第46話 あったかもしれない人生

 目の前に、大きな川が広がっている。これが世に聞く三途の川か、と思ったが、鉄筋の大きな橋が架かっているし、向こう岸には山や民家が見える。これは、吉野川の河原だ。


「宮子、あんまり川に近づくなよ」

 父の声がする。振り向くと、河原の少し離れたところに、レジャーシートに座った父が手を振っている。隣には、死んだはずの母が幼い鈴子に膝枕をして、微笑んでいた。

 自分の手を見る。まだ小さく、大人になっていない手だ。

 水鏡で姿を確認しようと、川面に近づく。かがみこんで水面を見ると、小学校高学年くらいの幼い自分が映っていた。


 その顔が急に揺らめき、さざ波に変わる。水面が盛り上がり、細い管のように上へと伸びていく。

 それは鎌首をもたげた蛇の形となり、目を光らせてこちらを見た。逃げようとした瞬間、蛇が跳びかかってきた。


 悲鳴をあげ、頭を手で覆って伏せる。が、何も起こらない。

 誰かの気配を感じて見上げると、少年が透明な蛇を手づかみにしていた。

 小学生のときの寛太だ。髪は五分刈りより長く、前髪が額の真ん中あたりでざん切りになっている。服も、藍色のチェックのシャツにカーゴパンツと、普通の格好だ。


 寛太が、蛇を川の中央に向かって放り投げる。音もなく水面に同化した蛇が、しばらくしてもう一度鎌首を形作る。寛太がぎろりと睨むと、蛇は再び水となって消えた。

「水妖だ。この辺は、ああいうのが多いからな」

 怖い顔をしていた寛太が、急に笑顔になり、宮子の横にしゃがみこんだ。

「お前もあれが見えるのか。俺と一緒だな。歳の近い奴では、初めてだよ」

 笑うと目が線のように細くなり、目尻に少し皺ができる。本来はこういう笑い方をする子だったのだと思うと、胸が苦しくなる。


「俺、須藤寛太。六年生だ。君は?」

「柏木宮子。私も六年生」

「同い年か。よろしくな」

 夢の中の寛太は、よくしゃべった。小さいころからあやかしが見えるので、母の実家近くにある玄斎様の庵に出入りしていること、本当は大阪に家を買って引っ越すはずだったが、どうしても嫌だとごねて、奈良県内に留まったこと。


「絶対、よくないと思ったんだ。俺の勘は当たるんだぜ」

 自慢げに言う寛太は、心底嬉しそうだ。そうだね、と宮子は複雑な思いで相槌を打った。

 彼は、質問もよくした。どこに住んでいるのか、吉野にはよく来るのか、ことで苦労していないか。

「見たくないものを見たり、周りに変人扱いされたりして、つらいだろ。君も、玄斎様のところに来いよ」


 足音に振り向くと、寛太と同じく色黒の女性が近づいてきた。ウェーブのかかった髪と、大きな瞳がよく合っている。

「あらあら、寛太。かわいい子をナンパしてるのね」

 女性がからかうと、彼は「オカンはあっち行っててくれよ」と照れくさそうに言った。

「そろそろ帰ろうと思ったけど、もうちょっといるわね」

 寛太の母が去っていく。缶ジュースを抱えた寛太の父が、向こうから歩いてくる。寛太の母がジュースを一本取り、寛太の方を見て何かを話している。寛太の父がこちらに向かって手を振る。痩せてはいるが、血色のいい顔だ。寛太が「早くあっちに行けよ」という風に手で払う仕草をすると、夫婦は笑いながら去っていった。


「なあ、今度いつ吉野に来るんだ? 俺さ、来月の祭で行列に参加するんだ。君のこと見つけたら、手を振るからさ」

 じゃあ来月の祭のときに、と言うと、寛太は「約束だからな」と念押しして、両親の元に走っていった。

 自分も死んだ母と話をしたくて振り向いたが、レジャーシートに座っていたはずの母も父も鈴子も、いつの間にか消えていた。


 かわりに、山伏装束や古代装束を着た人たちやお稚児さんの行列が、宮子の前を横切る。

 その中に、寛太がいる。青い狩衣かりぎぬを着た彼を目で追っていると、向こうも宮子に気づき、目を細めて笑いながら手を振ってくれた。


 場面は次々と変わり、時間が過ぎていく。宮子はよくあやかしにからかわれ、そのたびに寛太に助けられた。「しょうがない奴だな」と言いつつも、彼はどこか嬉しそうだった。

 思春期になると、さすがに距離を置かれるかと思ったが、彼は変わらず「ちょっと調子のいい明るい男の子」でい続けた。


 高校受験の合格発表の日、宮子は直実と抱き合って、互いの合格を喜んでいた。後ろから声をかけられて振り向くと、寛太が手に持った受験票を得意げに見せた。

「俺もこの高校、合格したぞ。落ちたらカッコ悪いから言わなかったけどさ。死ぬほど勉強したんだぜ」


 学ランを着た寛太と机を並べ、高校生活が始まった。

 登校すると彼は決まって「柏木ィ、今日のリーダーの予習、写させてくれよ」「数学の宿題、わかんなかったから教えてくれよ」と声をかけてきた。毎日言うものだから、直実から「宮ちゃん、婿殿が呼んでるよ」とからかわれた。

 ワンダーフォーゲル部に入った彼は、毎日ザックを背負って校舎の階段を上り下りしていた。食べ物は肉が好きらしく、「オカンの特製ハンバーグが食いたい」とよく言っていた。羊羹などの甘いものは苦手のようだった。


 どこにでもいる普通の男の子として寛太は生き直し、とうとう実年齢に追いついた。

 卒業式の日、宮子は寛太と二人で教室にいた。前の席に座る寛太が宮子の机に肘をつき、覗き込むように見上げてくる。伸びた前髪が眉にかかっている。

「柏木ィ。お前、寮に入るんだってな。もう玄斎様の庵にも来られないのかよ」

 門限までに帰ればいいから、少しだけでも瞑想会に顔を出すと答えると、寛太が目を細めて笑った。

「よかった。俺は京都の大学だから、そういう機会がないと会えないもんな」


 寛太が上半身を起こし、真顔になって宮子に向き直る。

「なあ、柏木。……これからは、名前で呼んでいいか?」

 視線が絡み合う。心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうなくらい高鳴る。「うん」と消え入りそうな声でうなずくと、寛太が照れくさそうに頭を掻いた。

「じゃあ、早速。……宮子」

「うん」

「宮子」

「何よ」

「呼んでみたかっただけだ」

 照れを隠すように、二人で笑う。


「俺のことも、名前で呼んでくれよ」

 寛太が、眉をあげて目で促す。

 いつだって名前で呼びたかった。ようやくそれが許される距離に招き入れてもらえるのだと思うと、胸が締め付けられて涙が出そうになる。宮子は万感の想いを込めて、口を開いた。

「じゃあ。……寛斎さん」


 寛太が目を見開き、動きを止めた。眉根を寄せ、鋭い三白眼に戻ってこちらを見ている。

「……なんだよ、その名前。俺はそんな名前じゃない」

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