第30話 根付いた恋心

 直実が上着と靴を渡してくれる。ようやくパジャマ姿をさらさずに済むことに宮子はほっとし、急いで服を羽織る。

「宮ちゃん、ごめんね。私のことを助けようとしてくれたんだね。……ありがと」

 直実が申し訳なさそうに、顔を覗きこむ。

「ううん。私こそ、かえって心配かけちゃって、ごめん」

 直実の父にも詫びを述べる。

「おじさん、朝早くにすみませんでした。車まで出していただいて、ありがとうございます」

 直実の父は、いや、なに、と言葉を濁して頭を掻いた。


 もう一人、謝らなければいけない人がいる。宮子は、寛太の方を振り向いた。

「あの……、今回は、迷惑をかけて、ごめんなさい」

 頭を下げるが、反応がない。さすがに怒っているかと恐る恐る顔をあげると、寛太は笑いをこらえるような表情をしていた。

「まあ、いつかやらかすとは思ってたがな。管長さんが留守のときに、自分から危ないことに首を突っ込むなよ」

 返す言葉がなくて、宮子はうなだれる。


「俺も迷惑とは思っていない。頼るべきときは、最初から然るべき人を頼れ」

 上目遣いに寛太の顔を見る。鋭い三白眼は変わらないが、その眼光は思いのほか優しい。

「それと、もうちょっと強くなれ。里の女たちみたいにダイエットとかしてる暇があったら、瞑想しろよ。体重、軽すぎるんじゃないか?」

 顔が瞬時に熱くなり、耳までじんじんとする。寛太に背負われた感触を思い出して、体の芯がきゅんとする。宮子は消え入りそうな声で「はい」と答えた。


「老師の法話会には、ちゃんと来いよ」

 寛太が踵を返して玄斎様の後を追う。「来い」と言われたことが、なんとなく嬉しい。宮子と直実親子も、後ろに続いた。

 振り返って、林の方を見遣る。あのムササビは、安住の地を得られただろうか。一陣の風が吹き、木々がざわざわと葉擦れの音をたてた。


 庵に戻ると、門の前で待っていた鈴子が駆け寄ってきて、宮子にしがみついた。何も言わず、頭を押しつけてくる。

「鈴ちゃん、ごめんね。怖い思いをさせたね」

 鈴子が肩を震わせ、泣きだした。気丈に対応してくれていたが、鈴子はまだ小学三年生なのだ。

「鈴ちゃんがついててくれたから、お姉ちゃん、体を乗っ取られずに戻って来られたよ。ありがとうね」

 鈴子が声をあげて泣きじゃくる。「鈴ちゃんはえらいね。ありがとうね」と言いながら、宮子はその背中を撫でた。



 土日が慌ただしく過ぎ、週明け、宮子は登山合宿に出発した。

 直実とはバスの席も隣同士だったが、ムササビの一件については、お互いに話題にするのを避けていた。

 班ごとに分かれ、女子は稲村ヶ岳に登る。木々がみっしりと生い茂る山道は薄暗く、一昨日のことを思い出させた。

「そういえば、宮ちゃんのお父さん、お見合いはどうなったの?」

 同じ班の四人が近くにいないのを見計らって、直実が小声で訊ねる。

「あ、あれ。最初から断るつもりだったんだって」


 父にとって恩がある方からの話だったが、丁寧にお断りしたそうだ。バツイチで二人の娘に神社付きという悪条件のところに来てもいいと言うのだから、よくよく考えればまたとない話だったな、と冷静になった宮子は思った。

「神社の運営のために結婚、という考えは、したくないんでね。繁忙期は手伝いの神主さんも来てくれるし、事務は原田さんがいるし、宮子も鈴子も家事をしてくれるし。それに」

