第34話 火宅の人たち

 ──どうして清僧なんかになるのよ。日本の僧は殆ど結婚するし、恋愛も自由じゃない。

 心の中の叫びは、決して口には出せない。修行なのだと言われれば、成道を願って応援するしかない。

「そっか。……がんばってね。ご加護がありますよう」

 宮子は合掌し一礼した。寛太も同じ仕草を返す。

「お前も、神主になるんじゃないのか? そろそろ進路を考えておく時期だろう」

 そう言われて、宮子は真剣に将来を考えていなかったことに気づいた。長女だから三諸教本院を継ぐのだろうと周りから言われても、先のことだからまだ決めなくても大丈夫と思っていた。父の跡を継ぐなら、神道学科のある大学へ進むことになる。四年以内に、心を決めなくてはいけない。


「あんまり考えてなかった。お父さん、何も言わないし。……高校はどうするの?」

「親父が、高校までは出ろって言うから、ここからいちばん近い吉野高校を受ける。あそこは森林学科があるから、木のことを学ぼうと思ってな。お前は?」

 宮子が「畝傍高校」と答えると、寛太がからかうように言った。

「なんだ、優等生ヅラしてると思ったら、本当に優等生だったのか」

 自分では気づかない内に不快な思いをさせていたのかと、宮子は慌てて訊ねた。

「私、優等生ヅラしてる? どんなとこが? 直すから教えて」


「相変わらず生真面目だな。そういうところが、優等生なんだって。なんていうか、余計な圧力がかからず、まっすぐ育ったんだなって。でも、それが心配でもある」

 寛太が一歩だけ近づく。

「去年、理屈っぽそうな学者親子を連れて来ただろ。ああいう友達だと、意見の相違も多いだろう。自分が間違えてるんじゃないかって悩んだり、自分の意見を言うことに臆病になったりしてないか」

 図星だ。宮子が小さくうなずくと、寛太が続けた。


「違うってのは、悪いことでも恥じることでもない。『私にとって、八百万やおよろずの神々の存在なしには、自分自身も、この世界も、成り立たないんだ』って、胸を張って言えばいい」

 寛太の言葉が、全身に沁み渡っていく。この人が好きだ、と強烈に思う。もう指先が触れることすら叶わないのに、抱きしめて「好き」と告げたい衝動に駆られる。


「それと、また変なのに取り憑かれないよう気をつけろよ。もう、何かあっても、背負ってやれないぞ」

 寛太がまっすぐにこちらを見る。射るような視線ではなく、穏やかに包み込む目だ。息がうまく吸えなくなり、胸が締め付けられる。目の前の景色が、涙でぼやける。宮子は慌てて笑顔を作った。

「大丈夫よ。一人でなんとかできるから」

 口が渇いてうまく声が出ない中を、絞り出すように言う。

「修行、がんばってね。何か、力になれることがあれば言って」


 寛太が小さく笑う。

「裁判のこと、心配してくれてるんだろう。……正直言うとな、少しだけ、ほっとしたんだ。前は、ただ犯人が憎くて、包丁持って家を飛び出したりしたんだがな」

 自嘲気味な笑みを浮かべ、寛太が続ける。

「物理的に殺せない上に、法律も罰してくれないなら、別の方法で、と思ったこともある。……あ、これは、誰にも言うなよ」

 宮子はうなずいた。以前寛太が、「俺にも呪い殺したい奴がいる」と言って、調伏法ちょうぶくほうのことに触れたのを思い出す。


「直前まで、犯人が死刑になることを望んでいた。不殺生戒との間で何度も揺れたけど、やっぱり、な。それなのに、無期懲役の判決を聴いて、心のどこかで安心したんだ。もう、人が死ぬのを見なくて済むって」

 寛太は眉根を寄せ、視線を落とした。

「正直、自分でも戸惑ったよ。ずっと、あいつを憎んでいた。それを修行して、なんとか心を波立たせないように努力していた。……赦すって感情なら、まだわかる。でも、ほっとするって何なんだって」


「それは、修行の成果で、犯人の命すら等しく尊重する気持ちが芽生えたんじゃ」

 寛太が首を横に振った。

「いや、ただ単に俺が、自分の心の負担が少ない方へ逃げただけだ。修行の成果でも何でもない。……だから、もう一段階きつい修行をするために、清僧になるんだ」

 顔を上げた寛太と、視線が合う。「俺を男として見るな」と釘を刺されているようで、いたたまれなくなり、宮子は目を落とした。


「そろそろ瞑想会が始まる時間だ。戻るぞ」

 まっすぐな背中を目で追う。修行をすることで、彼に心の平安が訪れて欲しいとは思う。けれども、本当は。

 瞑想会に参加したものの、まったく集中できず、頭の中をいろいろなことが駆け巡る。時計ばかりを確認して、終了の時間までを過ごした。後片付けのとき、いつもは座具を布団袋に詰める役だった寛太は、女性と接触しないためか、早々に部屋を出て、戻って来なかった。


