第15話 天へ帰るためのはしご

 瞼の裏の暗闇に、光の粒を寄せ集めてはしごを作る。

 その端を、沙耶の前にしっかりとつけ、セメントの地面に固定する。はしごを、空へ向けて一段ずつ延ばしていく。

 沙耶がはしごに手をかけ、足を乗せた。強度を確認すると、上に向かって登り始める。

 近くのビルや工場の煙突を越し、光る雲へと近づいていく。宮子は沙耶に追いつかれないよう、懸命に光の粒をイメージし、空中にはしごを延ばし続けた。


 沙耶がアドバルーンの高さを越えた。が、宮子がはしごを延ばす速度は、だんだんと落ちていく。少しでも気を抜くと、注意が他へ向いて、頭を休めようとしてしまう。

 全身から汗が噴き出し、足がふらつく。何とか自分を鼓舞し、懸命にはしごをイメージした。


 とうとう、沙耶がはしごの先に追いついてしまった。

「宮子、大丈夫?」

 沙耶の心配そうな声がする。ここで失敗するわけにはいかない。けれども、もう指一本動かせないくらい体が疲れ切っていて、はしごを伸ばすことができない。集中力も、今にも切れそうだ。


 突然、サイレンの音が鳴り響いた。

 近所の工場の時報だと気づいたが、びくりとしたほんの一瞬で、イメージのはしごが消えてしまった。

 慌ててはしごをかけ直したが、しくじった。はしごの一端が地面についていない。

 ぐらぐらした横木に、沙耶はかろうじてしがみついていた。が、足をはしごにかけることができず、体をよじりながら泣きそうな顔をしている。

「サーヤ!」

 宮子は思わず手を差し伸べた。


 我に返ってみると、宮子の体は、沙耶の手をつかんだまま空中に浮かんでおり、どこにも支えられていない。

 眼下に、病院の屋上が見える。真っ白な洗濯物がはためく隅に、寛太が座っている。その隣に倒れているのは、宮子自身だ。意識が体を飛び出してしまったのだ。


 とたんに、かろうじて残っていたはしごがすべて消え、二人は真っ逆さまに墜落した。早く何か出さなければ、と思うのに、雑念が入って何も形をなさない。


 腹に衝撃が走って、落下が止まった。沙耶の手をつかんだまま、上を見る。腹に巻きついた縄のもう一端を、炎をまとった人影が握っている。

 今のうちに、落ち着いてはしごを出さなければ。

 しかし、焦れば焦るほど、はしごは出てこない。縄がだんだんと解け始める。炎が少しずつ弱まってきて、明王のように見えていたのは寛太だとわかる。


 服の中にしまっていた勾玉がすべり出て、ぶら下がった。今にも落ちてしまいそうだ。

 宮子は首をそらせて、なんとか母の形見をとどめようとした。とたんに、沙耶の手を握る力が弱まる。

 宮子は勾玉を諦めて沙耶の方を向き、その手をしっかりと持ち直した。紐が頭をすべり抜ける。視界の端に、緑色の石が落ちていくのが見える。

 ──お母さん。

 腹に巻きついていた縄が完全に解け、宮子と沙耶は再び空中に放り出された。


 急激な落下のせいで、景色がすべて混ざり合って真っ白になり、風圧で息も吸えなくなる。

「お母さん、助けて!」

 思わず叫ぶ。その声に呼応するかのように、下から旋風が吹き、二人の体は宙に浮きあがった。


 何かが宮子たちを追い越して空へ昇り、また降りてくる。誰かが抱き留めてくれたかのようにやさしく、落下が止まる。

 固く握っていた沙耶の手を、誰かがそっとほどく。

 ──あなたは、まだよ。


 女の人の声で我に返る。

 目を開けると、空一面に曇天が広がっていた。背中に、コンクリートの堅い感触がある。

 宮子は屋上で、大の字になって倒れていた。意識が体に戻ったのだ。

「サーヤ、サーヤは?」

 宮子は慌てて起きあがった。

「上だ!」

 寛太の声に頭上を見ると、たてがみを靡かせた白銀の龍がいた。

 大きな龍が、空中を旋回してこちらへ向かってくる。宮子たちをちらりと見ると、鱗をきらめかせながらしなやかに動き、頭を正面に向けて止まった。


 日本神話に出てくるような白い衣を着た女性が、龍の角につかまっている。

 その腰に左手を回して立っているのは、沙耶だった。

「この人が連れていってくれるって。……宮子、ありがとう。ホントに」

「サーヤ!」

 言いたいことがたくさんあるはずなのに言葉が出てこない。言葉の代わりに、宮子は両手を大きく振った。沙耶も、笑顔で手を振り返してくれる。

 龍がゆっくりと動き始める。沙耶は手を振るのをやめ、両手で女の人の腰につかまった。宮子はいっそう激しく手を振り、沙耶を見送る。


 そのとき、白衣の女性が振り返ってこちらを見た。長い黒髪をゆるやかに束ね、やわらかな笑みを浮かべているのは、五年前に死んだ宮子の母だった。

「お母さん!」

 龍が角度をあげ、天へ向けてまっすぐに昇っていく。だんだんと小さくなり、光る雲の中に入ると、見えなくなった。


 雲は光るのをやめ、風に吹かれてほどけ、空に同化していった。その様子をじっと見上げていた宮子は、緊張が解けてぺたりと座り込んだ。

「なんだか、すごく眠い……」

 寛太が、慌てて隣にしゃがみこむ。

「おい、大丈夫か? 待て、こんなところで寝るなって。おい」


 薄れかけていく意識の中で、父の声が聞こえた。

「宮子、寛太君、無事か!」

 洗濯物に阻まれて見えないはずなのに、父は迷うことなくこちらへ走って来る。白いシーツをかき分け、紫の袴をひるがえしながら。

 空のどこか遠いところから、龍の鳴き声が聞こえる。

 ──お父さんも、龍に乗ったお母さんを見たかなぁ。

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