第36話 託されたこと

 翌日、お見舞いの羊羹とおしるこを持って、宮子と鈴子は玄斎様の見舞いへ行った。電車で一時間半揺られて終点吉野駅で下車し、病院へと向かう。気温の低いこの地では、雪が積もっていた。

 四人部屋のいちばん奥で、玄斎様はベッドを起こし、目を閉じて座っていた。付き添っていた寛太が宮子たちに気づき、立ち上がって会釈をした。


「老師、柏木管長の娘さんが来られました」

 寛太が椅子を二つ持ってきて、ベッドの足元に並べる。宮子は「お見舞いの羊羹です」と言って椅子の上に紙袋を置いた。女人に触れない戒を保っている彼のために、いったん後ろに下がる。寛太が礼を言って紙袋を受け取り、玄斎様の耳元で「羊羹をいただきました」と言う。


 玄斎様がゆっくりと目を開ける。

「おお、宮子君に鈴子君か。わざわざ来てくれてありがとう」

 声には張りがなく、唇もかさかさしてひび割れ、目が落ちくぼんでいる。それでも、玄斎様の笑みはいつものように穏やかだった。

 何と声をかけていいかわからず、立ちつくす。自分の感情を顔に出さないのが精一杯だった。

「なに、儂の心配はいらんよ。今もな、痛みを観る瞑想をしておったんじゃよ。病気はただの病気であって、不幸ではない。人には定命がある。それが来ただけのこと」


 今まで「心を育てなさい」と言われ続けていたのに、こんなときにどうすればいいかすらわからない自分の未熟さを恥じながら、宮子は一礼した。鈴子も、さすがに黙っている。

「寛斎、売店で飲み物でも買ってきて、お出ししなさい」

 お構いなく、と言ったが、寛太は一礼して部屋を出て行った。


「まあ、二人ともお座りなさいよ。儂はもう妻帯しておらんが、清僧にはこだわらんから、もっと近くにおいで。あまり大きい声が出せなくなってのう」

 宮子が枕元まで椅子を移動させると、玄斎様がこちらを凝視した。眼光は衰えていない。

「儂はもう、長くない。節分は迎えられんじゃろう。それは定めとして受け入れておる。死ぬのが不幸だと思うのは、傲慢というものじゃよ。人はみんな死ぬのだから、自分だけが特別だと思ってはいかん。だが」

 玄斎様が言葉を切る。


「ひとつ心残りがある。……寛斎のことじゃ」


 隣の鈴子の表情を確認し、宮子は玄斎様を見つめ直した。

「あれは、子どものころに母親を殺され、心がずたずたになってしもうた。何とかしたい一心で、儂は寛斎を内弟子として引き取り、知っていることはすべて教えてきた。あれも真剣に修行をして、それに応えてくれた」

 玄斎様が、上半身をベッドから浮かせ、宮子の方を向く。

「じゃが、今少し時間が足りんかった。儂が死んだら、寛斎は父親の元に帰すつもりで、何日か帰省させた。しかし、父親が抱え続けてきた心の闇に気づいて、寛斎はかなり動揺しておる。もう少し、あれの心が育った後なら良かったのじゃが……」


 玄斎様が、右手を宮子の方に伸ばす。骨や血管が浮かび上がり、斑点が出ている。

「宮子君、寛斎が道を踏み外さんよう、見守ってやってくれんか。あれは、一人にしてはいかん。幸い、君たち姉妹には、心を開いておるようじゃから、どうか……」

 宮子は玄斎様の手を両手で握った。乾燥した冷たい手に触れた瞬間、その命が本当に長くないことを悟った。込み上げる涙をこらえながら、「はい、確かに」と頭を垂れて繰り返した。


 鈴子が脇腹をたたいてくる。寛太が戻ってきたのだろう。宮子は玄斎様の手をベッドに置き、姿勢を正した。

 缶飲料を持った寛太に続いて、兄弟子の仁斎が入って来る。

「おや、宮子ちゃんに鈴子ちゃん。お見舞い、ありがとう」

 宮子と鈴子は立ち上がって、あいさつを返した。

「寛斎、今日はもう仁斎と交替して、帰りなさい。お二人を駅までお送りして」


 遠慮しようとしたが、先ほどの玄斎様の言葉を思い出し、宮子はわざと黙った。寛太が「はい」と返事をして、仁斎に申し送りをする。

 玄斎様が、再び宮子の方を向く。

「宮子君、立派な神職になりなさいよ。神様と人との仲立ちをするのはもちろん、誰かの助けとなれるように」

 誓いを立てるつもりで、宮子は「はい」とうなずいた。


「鈴子君はまだ若いから、この先何にでもなれる。できる限り多くのことを見聞きして、将来を決めなされ。君の明るさは、周りを和ませる。お父さんやお姉ちゃんと仲良くな」

 鈴子も真面目な顔で「はい」と答えている。これが最後の言葉になるのだろうと思うと、涙が込み上げてきて唇が震える。

 缶飲料と鞄を持った寛太が、師僧に一礼した。

「では、失礼して、二人を送ってきます。また明日来ますので」

 出口へ進んだところで、促すように宮子たちを見る。宮子と鈴子も立ち上がってあいさつをする。いつもの笑みを浮かべ、玄斎様が小さく手を振った。


 寛太の後について病室を出る。いちばんつらいのは彼なのだから、自分が泣いてはいけないと、必死で涙を止める。鈴子も同じ思いなのだろう、唇をぎゅっと結んでいる。

 エレベーター前で立ち止まると、寛太が缶飲料を持ちあげて「せっかくだから持って帰れよ」と言う。

「じゃあ、飲みながら少し話さない?」

 半ば強引に、ロビー横の談話スペースに向かう。四人がけの机の一端に、宮子と鈴子は座った。もう一本缶コーヒーを買ってきた寛太が、向かいに座る。机の幅があるので、距離は十分に保てる。

「鈴子ちゃんはコーヒー苦手だから、ミルクティーな。お前はコーヒーいけるだろ」

 寛太が、鈴子にミルクティー、宮子に買ってきたばかりの方のコーヒーの缶を、机に置いて手で押しながら差し出した。鈴子は礼を言って早速口をつけたが、宮子は缶を両手で包みこみ、その温かさを確かめながら口を開いた。


「玄斎様……かなりお悪かったのね。秋口に調子が悪そうだったけど、ここまでなんて」

 寛太がコーヒーを一口のみ、表情を変えずに言う。

「ご自分の病状はよくわかってらっしゃったんだろう。今回の入院も、周りがさんざん言ってやっとだからな。秋にはもう、ご自分の死後のことまで指図されていたよ」

 宮子は顔をあげて、先をうながした。


「『庵は仁斎に任せる。寛斎は実父の元に帰って、里の修行をするように』ってな」

「寛斎兄ちゃん、還俗しちゃうの?」

 鈴子が口をはさむ。

「うーん、還俗とはちょっと違うかな。もともと修験者は、半僧半俗だからね。会社勤めや家族との生活、つまり里の修行をしつつ、休日は僧として修行にいそしむのが多い。一番弟子の仁斎さんもそうだしね」

「じゃあ、清僧はやめるんだ」

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