第37話 父親が抱えていた闇
清僧はやめるんだ。
その質問に、寛太の動きが一瞬止まった。が、すぐにまたポーカーフェイスで話し始める。
「老師からも、里に下りたら戒を解くよう勧められたけど、いったん始めたことは貫きたい。働いたり電車に乗ったりしたら、女性に触れずに過ごすのは難しいから、困ったもんだが。吉野は人が少ないし、修験道に理解があるから、恵まれてたよ。学校でも、男友達が常に俺の周りをガードしてくれてたからな」
タイなどの仏教国では、比丘が誤って女人に接触しないよう、乗り物の中では男性客が周りを取り囲んで守ると聞く。寛太もそこまでされていたことに、複雑な気分になる。
「清僧じゃなくても、自分を律していれば修行的には変わらないんじゃないの? なんか、女がバイキンみたいで悲しいじゃん」
寛太が乾いた笑い声をあげる。
「鈴子ちゃんは鋭いな。……でも、巫女さんだって、独身だろう? 昔の斎王は、男性と会うことすら禁じられていたし。それと似たようなものさ」
まだ何か言おうとしている鈴子をさえぎるように、寛太がこちらに話を振る。
「大学、神道学科を受験するんだってな。三諸教本院を継ぐ覚悟を決めたのか」
「うん。本当に継ぐかどうかはともかく、神職にはなりたいと思って」
こちらを見る寛太の切れ長の目に、射すくめられたように感じる。宮子は居心地の悪さを振り切るように訊ね返した。
「そっちはどうなの。大学とか修行機関に入るの?」
寛太が視線を落とす。
「総本山の修行学林に入りたいのはやまやまなんだが、無理かもしれない。……ま、親父のとこに帰ってから、身の振り方を考えるさ。それよりお前、もうすぐ受験だろう。気を抜くなよ」
からかうように言う寛太に、宮子も「大丈夫よ」と笑った。
鈴子が時計を見て急に立ち上がり、コートを着始めた。
「私、晩御飯の用意があるから、先に帰るね。今から走れば、電車間に合うはずだし。お姉ちゃんは、もう一本後の電車でゆっくり帰ってきて。寛斎兄ちゃん、きちんと食べて寝なきゃだめだよ」
宮子が何か言うより先に、鈴子は玄関へと走り出していた。何か変な気を回しているのが丸わかりだ。
肌の色が濃いから分かりにくいが、寛太の目には隈ができている。眠れないのか、夜中に病気平癒の加持をしているのか。
「お父さん、大阪だっけ。吉野から遠くなっちゃうね」
「ああ。でも、単身用のワンルームに住んでるから、同居するならもう少し広いところに引っ越そうってことになってる。あれじゃ、寝る場所すらない」
玄斎様が、先月寛斎を帰省させた、と言っていたことを思い出す。
「お父さんのところ、行って来たんだ」
寛太の動きが止まった。こちらをじっと見つめる目が、何か言いたそうにしている。
「お父さん、どうしてらっしゃるの」
寛太は両手の拳を握ったまま、ぽつりと言った。
「どうもこうも。……もっと早く、里の修行に戻るべきだったかもしれない」
とにかく吐き出させようと、次の言葉をじっと待つ。
「親父とは、年に数回しか会わなかったんだ。仕送りの礼を言ったり、近況報告をしたり。でも、そのときは俺のことを気遣うばかりで、自分のことは話さなかった。変わった様子もなかった」
寛太が堰を切ったように話し始める。
父親のアパートを訪れると、六畳の部屋は段ボール箱に埋もれており、中身はほとんど死んだ母の遺品だったこと。冷蔵庫には酒しか入っておらず、ろくに食べていない様子だったこと。机の引き出しに、心療内科の薬袋が入っていたこと。
「お前も『見える』からわかるだろう。よくない状態の人間には、黒い靄みたいなものがまとわりついていることを。……でも、俺は見えなかった。親父のことだけは、見えてなかったんだ」
寛太の言葉が、重い潮流のようになって宮子に打ち寄せる。宮子の脳裏に、そのときの寛太の様子がはっきりと浮かんだ。
湿った段ボールに囲まれた狭い場所で、彼は懐中電灯を持ち、机の引き出しを探っている。布団にくるまった父親が、苦しそうな寝息を立てる。
まず出てきたのは、大量の薬だ。
次に、透明な袋に入ったレシートや、黄ばんだ藁半紙に印刷された町内会のお知らせ。明かりを近づけてレシートを見る。かすれているが、かろうじて字は読める。寛太の母親が亡くなった日のものだ。廃品回収のお知らせと題した紙も、事件当時の回覧板だろう。寛太の指が、袋越しにレシートを撫でる。
次の引き出しからは、手帳やノートが何冊も出てきた。スクラップブックには、事件の記事が貼ってある。犯人の顔を、ボールペンで執拗に塗りつぶしたものもあった。
寛太はそれを途中で閉じ、しばらくして意を決したように、事件が起こった年の手帳を開く。
事件からしばらくは、手帳は真っ白なまま何も書かれていない。日数が経つと、書きなぐるような字でぽつりぽつりと言葉が記されていた。「くやしい」「なぜだ」「犯人は死んで償え」さらに時が進むと、「この家に越してこなければ、佳美は死なずにすんだ」「佳美を守れなかった自分に、生きる資格なんかない」といった自責の念が、弱々しい文字で綴られるようになった。
手帳には、客観的な状況が書かれ始めた。マスコミにさらされて寛太が学校にも行けないこと、近所の人の好奇の目、会社で「いつまでも落ち込んでやりづらい」と言われたので気丈にふるまうと「奥さんがあんな死に方をしたのに冷たい人」と蔑まれたこと。
犯人が逮捕されると、当然怒りの矛先はそこへ向かうはずだった。しかし手帳には、寛太のことが多く書かれていた。「また留置所の周りをうろついて保護される。カッターと彫刻刀を持っていた」「夜中に急に叫んだり、自分の腕を刃物で切ったりする」「この子まで破滅させるわけにはいかない」
手帳をめくる寛太の指先が震えている。「玄斎様から、寛太を内弟子として引き取りたいと申し出がある。佳美が導いてくれているのか」「まだ迷っている。一人ではとても生きていけない。しかし、寛太だけは立ち直らせたい」
手帳を閉じて、寛太が父親を振り返る。今なら彼にもはっきりと見える。暗闇とは異質な、べったりとした黒いものが、父親の全身に巻きついているのを。
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