第43話 禁断の呪殺法
他に車のいない山道を、反対車線に飛び出しながらカーブを曲がり、山上の門前町に着く。汗ばむ手を片方ずつ太ももになすりつけて拭く。
ようやく庵への階段が見えてきた。空きスペースへ、飛び込むように車を停める。間もなく日付が変わろうとしていた。
宮子はバッグをつかみ、乱暴に車のドアを閉めると、庵への長い階段を駆け上がった。
月の光が不気味なほど明るく足元を照らす。影に縁取られた青白い世界の中に、自分の足音と荒い息遣いだけが響いた。
門の前へと辿りつく。息が切れて、思わず咳き込む。心臓の鼓動で胸が破れそうだ。
脇の通用口を開け、身をかがめて中に入る。小さな庭に咲く白梅が、月光の中でひっそりと佇んでいる。その静寂の中に、真言を唱える声が流れてきた。
寛太だ。
宮子は足音を立てないよう近づき、そっと入り口の戸を引いた。
隙間から室内の様子を窺う。左側の板の間に、結界の
その中に、行者の装束を着た寛太の後ろ姿が見えた。
前には、火の点いた護摩壇がある。木の燃え具合や炎の勢いからすると、まだ点火して間もない。
宮子は目を凝らして、炉の形を確認した。病気平癒なら丸い炉というように、行法によってどの形の炉を使うかが決まっているからだ。
──三角の炉。
指先から血の気が引く。三角の炉を使用するのは、調伏法。つまり、敵を呪う行法をしている証拠だ。
「だめ!」
思わず声をあげ、宮子は扉を開けて中に入った。靴を脱ぎ捨て、バッグを放り出し、寛太の顔が見える位置に回り込む。
「お願い、まだ間に合う。調伏なんてやめて」
半眼で真言を唱え続ける寛太の顔が、揺らめく炎に照らされる。
「犯人を呪殺しても、お母さんは喜ばないし、お父さんの心が完全に晴れるわけでもない。玄斎様だって悲しまれる」
宮子には目もくれず、寛太は護摩木を炉にくべた。炎が生き物のように形を変え、天井に向かって激しく先を尖らせる。
自分の言葉の無力さ、虚しさを思い知る。
彼は、そんなことは百も承知なのだ。少年の頃から毎日悩み、師僧・玄斎様に慈悲の心を育てるよう教えられ、修行を続けてもなお、理屈ではどうしようもない、行き場のない想いが、彼をそうさせているのだ。
炉の炎が、業火のように赤く激しく燃え盛る。
止められない。
一瞬ひるんだが、すぐに思い直す。彼が行の代償として地獄に堕ちるのを、黙って見ているわけにはいかない。もっと早く、無理やりにでも、彼のそばに入りこむべきだった。傍観者ではいけなかったのだ。
宮子は
彼が何かの印を切り、宮子に向かって気を放つ。
寛太と目が合う。つり上がり、黒目の部分に炎が映っている。
全身の力が抜けて、姿勢を保つことができず、宮子は床に崩れ落ちた。
起き上がろうとしても、体が動かない。術をかけられたのだ。
目玉だけで寛太を見上げる。彼はこちらを一瞥すると、また護摩壇の方へ向き直り、真言を唱え始めた。
──終わるまでじっとしていろ。動くと、命の保証はできない。
頭の中に、寛太の声が聞こえた。
動かなければ、と思うのに、頭と体がバラバラになってしまったように、体の動かし方がわからない。
術に抵抗するのをやめ、呼吸に意識を集中させる。吸います、吐きます、と念じながら、その通りに息をする。だんだん意識と体がつながってくる。
宮子は精神統一し、足に力を集めた。一瞬だけなら、動けるだろう。
寛太が新たな印を結ぶ。あれは、加持の本尊をお迎えする印形だ。神を召喚すれば、手遅れになってしまう。今、阻止しなければ。
いよいよ勢いを増す炎を見る。この火を消せば、行法は成り立たないはずだ。
それなら、方法は一つ。炉の中に飛び込めばいい。
心臓が暴れ出すのをなだめ、炉との距離を測る。腹に抱え込んで酸素がいかないようにすれば、火は消える。火傷も重度にはならないはずだ。
十分に力を溜めたら飛び込もう、と決心したのに、体表の何パーセントを火傷したら命にかかわるのかや、燃えやすい上着を着ていることが気になってしまう。脳裏に、父や鈴子、直実の顔が浮かぶ。死んだ母や、沙耶、玄斎様の顔も。
あれはいつだっただろうか、屋外で
──行者は心の中に火を焚くんじゃ。護摩の炎は、増幅装置みたいなもんじゃよ。
炉の炎の奥に、黒い火が生まれ始める。
──これは、本物の火じゃない。
宮子は、視線を護摩壇から寛太へと移した。
──炎は、こっちだ。
溜めこんだ力を振り絞り、宮子は両足で床を蹴って、寛太へと飛びかかった。
世界がひどくゆっくりに見えた。
寛太がこちらに気づき、目を見開く。しかし、決してその印を解かず、真言を唱え続けている。宮子は彼の手をつかみ、印を解こうとした。が、手甲越しに触れる彼の腕は頑健で、びくともしない。
飛びかかった反動と宮子の体重が、すべて寛太へとかかる。彼は印を結んだまま、床へと倒れる。それでもなお、本尊を勧請する真言を唱えながら。
──その真言を唱えてはだめ。
床に打ちつけられた寛太に覆いかぶさるように体を重ね、宮子はその唇を自分の口でふさいだ。
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