第11話 体を貸してよ

 朝食を済ませた寛太が、風呂場で白衣の手洗いをしている。洗濯機を貸そうかと言っても、「これも修行のうちだから」と断られたのだ。

 肩まで袖をまくった彼の左腕に、茶色く変色した傷跡が何本もあるのが目に入る。

 自分で自分を切りつけたのだろうか。痛々しさに目をそむけながら、宮子は家族の分の洗濯物を洗濯機に入れた。

 風呂場の寛太を盗み見る。「下手な同情は相手のためにならない」という昨夜の言葉が頭の中によみがえる。


 ベランダで洗濯物を干しながら、空地の方を眺める。屋根に阻まれてほとんど見えない。

 ──ごめん、サーヤ。また明日ね。

 ──うん、また明日。待ってるから。

 また明日、と約束したのに、このまま父に供養されてしまっては、沙耶も納得できないだろう。どうすればいいのか、まだ心が定まらない。

「宮子」

 階段下から父の声がした。

「隣町の氏子さんが亡くなったから、出かけてくる。通夜祭の打ち合わせもあるから、昼過ぎに帰る。御霊祀みたままつりは、それからだ」

 玄関まで父を見送ると、今度は寛太が来た。

「老師のところへ行ってくる。また握り飯を作るから、昼前に炊飯器を貸してくれないか」

「うん、わかった。いってらっしゃい」

 草履を履き、金剛杖を持って、寛太が出て行く。これで、自宅には鈴子だけになった。沙耶に会うなら、今しかない。とにかく行こう。

 こっそり鈴子の様子を確認すると、テレビアニメを観ている。あの番組は、昼前までやっているから、出かけても気づかれないだろう。

 宮子は、足音を立てないように玄関に向かい、ガラガラと鳴る引き戸をそっと開け閉めした。神殿に一礼してから、砂利道を走る。


 空地に着いて、宮子は茫然とした。四隅の棒に、斎竹いみだけがくくりつけられている。紙垂しでのついた注連縄しめなわも張られている。前のよりも強力な結界だ。

 ──お父さんだ。

 空地に入り、正方形の結界に歩み寄る。前は壺が埋まっていたと思ったのに、ただの更地だ。もう、沙耶は封じられてしまったのだろうか。

「サーヤ……」

 蝉時雨が宮子の声をかき消す。結局、何もできないどころか、さよならさえ言えなかった。立ち尽くしていると、かすかな音がした。


 ぼこり。

 結界内の土が割れ、人の頭が出てきた。

 あのオレンジ色の髪飾りは、沙耶だ。目の下まで出たところで、動きが止まる。腫れぼったい瞼で白目をむき、宮子を睨みつけている。

「サーヤ。ごめん、こんなことになって。あの……」

 何と言えばいいのかわからない。沙耶の頭がさらに出て、首まで現れる。唇が、血濡れているように赤い。


「宮子、あんたのこと友達だと思ってたのに。父親に告げ口して、あたしをあっちへ送ろうとするなんて」

 沙耶の目が、不自然につり上がる。

「ちが……、確かに、サーヤが自然霊に乗っ取られちゃう前に、あっちの世界へ行った方がいいと思うけど、これはお父さんが勝手に……」

「ほら、やっぱりあたしをこっちの世界から追い払いたいんじゃない!」

 裂けているかのように大きく開いた口で、沙耶が叫ぶ。昨日とはまるで別人だ。怖さで足がすくむ。

「私、サーヤのためにできることがあれば、協力したいの。未練をなくせば、あちらで幸せになれると思うから」 

 沙耶が舌打ちをする。

「宮子。あんたって、本当に育ちがいい、イイ子チャンね。あたしは、幸せになんてなりたくないの。不幸でみじめなこの姿を、ママに見せつけてやりたいの。ママのせいで、こんなになったんだ、どうしてくれるのよって」


 沙耶が、胸のあたりまで浮かび上がる。

「久しぶりに会えたのに、ママったら、あたしのこと見て逃げ出したのよ! 顔をくしゃくしゃにして、『迷わず成仏して』なんて言って。見たくないことから逃げるのは、昔とちっとも変わってない。だから、追いかけて、追い詰めて、何度でもこの姿を見せてやるの」

 下手な同情は相手のためにならない、という寛太の言葉が重くのしかかる。

 自分は甘かったのだ。沙耶のためにと思いながら、結局は自己満足から、沙耶の復讐心に火をつけてしまった。


「そうだ、宮子。協力したいって言うんならさ」

 沙耶が口をゆがめて、にやりと笑う。

「体を貸してよ。どうしてもママのところに行きたいの。このままじゃ、気が済まない」

 腰まで出てきた沙耶が、地面に這いつくばってこちらに手を伸ばす。結界を出ることはできないはずだが、宮子は思わず後ずさった。


「お姉ちゃん、電話だよー」

 鈴子だ。どうしてここがわかったのだ。振り向くと、妹がすぐそばまで来ていた。

「鈴ちゃん、だめ。一緒に帰ろう」

 慌てて駆け寄ったが、鈴子は宮子の手をすり抜けて、結界の方へ近づいた。

「なに、これ。お父さんのバサバサ串と同じのがついてる」

 鈴子が紙垂しでを触ろうと手を伸ばす。

「鈴ちゃん!」

 慌てて鈴子の肩をつかみ、引き戻そうとする。が、一瞬早く、鈴子の指が結界内に入ってしまった。

 妹の小さな指を、沙耶がすかさずつかんで引っ張る。

「いやあ、痛い、痛い!」

 指を引っ張られた鈴子が泣く。


「案外強そうだし、この子でいいわ。宮子、手を離して」

 宮子は必死で鈴子の体を抱きとめた。絶対に、渡してはいけない。

「痛いよう。指がとれちゃうよう」

 鈴子が泣き叫ぶ。宮子は結界に手を入れて、妹の指から沙耶の手を振りほどこうとした。


「やっぱり、あんたの方がいい」

 沙耶の手が、鈴子の指を離し、宮子の手首をつかむ。

 つかまれた部分から全身に、ぞわりとした感触が流れる。次の瞬間、手首が潰れたかと思うような強烈な痛みが走った。

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