第三部 すべてを賭けた呪、命がけの恋

第35話 進路と覚悟

 寛太の師僧・玄斎様が入院したと連絡を受けたのは、大学受験を目前に控えた高校三年生の一月だった。


「末期癌で、手遅れだそうだ。もう長くないから本人の望むように過ごさせてあげてください、と医者も言ったらしい」

 見舞いから帰ってきた父が、小さくため息をつく。

「目のあたりがくぼんで、かなりやつれてらっしゃった。秋口あたりから、御自分の病気のことは察してらしたんだろうな」

 晩ご飯を作っていた宮子は、思わず包丁を落としそうになった。

「そんなにお悪かったなんて……」


 玄斎様は宮子にとって師とも言える方だ。受験を言い訳にして法話会に顔を出していなかったことが、今更悔やまれる。

「宮子に『立派な神職になるよう、がんばりなさいよ』と伝えて欲しいとおっしゃっていた」


 最後にお会いしたのは秋の法話会だった。

 神主になって父の跡を継ぎます、と告げた宮子に玄斎様は、「覚悟はできましたかな」と真剣な顔で訊いた。宗教者になろうとする者への真摯なまなざしだった。

 寛太への当てつけや、自暴自棄な気持ちもまったくなかったとは言えない。しかし、自分が抱える命題を突き詰めるには宗教方面に進むのがいいと思ったのも本当だ。玄斎様の一言で、肝が据わった気がした。


「体は鍛えてやらなきゃ、なまってしまう。心も同じことじゃよ。心がなまっていると、悩みごとを正しく解決できない。自分や周りの人間が幸せに生きられるよう、普段から心を育てなされ」

 口癖のように言っていた、玄斎様の言葉を思い出す。


 心を育てていけば、たとえば自分の大事な人を殺した犯人に対する憎しみも、慈悲に変えることが可能なのだろうか。自分はそういった人の助けになれるだろうか。

 答えが知りたくて、宮子は玄斎様の法話会に通った。寛太に会うことはつらかったが、それよりも命題を解く糸口が欲しかった。いまだに、答えは出ていないけれど。


「お父さん。明日、私もお見舞いに行ってくる」

 これがお会いできる最後の機会かもしれない。

「そうだな。明日は日曜日だから、鈴子も連れて行ってきなさい。仁斎さんと寛斎君が、交替で看護をしている」

 父が肩を落として台所を出て行く。さすがに気落ちしているのだろう。父方の祖父が亡くなり、若くして三諸教本院を継ぐ重責に悩んでいたころ、玄斎様に力になってもらったと聞いている。


「お姉ちゃん、風呂掃除とアイロンがけ、終わったよ。後は私が作るから、受験生様は勉強、勉強」

 鈴子がやってきて隣に立ち、軽く肩を当てるようにして宮子を追い払う仕草をする。

「いいよ、合格圏内だから大丈夫。それより、明日、玄斎様のお見舞いに行くんだけど」

 二人で野菜を剥きながら、明日の予定を相談する。

「お見舞いの品は何にしよう。……羊羹とおしるこがいいかな。玄斎様、甘いものがお好きだし」

 もう長くないのなら、好きなものを召し上がって欲しい。煉り羊羹を食べながら顔をほころばせていた玄斎様を思い出し、切ない気分になる。

 宮子が鍋を火にかける横で、鈴子が白和えの豆腐を潰し始める。

「そうだね。羊羹なら寛斎兄ちゃんも好きだから、余っても大丈夫だし、いいんじゃない?」

「じゃあ、明日の朝、天平庵で買ってくるわ」


 鍋の様子を見ていると、隣で鈴子が笑った。

「お姉ちゃん、玄斎様や寛斎兄ちゃんにお出しするお菓子は、いっつも天平庵へ買いに行くよね。自転車だと危ない国道沿いの店なのに、片道二十分もかけて」

 気づかれていたことに恥ずかしさを感じつつも、平静を装う。

「せっかくだからおいしい方がいいじゃん。食べ物は大事なんだよ。その人の体の一部になるんだから」


 玄斎様も寛太も、食べ物の好き嫌いを口にしない。施していただくものにあれこれ言ってはいけない、という戒があるからだ。

 が、昔一度だけ、寛太が言ったことがある。「修行を始めてから、羊羹が好きになった。小豆の味がちゃんとするやつがいい」と。

「そういや、寛斎兄ちゃん、どうしてるんだろうね」

 茹でたほうれん草を豆腐と混ぜながら、鈴子が言う。


 七年という歳月を、寛太はあの庵で師僧と共に過ごした。

 山駆け修行をし、毎日の勤行や瞑想で、余計なことを考える間もないほど、時間と心を埋めてきた。それでも時々、鈴子に借りたマンガを読んだり、友達の家でアニメを観たりもしていたようだ。玄斎様の内弟子となったことで精神的に安定し、母親の死を受け止めることができたかに見えた。


 だが、それは四年前の清僧宣言で吹き飛んでしまった。学校に通っているし、女性に触れずに過ごすのは物理的に無理だ、ほとぼりが冷めれば諦めるだろう、と思っていたのに、彼はまだ戒を保っている。

 本人は、「自身の心理的負担を軽くするため無意識に、無期懲役刑を是とした自分が赦せなくて」女人に触れない戒を課したと言っているが、本当にそれだけだろうか。


 宮子の頭を、小学六年生のときの光景がよぎる。

 白衣姿の寛太が、沙耶と対峙している。後ろ姿だから表情が見えないことが、妙に不安を募らせる。


「俺にも、呪い殺したい奴がいてな」


 宮子の心配は、今のところ取り越し苦労に終わっている。寛太は奥駆けや滝行など、肉体的にきつい修行を好んで行うようになったが、宮子と会うときは以前と変わらず淡々として、ときには冗談すら言った。しかしそれは、玄斎様がそばで彼を導いていたからだ。彼はまだ、清僧でいると言い張っている。


 もし、女人に触れない戒が、敵を呪う調伏法の願掛けだとしたら。この状態で、玄斎様という支えがなくなってしまったら……。


「お姉ちゃん、鍋、噴いてるよ」

 鈴子の声に我に返る。慌てて鍋を持ちあげ、ガスの火を止める。


「本当に、彼、どうしてるんだろうね」

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