第19話 価値観の違い
飴色の扉を背にして門を出、直実の家を見上げる。持っているものさしを見せ合ったら、センチとフィートだったような気分だ。たぶん向こうは、尺とセンチだったと感じているだろうが。
早足で家路につく。民家の向こうに三諸山が見えてきた。
宮子は、3Dイラストを見る要領で、焦点をぼやけさせ、目の前の景色のさらに奥を見ようとした。こうすると、通常では見えないものが見えやすくなる。鈴子が遊んでいた3Dイラストを試したときに、偶然発見した方法だ。視点の切り替え法を覚えてからは、普段は見なくていいものは見えにくくなり、とても重宝している。
何度か試みているうちにピントが合う。視界に透明感が増し、色が鮮やかになった。
御山の頂上に、光の柱が立っているのが見える。雲に向かって真っすぐ伸びるそれは、時おり薄紅や青い色を帯びる。水晶に入っている虹に似ており、あまりに美しくて、畏れ多い。
直実には光の柱は見えないし、見えること自体が妄想だと言うだろう。しかし、宮子にとっては、リアルなのだ。
県道を曲がり、民家沿いの狭い道を歩くと、駐車場に差しかかった。二年前の夏、建物が壊されたばかりのこの土地に、幽霊の沙耶が腰まで埋まっていたことを思い出す。
──サーヤは確かにいた。妄想なんかじゃない。寛太君だってサーヤに会ってる。
鳥居の前で一礼し、境内を歩く。
──サーヤ、懐かしいな。もっと一緒にいたかった。
社務所の窓から声をかけたが、父も、事務の原田さんも席を外していたので、そのまま自宅に帰る。玄関をガラガラと開けると、鈴子が待ちかまえていたように走ってきた。
「お姉ちゃん! お父さん、お見合いするらしいよ」
唐突な話に、「へ?」と間の抜けた声をたてて硬直してしまう。小学三年生の鈴子は、意味がわかっているのかいないのか、興奮状態だ。
「今日ね、社務所で原田さんが、総代さんと話してたの。今週末、お伊勢さんに出張する帰りに会うんだって」
「お父さんは、何て?」
喉に何かが絡まってうまく声が出せず、やっとそれだけ訊ねる。
「えっとね、まだ聞いてない。総代さんは、『お母さんができたら嬉しいだろう。だから、お父さんを応援してあげるんだよ』って」
二階へ上がろうとして、宮子は振り返った。
「鈴ちゃんは、新しいお母さんが欲しいの?」
鈴子は、きょとんとした表情でしばらく考えた後、「んー、わかんない」と答えた。
母が死んだのは鈴子が一歳のときだから、母親がいるという感覚がわからないのも無理はない。内心は、母親がいる友達のことを羨ましいと思っているかもしれないが。
あ、そう、とそっけなく言って、宮子は階段を駆け上がり、自分の部屋の戸を閉めた。
壁時計を見ると、もう五時を過ぎている。早く買い物に行って、晩御飯を作らなくては。宮子はセーラー服を脱いで乱暴にベッドに投げつけ、私服に着替えた。
──毎日毎日、一生懸命御飯を作っているのに。洗濯も二日に一回するし、掃除もしてる。なのに、私じゃダメなわけ?
自分のがんばりが足りないと言われた気分になるのも嫌だったが、何より父が他の女性と一緒になるのが許せなかった。
机の上の写真立てが目に入る。鈴子が産まれて間もないころの写真で、家族四人で撮ったのは、これ一枚きりだ。
まだ髪の黒い父、珍しく白衣や作務衣ではなくワンピースを着た母、その腕の中で眠る鈴子、そして、両親の前で嬉しそうに笑う宮子。
母の場所は、ずっと取っておきたいのだ。他の人に入って欲しくない。
制服をハンガーに掛け、乱暴に扉を閉めて階段を駆け降りる。台所の引き出しから家計用の財布を取り出して、買い物バッグに入れる。
「買い物に行ってくる」
居間に向かって吐き捨てるように言い、宮子は外へ出た。自転車を押して鳥居の外まで歩く。社殿に向かって一礼してから、サドルにまたがり自転車をこぐ。胃がせりあがってきて、むかむかする。
ショッピングセンターの駐輪場に、隣の自転車を少しずつ詰めて自分の自転車を入れる。買い物どころじゃないと思いながらも、いつも通りこなしている自分が悲しくなる。嫌味ですごい御馳走を作ってやろうかと思ったが、食欲がないから作る気も湧かない。
──私じゃ不満ってわけね。だったら、もう知らない!
