第47話 あなたが誰であっても
寛太が立ち上がり、頭を抱える。
「俺は寛太だ。そんな名前は知らない」
教室の窓が、一斉にガタガタと鳴る。
「どこで間違えたんだ。こんなはずじゃなかったのに」
地鳴りがしたかと思うと、床が激しく揺れ始めた。机や椅子が動き回る。ぴしぴしと音がして、教室の四方の壁に亀裂が入り始めた。
「嫌だ、帰りたくない! あっちが夢なんだ。ここにいさせてくれ」
窓ガラスが激しい音を立てて割れ、次いで黒板や木の壁も、破片となって剥落した。落ちた部分には、底なしの闇が広がっている。
世界が壊れていく。
宮子は立ち上がって、寛太の両肩をつかんだ。
「あなたが寛太君でも、寛斎さんでも、誰であっても、そばにいるから。……それしかできないけど、そばにいるから」
寛太が怯えた目で見つめてくる。その顔が歪んだかと思うと、彼は膝を折って崩れ落ち、叫び声をあげた。背筋がぞくりとするような、哀しい咆哮だった。
その声に呼応するように壁がすべて崩れ落ち、天井も消え去る。床が端から順に、砂時計の砂が落ちるように闇の中へ吸い込まれていく。机や椅子が、音もなく視界から消える。
宮子はかがみこんで、寛太を抱きしめた。彼までも消えてしまわないように。
肩越しに、彼が泣いている。七年間、ずっと吐き出せずに溜まっていた涙が流れていく。泣きながら、彼が宮子に抱きすがる。加減を忘れた腕の力の強さに、息が詰まり骨が折れそうになる。それでも宮子は、必死で彼を受け止め続けた。
床の感触がなくなり、二人は虚空に放り出された。
はぐれないよう、しっかりと寛太を抱きしめる。上下感覚がなく、落ちているのか、昇っているのかもわからない。ただゆっくりと、闇の中を漂い続ける。
泣き疲れた寛太が、腕の力を緩める。宮子はその肩をやさしく撫で、白い光の粒を散りばめて闇を照らした。
出会ったころ、去っていく寛太の後ろ姿を見送りながら、願ったことを思い出す。光の方へ迷わず進みますように、と。
──光を。もっと光を。
闇をすべて照らすには、光はあまりに微弱で、足りそうもなかった。自分の無力さに歯噛みしながら、宮子は力なく垂れさがった寛太の手を握った。
「……あたたかいな」
寛太がつぶやく。
「生きてるからね」
宮子が答えると、寛太はため息をついた。
「そうだな」
握った手の血管が、わずかに脈打つのを感じる。寛太が宮子の手を握り返し、小さな声で言った。
「……生きなきゃな」
小さな光の粒が集まって膨張し、闇を消し去る。二人は光の中に溶けていった。
目が覚めると、宮子は彼の手を握ったまま、ベッドにもたれかかっていた。朝日が彼の顔を照らす。見開かれたその目に涙が一筋、すばやく流れて枕に消えた。
彼がゆっくりとこちらを向き、口を開く。
「……宮子」
宮子は泣きながら微笑んだ。
「お帰りなさい、寛斎さん」
寛斎の回復は早かった。
手術の翌朝、彼の父親が病院に到着した。駆け寄る父親に、寛斎は心配をかけたことを詫びた後、「パジャマの下はおむつなんだぜ。みっともないだろ」と冗談を言って笑わせようとしていた。
二日目には車椅子ではなく自分で歩けるようになり、病院内を歩き始めた。大量に出血したので数ヶ月は貧血が続くと言われたが、そんな様子は微塵もなかった。
緊急患者用個室から大部屋に移動となり、付き添いも不要となった。洗濯も「これも修行だ」と言い張り、自分でする。同室の患者たちの苦労話や悩みをじっくりと聞いて寄りそう姿は、玄斎様を思わせた。
手術から七日目に、寛斎は退院した。
宮子は快気祝いとして、麻紐を通した翡翠の勾玉をプレゼントした。勾玉は、鉤の部分が魂をつなぎとめる役割をすると言われている。彼の魂がどこかに行ってしまわないように、そんな思いで買った退院祝だ。
「翡翠も麻も、魔除けに効果があるんだって」
宮子が言うと、寛斎は麻紐を首に通し、勾玉を指先で撫でた。
「ありがとう。大事にする」
そう言った後、彼は「もう危ないことはしないから、心配するな」と付け足した。
寛斎は父親に付き添われて、仁斎や兄弟子のところへあいさつ回りに行った。終わり次第、吉野を離れて新しい生活を始める。玄斎様の知人の寺で用務員をしながら、通信大学で勉強をするそうだ。親子の背中を見送り、宮子は家路についた。
三日後、宮子は直実と共に本屋巡りをした。本当はもっと早く、お互いの合格祝いとして遊びに行きたかったが、寛斎のことがあったため、延び延びになっていたのだ。事の次第は伝えていたが、直実は帽子で隠した宮子の髪を見て絶句した。
「そこまでするなんて、宮ちゃん、よっぽどあの子のことが好きなのね。ちょっと羨ましいかも」
現実主義の直実には、「護摩壇の火が燃え移ってしまった」とだけ説明してある。行を止めた代償に取られたと言っても、絶対に信じないだろう。けれども、それでいい、と宮子は思っている。
三つの大型書店と古本屋街を回った後、二人はカフェでお茶を飲んだ。お互いの戦利品を自慢し合い、時間を惜しむようにおしゃべりに興じる。
明日にはもう、宮子は寮に入るため奈良を発つのだ。
「宮ちゃんが行く大学って、右っぽいんでしょ。あんまり感化されちゃだめよ」
直実の言葉に、宮子も反論する。
「直ちゃんが行く大学は、左寄りだよね。革命とかしないでよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「道の右端と左端にいても、お互いに手を伸ばし合えば、真ん中で握手できるのよ。……私、今、いいこと言った?」
「直ちゃん、その台詞、クサイって」
自分の主張を気兼ねなく言え、たとえ考え方が合わなくても親友でいられる。直実がいてくれてよかった、と宮子は思う。これから先、自分と違う考えを持つ人たちとどう接すればいいか、少しだけ分かった気がする。
あまり名残を惜しむと疎遠になってしまう気がして、宮子は「じゃあ、またね」と言って直実と別れた。
帰宅して、家族で夕食をとる。三人ともわざといつも通りにふるまった。しんみりしたら泣きそうになるので、宮子にはそれがありがたかった。
風呂に入って居間を覗くと、父が日本酒を飲んでいた。
「珍しいね、お父さんがお酒飲むなんて」
宮子は机をはさんで隣に座った。
「町おこしの一環で作った地酒をいただいたんでな。味見だよ」
三諸杉と書かれたラベルの瓶を持ち、宮子は父に目で促した。父が残っていた酒を飲み、冷酒用のグラスを差し出す。宮子が酒を注ぐと、父は飲まずに両手で持った。
「娘を持つと、寂しい思いをするもんだな」
しんみりした口調に、宮子はわざと明るく言った。
「四年間だけだよ。卒業したらお父さんと一緒にこの神社で奉職するんだから」
父は酒を一気に飲み干した。宮子が二杯目を注ごうとすると、手で蓋をする。
「いや、もうやめておこう。明日も早いしな」
立ち上がって台所に行こうとした父が、振り返る。
「宮子」
次の言葉を待ったが、しばらくの沈黙の後、「今日は早く寝なさい」とだけ言って父は立ち去った。
自室に戻って、寛斎からもらった数珠を握る。
前だけ見ていこう。そう自分に言い聞かせ、宮子は眠りについた。
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