第2話 少年修験者、寛太

 宮子は、さっきまでいたはずの沙耶の姿を探して、道路に走り寄った。両側を見渡しても、彼女の姿はない。

 トイレを我慢してたから猛ダッシュで帰っちゃったのかな、と思いながら、絵筆を絵の具箱にしまい、荷物を拾い上げる。

 明日の言い訳を考えながら歩き、鳥居の前まで来る。宮子は、一礼して中に入った。


 自宅は、父が奉職している三諸教本院の横にある。神社は、太鼓を叩けば天井が震えるくらい古くて小さく、父が管長として一人で切り盛りしている。普通、神社でいちばんえらい人は「宮司」というのだが、三諸教本院では「管長」という呼び名だ。アニメが好きな妹の鈴子は、この呼称をとても気に入っている。どうやら、「艦長」だと思っているらしい。

 境内には、申し訳程度だが鎮守の杜があるので、夏でも涼しい。鳥居の中に入るだけで、体感温度がまるで違う。宮子は砂利を踏みしめながら社殿の前まで来ると、もう一度深々と礼をした。

 裏手にある自宅用玄関に回る前に、社務所にいる父に声をかけようとすると、下足場に八目草履が二つあるのに気づいた。一つはかなり履き込んだもので、もう一つは小さな新品だ。今日から四泊五日間、行者さんとその弟子が滞在する際の食事の世話を頼まれているから、その二人だろう。行者の玄斎げんさいは、よく三諸教本院を訪れる方だ。

 あいさつしていった方がいいかな、と宮子は靴箱の脇に荷物を置き、靴を脱いで三段ある古木の階段を上った。引き戸の向こうから、父と玄斎の声がする。すぐ向こうが応接用の座敷なので、声が丸聞こえだ。


「で、宮子君は問題なく過ごしていますかな?」

 自分の名前が出たことに、どきりとする。戸にかけた手を引っ込めて、中の様子を窺う。

「はい、おかげさまで」

「見える者は、うまくコントロールできないと、魔に惹かれたり、精神的に不安定になったりするから、気をつけなさいよ。宮子君は田紀里たぎりさんに似たんじゃな」

 田紀里とは、五年前に亡くなった母の名前だ。女性ではあるが、父と同じく神主をしていた。浅葱あさぎ色の袴を穿き、一日に何度も境内を竹ぼうきで掃いていた。


「お母さんも、巫女さんみたいに緋袴と舞衣を着て踊ったり、授与所の受付をしてればいいのに」と言ったことがある。凛とした雰囲気で整った顔立ちの母なら、他の神社にいる巫女よりもあの衣裳が似合うと思ったのだ。竹ぼうきが当たる親指の付け根にタコができるほど掃除をしなくてもいいのに、という気持ちもあった。

 しかし母は、「大神様のいらっしゃるところを清浄に保つのは、とても大事な仕事だから、これでいいの。それに、境内で掃除をしていると、お参りに来られたご近所の方とお話ができるでしょう。それも大切なことなのよ」と笑って言った。

 口数は少ない方だったが、近所の人たちに慕われていて、いつも誰かが世間話をしに来ていた。時おり母は、「今日は、車に乗らない方がいいですよ」「刃物の取り扱いに気をつけて」などの忠告をすることがあった。「お腹を調べてもらった方がいいですよ」と言われた人が、検査で初期の癌が見つかったとお礼に来た。それ以来、「あそこの神主さんはご神託をくださる」と評判になった。「あの人は、お姑さんが気の強い方だからストレスがたまっているし、少し偏食だから、胃が弱ってると思っただけなんですよ」と母はみんなに言い訳していたが、本当は何かが見えていたのではないか、と宮子は思っている。


 座敷から、父の声が聞こえた。

「努力しても見る能力がつかなかった私には、羨ましく思うこともあります。しかし、見えるゆえに妻も苦労をしましたので、宮子のことは今しばらく守ってやりたいのです。妻も、それを望んでいました」

 やはり、母には何かが見えていたのだ。でも、何を。


 しばらくの沈黙の後、玄斎の声がした。

「境内にいる限りは安全じゃし、田紀里さんの形見も持たせている。とはいえ、そろそろ加持も効きにくくなる。早めに対策を立てた方がよろしいぞ。いつまでも、目をふさいでやることはできない」

 首からさげている翡翠の勾玉を、宮子はブラウスの上からそっと握った。母の形見だから、肌身離さずつけるよう、父から言われている。

「鈴子、じっとしていなさい」

 ぱたぱたという足音に、父の声がかぶさる。六歳になる妹の鈴子が、じっとしていられずにうろうろしているのだろう。

 ちょうどいいタイミングなので、宮子は「失礼します」と声をかけて、引き戸を開けた。畳の間に、父と玄斎が座っている。ぼんぼりがついた輪袈裟状のものをかけた玄斎の恰好は、漫画に出てくるカラス天狗を思わせる。父は、白衣に紫の袴だ。神道と仏教は案外仲がいいので、神主と僧侶が並んでいても違和感はない。特に、三諸教本院は死者を祀る珍しい神社なので、僧侶とも親交がある。


「玄斎様、こんにちは」

 宮子は戸を閉めて正座し、頭を下げた。

「おお、宮子君か。大きくなったのう。また五日間、お邪魔するよ」

 玄斎は高名な行者なのだが、いつもにこにことして偉ぶったところがない。とはいえ小柄な体躯からは、人を圧倒するような雰囲気がにじみ出ている。

 応接机から少し離れて座っているのが、弟子のようだ。どうみても、宮子と同じ小学生だ。白衣のせいで、浅黒い肌がよく目立つ。

「これは、新弟子の寛太じゃ。まだ小学六年生だが、来週、総本山で出家得度させようと思うておる。宮子君と同い年じゃし、仲良くしてやってくれるかのう」

 寛太と呼ばれた少年は、畳に手をついて深々とお辞儀をした。切れ長の三白眼が、射るように宮子を見る。宮子も「よろしくです」と言って頭を下げた。同い年の男の子が家に泊まるというのは、なんだかむずがゆい。


 柱の陰から鈴子が走ってきて、宮子の横に勢いよく座る。ドシンと音がして、肩がぶつかった。

「寛太兄ちゃんのところも、うちと同じで、お母さんが死んじゃったんだって」

 宮子は慌てて耳打ちをした。

「そういうことは、言わないの」

 たしなめられた理由がわからないのか、幼い自分は大目に見てもらえることをわかってか、鈴子が「なんでー」と無邪気な大声をあげる。

「こら、鈴ちゃん」

 鈴子の太ももを軽く叩く。

「かまいません。本当のことだから」

 表情を変えずに言う寛太に、宮子は同い年とは思えない威圧感を覚えた。感情の起伏がないのに激しさが肌で感じられて、なんとなく怖い。


「どれ、出かける前に、加持をしていこう」

 玄斎が立ち上がり、宮子と鈴子の前に立つ。数珠を持った手が、宮子の前に来て止まる。

 玄斎は、宮子の表情を確かめるように見た後、少しずれて鈴子の前に立った。数珠を繰りながら真言を唱え、鈴子の頭と肩に数珠で軽く触れる。

「宮子君には、帰るときにしようかのう」

 そう言って玄斎は、寛太を連れて御山の修行場へと出かけていった。

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