宮子は床を踏みつけるように歩きながら、出来合いの総菜コーナーへ向かった。半額シールが貼ってあるコロッケを二種類と、ポテトサラダ、朝食用の食パンとインスタントのみそ汁をカゴに入れる。今日は、なんだか茶色っぽいものばかりだ。
ショッピングセンターを出て、家路につく。おかずを作らなくてもいいから急ぐ必要はないことに、少し気が静まる。
家に帰ると、御飯だけはちゃんと炊き、母や祖父母を祀る
──お母さん。お父さんに見合い話があるんだって。なんか、こう、やだなぁ。
母の写真は、変わらず笑顔のままだ。
宮子が台所に戻ると、父も鈴子もすでに来ていた。
「お姉ちゃん、今日の御飯……」
鈴子が、食卓を見て渋い表情をしている。いつもは四品は用意し、一人ひとり皿に分けているが、今日は二種類のコロッケを大皿に山盛りにしただけだ。ポテトサラダとみそ汁は個別にしてあるが、本当に茶色っぽい食卓だ。
「好きなだけ食べていいよ。こっちがビーフで、そっちが野菜のコロッケ。ソースは勝手につけて」
ぶっきらぼうに言いながら、それぞれの茶碗に御飯をよそって机に置く。宮子が席に座ると、父が拍手を一度打ち、「いただきます」と言う。宮子たちもそれに倣ってから、箸を持つ。
みそ汁を飲んだ鈴子が言う。
「お姉ちゃん、これ、インスタントでしょ。いつものと味が違う」
普段は鰹節とイリコで出汁を取っているのだが、小学三年生の鈴子でも違いがわかるらしい。「うん、違うよ」とそっけなく言ってから宮子も飲んでみた。十分おいしいとは思うのだが。
「……お姉ちゃん、なんか怒ってる?」
「別に、怒ってないよ。ほら、食事中はしゃべらないの」
柏木家ルールを盾に、鈴子を黙らせる。
全員がほぼ同時に食べ終わるよう、速さを調節しながら黙々と御飯を口に運ぶ。出来合いのポテトサラダはマヨネーズの量が多すぎて、胸がやける。しかも、なぜわざわざコロッケと同じイモ系を買ってしまったのだろう。宮子はいつも以上にお茶を飲み、味の濃すぎる料理を流し込んだ。やっぱり明日からはちゃんと作ろう、と思いながら。
三人で合掌をし、ごちそうさまを言う。片付ける前に、お茶を飲みながら話をするのが恒例となっているが、今日はなんだか気まずい。早々に席を立って、
「毎日食事を作るのも大変だろう。勉強も忙しくなるだろうし」
だから、新しく「母親」を迎えようとでも言うのか。
「そんなことないです。料理、嫌いじゃないし」
きつい口調になってしまった。父が立ち上がって皿を流しに運び、自分で洗い始める。
「別に、出前でも給食でもいいんだぞ。お金はなんとかなる」
見合いの話を確かめることができずに、宮子は父の隣に立ち皿をすすいだ。無言のまま、食器を乾燥機に並べていく。
起きていてもろくなことを考えないときは、さっさと寝るに限る。
宮子は予習をすると、風呂に入りベッドにもぐった。本を借りたことを思い出したが、読む気になれない。明日の朝、表題作だけ読んでいこう。宮子は自分の呼吸に意識を集中させ、思考を追い出した。
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