第二部 それぞれの価値観
第17話 新しい友達
黒板に書かれた「登山合宿について」という文字を、柏木宮子はぼんやりと眺めていた。
先生が班分けの名前を書くそばから、声が上がる。五月にもなるとみんな、新しいクラスに馴染み、友達も固定してくる。中学二年生になっても、宮子は相変わらずひとりぼっちだが。
この地方では昔から、男子は大峯山、女子は稲村ヶ岳に登る林間学校がある。どちらも修験道の行場で、特に男子は、命綱をして断崖絶壁から上半身を乗り出し、下を覗く「崖覗き」をする。「あれをやったら、どんな不良もおとなしくなったよ」と、父が言っていた。宮子も体験したかったが、残念ながら女人禁制なのだ。
──あの子も、当然やったんだろうな、崖覗き。
宮子の脳裏に、寛太の顔が浮かぶ。今は得度して「
「夜はやっぱり、怪談だな。百物語やろうぜ」
「うちのクラスは霊感少女柏木がいるからな。絶対出るぞ」
男子たちがげらげらと笑い出す。自分がネタに使われたことを不愉快に思いつつも、聞こえないふりをする。先生が止めてくれればいいのに。
「柏木って、やべえんだぜ。『その自転車、乗らない方がいいよ』って言われた奴がいたんだけどさ、無視してチャリ乗ってたら、事故っちまってさ」
「マジか! 予知能力者じゃん」
「いや、逆に、予知を成立させるために、柏木が事故に遭うよう仕向けてたりして」
「げー、怖えー!」
女子たちまでも、くすくすと笑い出す。確かに小学生のとき、自転車に黒い靄が巻き付いていたから、同級生に思わず忠告してしまったことがある。その子が事故で左手を骨折したために、噂が噂を呼び、宮子は怖れや興味本位といったゴシップの対象にされてしまった。
「柏木の家は神社だからな。神様がついてるんだぜ、きっと」
「いや、神様っていうより、霊に憑かれてるっぽいよな、あいつ」
「早死にの家系らしいぜ。小っちゃいころに母親死んでるし」
母のことまで面白半分に言われるのは我慢ならない。反論しようとした瞬間、菱田直美が割って入った。
「あんたたち、柏木さんに興味があるから、そうやってからかうんでしょ。ガキねぇ。そんなんじゃ、女の子のハートはつかめないよ」
けらけらと笑う直実に、男子たちがむきになって反論し始める。
「そんなんじゃねえよ」
「そうだよ、こいつ、幼稚園のときから変だったんだぜ」
「え、幼稚園のときから好きだったって? そりゃまた」
芝居がかった直実の口調に、女子たちが笑い始める。勢いをそがれたのか、男子たちが口ごもる。
不思議なもので、嫌がらせまがいのことを言われていたはずが、ぎこちなくも微笑ましい青春の一コマに変換されてしまった。
菱田直実は、いつもそうなのだ。女子同士で嫌味を言い合っているところに彼女が入ると、嫌味は「冗談」だったことになり、いつの間にか双方仲直りしていたりする。彼女のウィットに富んだ世渡り術を、宮子は尊敬している。
「おしゃべりはそこまで。班ごとに集まって班長決めて」
タイミング良く先生の声が飛んできた。みんな各自の班へと分かれる。宮子は菱田直実と同じ班だ。
「菱田さん、あの……ありがと」
小声で礼を言うと、彼女は口の端をあげて「いえいえ」と笑った。
宮子たち六班の班長は、直実に決まった。一日目の霊峰登山は男女別行動だが、二日目の渓谷散歩は男子と一緒だ。「お目当ての男子がいたら言っといて。近くを歩くから」と直実が茶化すと、他の女子たちがキャアキャアと喜んだ。
終令が鳴ってホームルームが終わる。先生が教室から出て行くと、みんなおしゃべりをしながら帰り支度を始めた。宮子はいつも、わざとゆっくり支度をしている。周りの子たちに「さようなら」とあいさつをしても、友達と話すのに夢中で無視されることが多いからだ。
「学生カバン潰してないのって、私と柏木さんくらいだよね」
いつの間にか、目の前に菱田直実が立っている。
「来週の登山合宿、よろしくね。私、一度柏木さんとじっくり話してみたかったんだ」
「え、そうなの?」
オカルトに興味があるからお近づきになりたい、ということなのだろうか。
「こないだ図書室で、『夏への扉』借りたでしょ」
宮子が「うん」とうなずくと、直実はさらに続けた。
「『火星年代記』とか借りてると思ったら、マンガ古典シリーズを読破してるし、漱石もお気に入りでしょ。あと、海外文学とか」
借りた本を言い当てられて戸惑っていると、彼女はいたずらっぽく笑った。
「私、図書委員だからさ。本当は他人の記録を見ちゃいけないんだけど、借りようと思う本を柏木さんに借りられてることが多いから、つい見ちゃった。ごめん」
「なんか恥ずかしいな。……あ、この間、休憩時間に『貧しき人びと』読んでたでしょ」
「あれ、泣けたよね。ラストの手紙、もう号泣よ。今はやりの恋愛映画より、こっちの方が絶対感動モノだよ」
読書談義は途切れることなく、見回りの先生から注意されるまで続いた。呼び名もいつの間にか、「柏木さん、菱木さん」から「宮ちゃん、直ちゃん」になった。友達を下の名前で呼ぶことに憧れていたので、なんだか嬉しい。
次の日も、その次の日も、二人は休憩時間や放課後を一緒に過ごした。帰る前に、どちらからともなく図書室へ寄り、借りた本を見せ合いながら帰る。
「ホントは直ちゃんお勧めの本を読みたかったけど、図書室にはなかったよ」
「『セメント樽の中の手紙』? えー、高校の教科書に載ってるってお父さんが言ってたから、メジャーだと思ったんだけど」
本をカバンに入れ、下駄箱で靴を履き替える。
「直ちゃんの趣味が渋すぎるんだよ」
「そうかなぁ。……うちに寄ってくれたら、貸すよ。短い話だから、すぐ読めるし。あれは、絶対読んで欲しいな」
夕食の支度があるので少しだけ、と宮子は直実の家に向かった。赤い屋根の小さな洋館の前で、直実が立ち止まる。「菱田」という表札が、縦書きではなく横書きなのが、恰好よく思えた。
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