
血の気がすうっと引き、目の前の光景に白い紗がかかったように感じた。指先が冷たく、動かすことができない。
「誤解しないでいただきたいんじゃが、女性だから触れてはいけない、という意味ではなく、男である寛斎にとって異性なのが問題でしてな。本来仏教国では、
スピーカーから流れる玄斎様の声も、膜がかかったように聞こえる。
会話は今まで通りで構わないが、女性はあまり近くに寄らないよう、物を渡すときは、いったん机の上などへ置くように、と注意事項が言い渡される。
ぶつかったり、指先が触れたりすることも許されない。寛太が手の届かないところへ行ってしまう。
ご飯をよそった茶碗を渡すときに触れた指先、
もう二度と、あんなことはないのだ。
「これまで、みなさんには寛斎と親しく接してもらい、ありがたく思うております。これからも、どうかよろしくお願いします」
玄斎様と寛太が、頭を下げる。
指先が震える。みんなが礼を返しているのに、宮子は体が動かなかった。起き直った寛太の表情は、余計なものを削ぎ落としたかのように凛としているのに、どこか苦しそうだった。
玄斎様の法話が始まった。煩悩の根本となるのは
集中して聞こうとしても、すぐに心がどこか別のところへ行ってしまう。「愛欲」というのは、生への執着をはじめとする激しい欲望のことだが、その単語の響きは、寛太への気持ちが煩悩であり、よくない感情だと諫められているようで、胸が苦しくなった。
斜め前に、一番弟子の仁斎の娘が座っているのが見える。仁斎は妻帯して子どもまでいる。日本の僧侶の大半はそうだ。何故、寛太は清僧など目指すのだ。
「煩悩があるから、迷いや苦しみが生じるのです。では、どうすれば煩悩を消し去り、苦しみを取り除くことができるか。それは」
玄斎様が話を続ける。自分が今、身をちぎられたように感じているのは煩悩が原因と言われても、心を抑えることができない。知識として理解するのと実践するのは別だ。寛太が成道できるよう応援しなければならないのに、行き場をなくした自分の想いで溺れそうになる。
続いて、参加者からの質問に答える対機説法が始まった。
「引きこもりの娘にどう接したらいいか」という問いに、経典の話を絡めて玄斎様が諭す。火宅の人のたとえ話を聞きながら、宮子は「心の中が火事なんです。助けてください」と胸の内で叫び続けた。
法話が終わり、瞑想会まで二十分の休憩となった。寛太は人を避けるかのように、廊下の奥へ引っ込んでしまった。
宮子は靴を履き、庭へ出た。寛太がお気に入りだった白梅に近寄り、枝を撫でる。緑色の若い枝は、まっすぐでつるつるしており、白いつぼみが等間隔についている。先端の方は、誇らしげに花が開き、芳香を放つ
寛太も、この枝を撫でただろうか。彼が触れた部分を、自分も撫でているのだろうか。そう思うと、指先が熱くなり、涙がにじんでくる。
「たくさんつぼみがついただろう。もう少しで見ごろだ」
後ろから寛太の声がした。宮子は慌てて涙を止め、表情を作って振り向く。
寛太が、三メートルほど離れたところに立っている。宮子には、それ以上近寄ることができない。
昨日、何と声をかけるかあれほど考えていたのに、今日の清僧宣言ですべて吹き飛んでしまった。言葉が見つからないまま、寛太を見つめる。彼もまた、何も言ってくれない。
「清僧……」
口をついて、その単語が出た。ん、と寛太が問いかけるように、こちらを見る。
「清僧を目指すって、……いきなりで、びっくりした」
「ああ。自分を厳しく律しようと思ってな。もう三年近く修行してるのに、俺はまだまだだから」
冷たい風が吹く。彼は白衣姿なのに、寒くないのだろうか。
「期限とかは、あるの?」
「いや、特に設けていない。強いて言うなら、自分が目指す到達点に行けるまで、かな」
それがどういうことなのか、訊ねたくても聞き出せない。聞いてしまったら、生涯結婚も女性と接触もしない、と最後通告を突きつけられる気がしたから。
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