 宮子と鈴子に問い詰められた父は、そう言って照れくさそうに続けた。

「妻は、一人でいいんだ」


「なんだ、杞憂だったんだ。よかったじゃん」

「うん。……そのかわり、例の件ではちょっと怒られたけどね」

 父は吉野の玄斎様のところへお礼とお詫びに伺ってから、帰宅した。直実の父にも、早朝に車を出してくれたお礼の電話をかけていた。宮子に対して声を荒らげることはなかったが、「もう少し周りに状況を話して、一人で解決しようとしないように」と懇々と諭された。


 後ろから、同じ班の子の声がした。

「ちょっと待ってよぉ」

 息を切らせ、手で膝を押すようにして山道を登っている。

「もう、山道きついわ。……あんたたち、元気だね」

 二人は立ち止まり、残りの四人と合流した。直実がいつもの調子で明るく言う。

「ごめんごめん、しゃべるのに夢中で、疲れも忘れてたわ」

「どうせ、小難しい話でしょ。秀才の考えることはわからないわ」

 拗ねた顔のクラスメイトに、直実が思わせぶりな口調で言う。

「違うよー。男の話だよ。オ、ト、コ」

 騒ぎ始める女子たちの前で、直実が「ね、宮ちゃん」とウインクをする。宮子は一瞬戸惑ったが、直実の口調を真似て言った。

「そ。オトコの話してたの」

 女子たちが、急に笑顔になる。

「へー、柏木って、そういうの興味ないと思ってた」

「誰が好きなの? 教えてよ」

 脳裏に、寛太の顔が浮かぶ。色黒の肌、鋭い三白眼の吊り目、きりりとあがった眉、少し薄い唇。態度はぶっきらぼうだが、世話焼きで、本当はやさしいのだ。

 それぞれが、「私はクラスの佐々木君が好き」「あたしはバスケ部の浜中先輩」と、打ち明け始める。苦手なはずの恋の話だが、宮子は受け入れてもらったことが嬉しかった。

「で、柏木は?」

 寛太のことを話してみたい、という気持ちが頭をもたげた。

「うちの学校の子じゃないんだけどね。同い年で、行者になる修行をしてる子なの」

 感心したような声で、みんなが「へえー」と言う。

「やっぱ、神社の子だね。行者だって」


「ね、その子、イケメン?」

 迷った末、「うん、不動明王様みたいでカッコイイと思う」とぼそりと答える。

 なにそれ、と言って、女子たちが笑いだす。

 宮子は体操服の裾をぎゅっと握った。せっかく周りに馴染めると思ったのに、外してしまったことを悔いていると、一人が言った。

「柏木って、天然だよね。いいキャラしてるわ」

 引かれたわけではないことに、ほっとする。

「柏木も私らと同じで、フツーの恋する女の子だったんだ。ちょっと安心した」

「そうそう。頭が良くて恋愛に興味がない子って、あたしらのこと馬鹿にしてるみたいな気がして、苦手なんだ。『低俗な話ばっかりして』って目つきするんだもん」


 そんなことないよ、と言おうとして、宮子は思い直した。無意識のうちに、話題の合わない彼女たちのことを、自分とは違う人種だと避けていたのではないだろうか。

 小学生のとき、自分のことをからかってくる子たちが嫌いだ、と父に言うと、逆に注意されたことがある。「嫌いだと思って接していると、向こうも鏡のように同じ感情を返してくるぞ」と。

「私、恋愛とかお洒落とか、そういうの疎いから、……その、いろいろ教えて欲しいな」

 宮子が言うと、一瞬の間の後「まかせといて!」とリーダー格の矢部が、二の腕を軽く叩いてきた。

 恋やお洒落の話をしながら、霊山を登る。四人のクラスメイトは、宮子の中で「矢部っち」「まっつん」「みすみん」「ホーリィ」に変わった。


 頂上の展望台に着くと、連なる山々が見渡せた。木々は緑色なのに、山になると青い色をまとう。霧が山上と里を隔絶し、別世界にする。誰もがしゃべるのをやめ、霊峰の揺るぎなさや気高さに、ただ圧倒された。

 寛太も、この山に登っただろうか。何を思い、どんな祈りを捧げたのだろうか。

 宮子は、吉野の山々に、寛太の幸せを祈った。

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