 あいさつをして帰ろうとすると、玄斎様に呼び止められた。

「宮子君、ちょっと」

 玄斎様が座敷の隅に座る。うながされて、宮子も向かいに正座した。

「寛斎のこと、宮子君には酷じゃったかのう」

 宮子は小さく首を振った。

「いいえ。厳しく自己を律するのは、立派なことです。六年生のときからの友人ですし、寂しくはありますが。彼が成道することを、祈っています」

 宮子君は優等生じゃのう、と玄斎様までつぶやく。


「少し、心配なことがあるのですが」

 宮子は、この際怒られてもいいから、気になることを訊いておこう、と思った。

「裁判のニュースを見ました。私の考え過ぎならいいのですが、もし、彼の清僧宣言が、その……母親を殺した犯人を呪うための願掛けだとしたら……」


 沈黙が流れる。宮子は慌てて「不謹慎なことを言って、すみません」と頭を下げた。

「今日の法話で、火宅の人のたとえ話をしたじゃろう」

 長者の家が火事になったが、子どもたちは遊びに夢中で、火に気づかない。父親が「逃げなさい」と叫んでも、やはり気づかない。そこで父親は言った。「珍しいおもちゃがあるから、早くこっちにおいで」子どもたちはおもちゃ欲しさに火の家から出て、難を逃れた、という話だ。


「寛斎は、燃え盛る家の中で、他のことに気を取られておる。自分でも、どうしていいかわからんのじゃろう。下手に『危ないから逃げろ』と言ったところで、聞こえないか、出口がわからず焼け死んでしまうかじゃ。まずは、他のことで気を引いて、火の家から出さなければ」

 うなずくより他はなかった。

「だから、きつい修行をしたい、清僧を目指す、とあれが言うなら、今はそれがいい。修行は、曇りを落として、心を育てるためのものじゃ。儂は、寛斎が無明むみょうに打ち克ってくれると信じておるし、そのための協力は惜しまん」


 寛太が立ち直ることを願うのは、宮子も同じだ。しかし、彼が選んだ方法を応援するのは、自分の気持ちが行き場を失くすことでもある。

「私も、彼の修行の完成を願っていますし、できることは協力するつもりです」

 何か言われる前に、宮子は先回りをして述べた。万が一、玄斎様に「寛斎を諦めてくれ」などと言われたら、立ち直れない気がする。

「そうか、ありがとう。会話をする分には問題ないから、これまで通り接してやってくれるじゃろうか」

 しばらくはこの会に来ないでおこうと思っていたのに、蛇の生殺しだ。

「そうですね……。受験もありますが、できるだけ来させていただきます」

 宮子は一礼して庵を後にした。

 長い石段の向こうに、吉野の山々が見える。夕暮れの空は、真っ赤に焼けていた。


 うつむきながら石段を下りる。ぽつり、とこぼれた涙が、靴を濡らした。

 ──何が清僧よ。そんなのにこだわらなくても、修行はできるじゃない。

 胸の奥から熱い塊が込み上げてきて、嗚咽が漏れる。歯を食いしばり、振り切るように階段を駆け下りた。門前町を通り抜け、ひと気のない道に入る。涙があふれてきて、頬から顎に伝い、首筋まで濡らした。

 宮子は走りながら、声をあげて泣いた。


 ──何が修行よ。絶対に、法名では呼んでやらないんだから。さっさと還俗すればいいのよ。バカ!

 泣きながら、自分がずっと前から、本当に寛太のことが好きだったのだと気づく。彼と共有した、ほんの些細なことまで次々に思い浮かんできて、涙が止まらない。


 駅舎の手前で、宮子はいったん立ち止まり、ハンカチで顔を拭いた。深呼吸して遠くを見渡すと、木々の間から吉野の山々が見えた。もうすぐ、桜の季節がやってくる。千本桜が、吉野の風景を変える。

 母親が殺された日、寛太は友人たちと満開の桜の木に登って遊んでいたため、帰宅が遅れたという。「あの日、早く帰っていれば、母親は殺されずにすんだかもしれない」と、一面の桜が彼を責めるのだろう。

 ──桜、咲かないで。彼を苦しめないで。


 寛太の心の平安を願う気持ちと、自らの恋心の間で揺れながら、宮子はうずくまって泣き続けた。

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