第45話 昏睡

「気がついたか」

 声の方に振り向くと、父が隣に座って、こちらを見ている。間仕切りのカーテンや消毒薬のにおいで、自分が病院のベッドに寝ているのだと分かる。宮子は弾かれたように起き上がった。

「寛太君……じゃなくて、寛斎さんは?」

 法名を「君」づけで呼ぶのは気が引けて、言い直す。急に起き上がったので、軽いめまいがした。


 あれが悪い夢ならいいのにと、自分の頭に手をやる。しかし、指先に触れるのは、焦げ縮れた短い髪だった。思わず呼吸が止まる。

 促すように父の目を見つめ、宮子は返事を待った。父が、小さなため息をつく。

「手術は成功したよ。出血性胃潰瘍だそうだ。まだ眠っている」


 無事だと聞いて、宮子は上半身を折って布団に顔をうずめた。目をぎゅっと閉じ、泣き笑いの表情になる。

「よかった」とつぶやきながら顔をあげた宮子を、父が険しい顔で見ている。

「なぜ、私に相談しなかった」

 今まで聞いたことのない、厳しい口調だった。息が詰まり、言葉が出なくなる。


「庵へ行って、後片付けをしてきた。仁斎さんや他の人には言わない。一生お父さんの胸にしまっておこう」

 護摩壇や三角の炉、調伏ちょうぶくの祈願文が書かれた護摩木、犯人の氏名と生年月日が書かれた人形ひとがた

 父には知られたくなかった。胃を握られたような痛みが走る。

「天部のような異国の神には、神道のはらえが効果的なんだ。先に私に言っていれば、もう少しましな解決法があったものを」


 宮子は消え入りそうな声で詫びた。

「ごめんなさい。気が動転して、とにかく早く止めに行かなきゃって思って……」

「宮子はいつもそうだ。何でも一人で抱え込んで、一人で解決しようとする。もっと周りを信頼しなさい。寛斎君のことは、小さいころから知っている。私だって、気にかけているし、力になりたいと思ってるんだ」


 父は右手で目を覆い、うなだれた。

「無事でよかった。宮子まで失うことになったら、私は……」

 父が声を詰まらせる。改めて見た父の頭は、いつの間にか黒髪より白髪の方が多くなっていた。まだ四十代なのに、急に年老いたように見える。肩幅も、記憶していたよりも狭い。

 小さいころは、背が高く姿勢のいい父を、いつも見上げていた。そびえる大木のように、揺るぎない頼れるものと思っていた。弱々しい父を目の当たりにして、自分の行動がどれほど親を心配させたかを思い知る。


「お父さん、ごめんなさい」

 こらえきれず、宮子は落涙した。父の前で泣くのは、母が死んで以来だった。もしも行法を止めるのに失敗して、二人とも炎に呑まれてしまっていたら。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と一つ覚えのように繰り返し、顔を覆う。

「済んだことは仕方ない。頼むから、何かあったら相談してくれ」

 父の声が静かに響く。「はい」としか言えず、宮子は頭を下げた。


 足音がして、カーテンから祖母が顔を覗かせた。

「宮ちゃん! ああ、よかった」

 祖母が駆け寄ってきて、宮子の背中をさする。

「おばあちゃん、ごめんなさい」

 止まりかけていた涙がまた溢れだす。祖母の手が、やさしく頭を撫でる。

「女の子なのに、こんな髪になっちゃって。……ほら、帽子買ってきたから、かぶっときなさい」

 フリース生地の帽子をかぶせてくれる。スースーして落ち着かなかった頭が、温かくなる。涙を拭きながら礼を言い、宮子は帽子を耳の下まで引っ張って、そのぬくもりを噛みしめた。


「あの行者の男の子は、まだ寝ていたよ。穏やかな顔してたわ」

 寛太の無事を聞き、心底ほっとする。

 すぐにでも様子を見に行きたいが、異常がないか問診を受けるため、足止めをされた。着ていた服は寛太の血と焼け焦げでぼろぼろだったので、祖母が持ってきてくれたジャンパーを羽織って、病室を出る。

 結局、診断は「一過性のストレスで異常はない」とのことだった。頭のCTを撮ったので結構な金額を請求され、宮子はさらに申し訳なさを募らせた。


 やっとのことで寛太がいる病室に向かったときは、もう昼を過ぎていた。救急用の個室なので、他に入院患者はいない。彼の父親にも連絡は行っているが、中国に出張中のため、到着は明日の朝以降になるらしい。

 アイボリーのカーテンを通すやわらかな太陽光の中で、寛太は眠っていた。輸血と点滴の管がつながれている左腕の内側が、紫色に腫れあがっているのが痛々しい。小学生のときに見た、自分で切りつけた古傷が白く盛り上がり、消えることなく残っていた。


 看護師に状態を訊きに行った父が、戻ってくる。

「もうとっくに麻酔は切れているんだが、まだ目が覚めないそうだ。感受性の強い人には、稀にあるそうだが」

 たぶん、目覚めたくないのだ。

 彼の寝顔は、口元が笑っているようにすら見える。幸せな夢を見ているのだろうか。無理にでもこの世に引きとめたのは、間違いだったのだろうか。


 そろそろ帰ろうと促す父に、宮子は目が覚めるまで付き添うと言い張った。反対されたが、祖母が「私も一緒に付いてますから」と助け船を出してくれた。

 神社を長く留守にはできないため、宮子が置き去りにしていた車でしぶしぶ帰る父を、宮子は申し訳ない気持ちで見送った。祖母が、宮子の背中をぽんと叩く。

「なに、気にしなくてもいいよ。『子ども叱るな、いつか来た道』ってね」


 祖母と一緒に、寛太を見守る。しばらくすると、兄弟子の仁斎が、着替えや洗面道具、水差しなど、入院に必要なものを持って様子を見に来た。

「老師が亡くなられる前から、様子がおかしかったからな。一人で溜めこむタイプだし、もっとこっちが気を配っていれば。庵を出なければいけないことも負担だったんだろう。気の毒なことをした」

 眠り続ける寛太を覗き込み、仁斎が言う。自分が付き添いをすると申し出られたが、宮子は「お仕事もおありでしょうし、自分が看ますので」とやんわり断った。

「では、お任せしようかな。私は帰って、病気平癒の加持を修するよ。……寛斎の目を覚ましてやっておくれ」

 荷物を置いて帰る仁斎を、祖母と共に見送る。窓の外はすでに夕陽がさしている。


「じゃあ、おばあちゃんは明日の朝来るから」

 付き添いの手続きを取り、夜食や飲み物を差し入れて、祖母も帰っていった。宮子は寛太のそばに座り、小さな声で大祓詞おおはらえのことばを唱えた。

 看護師が脈などをチェックしに何度か来たが、寛太が目覚める様子はなかった。付き添い用の簡易ベッドを受け取りに行き、組み立てる。

 消灯時間には少し早いが、宮子は電気を消し、ギイギイと鳴るベッドに正座した。


 寛太の右手を布団から出し、両手でしっかりと握る。乾燥した力ない手に、自分の体温を移していく。宮子は頭の中に白い光の玉をイメージし、手を通して寛太の中へと入り込ませた。

 やわらかな闇の中に光が落ちるのと同時に、宮子は深い眠りについた。

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