第26話 乗っ取られた体
反射的に、胸を叩いたり引っかいたりして抵抗する。しかし、体の中に入った靄は、出ていってくれない。
「宮ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
耳に届く直実の声は、水の中から聞いているかのようだ。
自身の核の部分に、異物が侵入し始めた。乗っ取られないよう、宮子は必死で正気を保とうとするが、体を思い通りに動かすことさえ難しい。
しゃべるつもりはないのに、自分の唇が勝手に開く。
「無神論者の娘。本当はお前に入るつもりだったが、代わりにこの体をもらう」
低い声で語るのを、止めることができない。
怯えた顔で直実が後ずさりするのを、確かに自分の目で見ているのに、離れたところからテレビ画面で眺めているように感じる。
「どうせお前も、私の存在など信じていないだろう。この娘がおかしくなったと思って、今日のことは忘れろ」
対峙する直実は、気の毒なほどうろたえている。
廊下から足音が聞こえてきた。鈴子だ。宮子は力を振り絞って、体の主導権を奪い返そうとした。
襖が開き、
「お姉ちゃ……」
鈴子の顔が曇った。こちらに視線を向けたまま動きを止め、身構えている。
「鈴ちゃん、お姉ちゃんを縛って!」
靄が鈴子に気を取られた隙に、宮子はかろうじて叫んだ。
不意を突かれた靄が、再び体を支配しようとする。手足がひとりでに暴れようとするのを、宮子は懸命に抑えた。
「早く!」
鈴子がうなずく。
「直実姉ちゃん、こっち持って!」
はじかれたように直実が駆けつけ、
縄が宮子の腕や胸を圧迫しているはずなのに、どこか感覚が鈍い。自分のことではないみたいだ。
「直実姉ちゃん、すぐに戻るから、しっかり見張ってて」
鈴子が立ちあがって部屋を出ていく。直実が、鈴子が出ていった襖の向こうと宮子を何度も見比べながら、おろおろしている。
「よくもやってくれたな。元はと言えば、お前の父が、私の棲みかを勝手に壊したのが原因なのに」
またしても口が勝手に動く。直実の額に汗が浮かんでいるのが見える。
「そっちがその気なら、この娘の舌を噛み切るぞ。人間は、友達とやらを大事にするのだろう?」
宮子の体が口を開けてにやりと笑い、舌をべろりと出す。
「鈴子ちゃん、早く戻って!」
直実が叫ぶ。鈴子が走ってきて、泣きそうな声で言う。
「お姉ちゃん、お父さんの携帯、つながらないよう」
電波が届かないのか、何かに邪魔されているのか。それなら玄斎様のところへ、と思うのに、口を開くことも言葉を発することもできない。
代わりに靄が低い声で言う。
「助けなど、呼ばせるものか。思ったより抵抗する体だが、あと半日ももつまい」
自分の意識がどんどん深いところに沈んでいく。もう二度と這い上がれないのではないか。
いやだ、このまま乗っ取られたくない!
宮子は鈴子に目配せしようと、もがいた。一瞬だけだが、鈴子と目が合う。
「じゃあ、お願いがあるの」
鈴子が、宮子の体の前に座り、顔を覗きこむ。
「もし、お姉ちゃんの意識がなくなっちゃうんなら、最後に会わせたい人がいるの。今から会いに行かせて」
宮子の口が低い声で唸って威嚇するのを、鈴子がさえぎる。
「けちんぼ。嫌でも会いに行ってもらうもん。……お姉ちゃん、まだいるんでしょ? これから、寛斎兄ちゃんのところに行こうね。会いたいでしょ」
なぜ鈴子が自分の気持ちを知っているのか。
気恥ずかしさに、うろたえる。が、これは敵を欺いて玄斎様の庵に連れていってもらい、憑きもの落としをする方便だと思いなおす。それに乗ることにして、自分の中の異物に訴えた。
──最後に一目でいいから、好きな人に会わせて。彼に会うまでは、意地でも体にしがみついてやるんだから。
「ふん。人間は、年がら年中色恋沙汰で必死だな。低俗極まりない」
靄が呆れたように言い放つ。今なら、少しだけ体を動かせそうだ。
宮子は自分の意識と体を、なんとかつなげようとした。うう、と呻き声が漏れる。
鈴子がにじり寄って背中を撫でさする。胸のあたりのつかえがすうっと取れて、自力で息を吸うことができた。
「……会いに、行く」
吐く息に乗せて、宮子はようやく声に出した。鈴子の手が、肩をぽんぽんと叩くのを感じる。
「わかった。今、電話してくるから、待ってて」
鈴子が走って廊下へと出ていく。一瞬楽になったのに、鈴子の手が離れたとたん、また黒い靄が宮子の心を体から押し出し始める。せめて鈴子の電話が通じるまでは、靄に負けてはいけない。
住所録を持った鈴子が、戻ってくる。
「お姉ちゃん、連絡取れたよ。待ってるから、今すぐ来いって」
今すぐ、といっても、まだ真夜中だ。電車も動いていない。
「三時半だから、始発まで一時間半もあるよぉ。直実姉ちゃん、タクシーって、深夜もやってるのかな?」
鈴子がかがみこんで住所録をめくる。ずっとうろたえていた直実が、はっきりした口調で言った。
「私、お父さんに車を出してもらうよう、頼んでくる」
鈴子が顔を上げる。
「ホント? ありがとう、助かった」
「電話借りるね。行き先はどの辺なの?」
鈴子が住所録を見せながら、「吉野の大きなお寺の近くなの」と説明をする。
直実が、鈴子に渡された住所録を持って出ていく。うずくまる宮子の額に、鈴子が手を当てる。ぬくもりがじんわりと伝わってくる。
「もうすぐだから。がんばってね、お姉ちゃん」
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